願うのは、ただ君の幸せ

雨ノ森からもも

☆彡

 家を出てしばらく歩いたところで、誰かに後ろから肩を叩かれた。

 あいつだろうな、と思いながら振り返れば、やっぱり見慣れた真っ黒ロングヘア。

 目が合うと、

 ――お、は、よ、う。りゅ、う、せ、い。

 俺の顔を覗き込み、分かりやすいよう、一音一音ゆっくりと口の形を作ってから微笑む彼女。

 もう一年以上経つのに、この瞬間に出会うたび、胸の奥がチクリとうずく。

 あと一度だけでいいから、あの鈴の音のような声が聞きたい、と思ってしまう。しっかりと、鮮明に。

「おう。おはよ、流伽るか

 俺はそんな湿っぽい感情を押し殺して、快活に返す。

 あ、声、でかくなりすぎてないよな。

 やってしまった後でふいに沸き上がってきた不安を察するように、流伽は俺の右肩をぽんぽんと叩いて、当たり前のように隣を歩きだした。

 そして制服スカートのポケットをさぐり、スマホを取り出す。

 俺も瞬時に状況を呑み込み、真似てスマホを手に取ると、彼女とのチャットルームを開いた。

『流星、もうすぐ誕生日だね』

 送られてきたメッセージに、そういえば四月も半ばを過ぎたのか、と思い出す。

『十八歳かぁ。この前やっと追いついたばっかりなのにぃ……』

【お前は毎年何を嘆いてんだよ。んなこと言ったって、この差は一生縮まんねぇぞ?】

 彼女のメッセージに言葉で返答することも不可能ではないが、さっきみたいな挨拶でもない限り、文章のほうが何かとスムーズだし、ちゃんと会話している感じがして好きだ。それに、彼女との思い出が増えていくようで。

『そうなんだけどさぁ……』

 なんて返信した後、流伽はこちらに顔を向け、眉をへの字にして、より具体的に不満と落胆を表した。

 同級生だけど、四月二十二日生まれの俺と、三月十四日生まれの流伽とでは、約一年の差がある。だから、同い年になったと思ったら、またすぐに俺が追い越してしまうのだ。

【ところでお前さ、いい加減彼氏できたか?】

 唐突に話題を変えた俺に、彼女はぎょっとして、それから、呆れたように大きく肩を落とした。ため息でもついているのかもしれない。

『もうそれ何回目よ。できませんー! っていうか最近ますますしつこいな。なんなの?』

 そりゃそうだ。こいつには、俺以外のやつと幸せになってもらわないと困るから。

 保育園から高校まで離れることなく一緒で、家も歩いて行けるくらい近所で。

 流伽は誰にも渡さない。絶対に俺が幸せにするんだ。

 ずっと、そう思っていた――

 でも、事情が変わったんだ。あの夜に。


 ***


 物心ついたときから、とにかく、ただひたすらに、大事な存在だった。

 異性としてとか、家族とか、妹感覚とか、そういうんじゃなくて。

 もっと深いところで、大好きだった。

 俺には、あいつと生きる未来が、はっきりと見えていた。

 だから、保育園のときから「るかちゃんとけっこんする!」と本気で言っていたし、ほっぺにキスした記憶もある。

 流伽も最初はそんな俺を無邪気に受け入れ、公認の仲だったが、歳を重ねるにつれて彼女の態度はだんだん素っ気なくなっていった。

 そのうち、一緒に帰ってくれなくなって、必要がなければ話しかけてくれなくなった。

 当然と言えば当然だろう。思春期ってやつだ。男だとか女だとか、みんなにどう思われているか、なんてことを気にするようになる。

 きっと今の彼女にとっては、幼き日のあの約束も、かわいい恋愛ごっこの思い出でしかない。

 気づけば、友人に俺との関係を尋ねられたときの彼女の返答は「ただの幼馴染」から「腐れ縁」までランクダウンしていて、嫌われないようにある程度の距離は保っていたけれど、それでも俺の心は変わらなかった。

 ここまでくると、もはや俺がおかしいのかもしれない。

 中学に上がってしばらく経つと、周囲では次々にカップルができ始めた。だが、俺自身が五人きょうだいの一番上でわりと現実主義だったせいか、数ヶ月や数週間、下手をしたら数日で別れるバカップルを何組も見てきたせいか、あいつと付き合うならせめて高校――お互い十六歳になってから、と決めていた。

 俺はべつに、流伽とキャハハウフフしたいんじゃない。彼女との交際は、この先ずっとともに生きていくための、途中過程なのだ。

 そんなことを恥ずかしげもなく、大真面目に考えていた。

 今にして思えば、高校生になったからといって、急に将来を見据えた大人な恋愛ができるわけでもないのだけれど。

 当時はそれが、ひとつの大きな階段のように思えていた。


 そして迎えた、流伽の十六歳の誕生日。

 俺は夜空の下、妹にラッピングしてもらったホワイトチョコクッキーを手に、流伽の家へと急ぐ。本当はもっと早くに行くつもりだったのに、家事の手伝いをしていたらこんな時間になってしまった。

 今朝はめずらしく雪が降ったから、ところどころ路面が凍てついている。

 流伽はホワイトデー生まれなので、バレンタインに彼女から俺へ義理チョコが渡され、一ヶ月後にバースデープレゼントも兼ねてそれよりちょっといいお返しをするのが毎年恒例だった。

 高級なお返し兼プレゼント目当てだとは思うが、すっかり疎遠になって「ただの幼馴染」が「腐れ縁」にランクダウンしたみたいに「友チョコの余り」が「市販の量産品」に変わっても、このやり取りだけは続いていた。

 がっかりしていないと言えば嘘になるが、量産品のほうがかかった金額が分かりやすいし、こうして誕生日を祝えるだけでありがたいじゃないか。

 俺は自身を励ましながら、空を見上げた。

 深い藍色のキャンバスには、ぽつりぽつりと星が瞬いている。東京の控えめな星空も、捨てたもんじゃない。

 渡井わたらい流星。星名ほしな流伽。

 俺の名前はそのまんまだし、流伽も苗字と組み合わせれば「流れ星」が入っているので、幼い頃はよく「どっちが早く流れ星を見つけられるか勝負しよう」とふたりで近所の草っ原に寝転がって飽きもせず夜空を眺めたものだ。

 フルネームの画数が多いからテストのとき不利だ、なんて話もしたっけ?

 星に願うのは、今も昔もずっと同じ。ただ、あいつの幸せだ。

 まれに現れる流れ星に、三回唱えられたことはないけれど。

 願うだけじゃない。流伽は俺が幸せにする。俺が守る。

 今日は、そのための第一歩なのだ。

 もちろん、振られる可能性だってある。っていうかたぶん、現状そっちのほうが高い。

 それでも、行動しなければ何も変わらないのだ。

 本気でぶつければ、もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。

 振られたって、またアタックすればいい。……ストーカー認定されない程度に。

 あれこれ考えながら、マラソン選手のように一定のリズムで歩を進める。

 この角を曲がれば流伽の家だ、と思ったそのとき、

「――うわっ!」

 目の前に自転車が飛び出してきて、俺の意識はそこで途切れた。


 目が覚めると、両親の顔があった。

 意識がはっきりしてくるにつれ、ここはベッドの上で、自分は今病院にいるのだということが、じわじわと分かった。頭に包帯が巻かれているだろうことも。

 恐る恐る起き上がると、両親が口々に何か言った。

 でも、まったく聞き取れない。

 耳まで包帯で覆っているのだろうか。にしたって、少しくらい聞こえてもよさそうなものだが。

 俺の様子がおかしいことに気づいたのか、しきりに喋っていた両親は心配そうに口をつぐんだ。

 そんなふたりを横目に、怪訝に思いながら耳のあたりに手をやれば――当たったのは、ギョーザを作るときによく例えられる、やわらかな皮膚の感触。

 隠れてない。ある。ちゃんと穴まで確認する。

 ってことは――えっ……? はっ……?

 背筋が、ひやりとした。

 そんなバカな。嘘だろ?

「耳が、聞こえない……?」

 思わずこぼれた俺の呟きに、両親はさっと青ざめたかと思うと、次の瞬間、ふたりそろって出入り口のほうに視線を移した。

 見ると、開け放たれた出入り口に、流伽が立っている。

 それでまた絶望してしまった。――ドアを開ける音も、聞こえなかった。

 打ちひしがれる俺をよそに、流伽は目が合ったとたん、顔をくしゃくしゃにしてぽろぽろと涙をこぼし、こちらへ駆け寄ってくる。その足音も、やっぱり聞こえない。

 容赦ない現実から守るように、彼女にふわりと抱きしめられる。

「――た。――て」

 彼女のかすかな言葉が右耳の鼓膜を打ったけれど、どうしてもうまく聞き取れなかった。


 その後の検査で、俺の左耳は完全に失聴、右耳も耳もとに顔を近づけて話してもらえれば辛うじて語尾が聞こえるレベルの、重度の難聴になっていると判明した。

 飛び出してきた自転車に乗っていた男性の通報を受けて救急車が駆けつけたとき、俺は後頭部から血を流して倒れていたという。傍らには、袋に入ったまま粉々になったクッキーが落ちていたとか。

 ぶつかった拍子に頭部を強打し、そのせいで聴神経がかなりの衝撃を受けたらしい。

 たかが自転車事故だが、されど自転車事故。まさかこんなことになるなんて。

 医者いわく、打ちどころや衝突スピード、路面状況など、様々な不運が重なってしまったのだろうとのことだった。

 出血していたほどだ。もっと運が悪ければ、死んでいたかもしれない。

 こういうケースはしばらくすると改善したり治ったりする場合もあるから、と励まされもしたが、一向になんの好転もしないまま時間だけが過ぎていって。

 俺の耳が聞こえなくなって半年が経った頃、流伽は手話を覚えると言い出したが、俺はそれを全力で止めた。

 俺自身は事故の後、一ヶ月ほどで基本的な手話を覚えたけれど、結局のところ相手が理解できていないと意味がないので、ほとんど使わない。だからこそ覚えようとしてくれたのかもしれないが、チャットや筆談で事足りる。

 それに、手話での会話が成立してしまったら、俺はきっと、彼女が「発するもの」に注目しなくなる。

 あの日以来、口の形だけで言葉を読むのはなかなかに大変だけれど――でもそうやって、俺を気遣ってゆっくりと動く唇や、送られてくる文章に目を凝らして、俺は流伽の声を思い出すんだ。絶望の淵に立たされても腐らずにいられたのは、お前のおかげなんだ。

 俺の世界から音が消えた今でも、これだけは忘れたくない。薄れさせたくなんかない。だから……

「手話なんて覚えなくていいから、毎日俺に話しかけてくれよ」


 ***


 あのときの俺の言葉を律義に守っているのか、過保護になっているのかは分からないが、流伽はやたらとそばにいてくれることが多くなった。名前を呼んでくれる回数も増えた気がする。

 毎朝、今日みたいに家の前まで来ているし、下校後もこんなふうにしょっちゅう他愛もない話題が送られてくる。

『そういう流星はどうなのさ』

 おっ、ささやかな反撃。動揺させているつもりだろうか。

【はぁ? 俺? いるわけねぇだろ】

 俺が好きなのは、お前だけだっての。

 なんて本音は、胸の奥に閉じ込める。

 もう、この想いは、誰にも悟られちゃいけない。

 子供の頃のかわいい思い出でいい。俺は腐れ縁でいい。

 お前の王子様からは降りる。壊れた俺は、ふさわしくない。

『じゃあ人のこと言えないじゃーん』

【俺はいいんだよ】

 自分でも異常なんじゃないかと思うくらい、お前の幸せが俺の幸せなんだから。

 でも、そうだな。

 いつか、こいつのことを任せられる誰かが現れたら、俺も自分の新しい幸せについて考えてみてもいいかもしれない。

 まぁ、そんなのはまだまだ先の話であってほしいけれど。


 数日後、十八歳になった夜の八時頃、俺は幼い頃にちょくちょく来た、天体観測の穴場である草っ原に寝転がっていた。右隣には、流伽の姿もある。

 ふたりの、思い出の場所。

 ――りゅ、う、せ、い。ほ、し、み、に、い、こ。 

 ついさっき、彼女からお誘いがあったのだ。

【なんか、久しぶりだな。こういうの】

『ね、小さい頃思い出すー。にしても、流星の誕生日のたびに流星群がピークって、あらためてすごい偶然だよねー!』

 彼女の文面には、無邪気さと高揚が滲んでいる。

 俺の誕生日である四月二十二日頃は、毎年、こと座流星群が極大――活発になる時期をを迎える。

 例年の流星数はさほど多くないが、たまに突発的に増えることがあり、今年はそれにあたるらしい。

 ネットの情報によれば、今年のピークは明日の午後四時頃で、観測できるのは一時間に五個程度だという。

 とはいえ、穴場とは言いつつ近所だし、さすがにピーク時のふたり占めは難しい。穏やかな観測のため、早めに行って早めに帰る、というのが、昔からふたりの中での暗黙の了解だった。

 下弦の月の影響でやや条件は悪いものの、このくらいの時間帯からチャンスはあるようなので、ねばっていればひとつくらい見られるかもしれない。

『みて! こと座があんなにくっきり! さすがは今日の主役!」

 ハイテンションな文面の後、彼女が指さしたほうを見やると、控えめに散りばめられた星の中に、いっそう輝く一点がある。

 昔、天体図鑑を使ってふたりで競うようにして覚えたから、どこになんの星があるか、すぐに分かってしまう。

 こと座――ベガ。

 一途に妻を想い続けた末に自滅した、バカな男の星。まるで俺みたいだ。

 すると、ベガを示していた流伽の指が、ゆっくりと動き始める。

 てっきり、こと座を結ぶものかと思っていたら、まっすぐ右へ移動した。

 次に左下、そしてその斜線の真ん中より少し下あたりからもう一本右下へ。

 ス

 空気が、変わる。

 彼女の指は右隣へと移り、少し右上に傾いた平行線を一組描くと、それを上から貫いた。

 キ

 ――……

 目の前の状況が信じられず、小さく息を呑んだ俺に、彼女はほんのり頬を赤らめて優しくうなずく。

 ――メッセージ着信。

『あの夜に気づいた。もしも私の世界から流星がいなくなっちゃったら、こんなにも痛くて苦しいんだって。生きてて本当によかったって思った。ベタだけど、自分の中の大事なものに気づく瞬間って、そんなもんだよね』

『できるならすぐにでも伝えたかったけど、あの頃の流星は生きてるだけで精一杯って感じだったし、変な噂立てられても嫌だったから、ずっと、誰にも言えなかった。でももう』

 ――く、さ、れ、え、ん、じゃ、な、い、よ。

 なんだか気が抜けてしまった。

 人生最悪の出来事が、音と引き換えに、最上の未来の始まりをくれた――俺の願いを叶えただなんて。

「いいのか? 欠陥品の俺でも。お前はもっとまともなやつと……」

 文章にする余裕もない。

『何そのカッコ悪い返事。あんたがあんまり彼氏できたかって訊くから、どういうつもりなんだろうって、こっちはドキドキしてたのに。ともかく、私の誕生日台無しにした責任、取ってよね』

『人間なんて、みんなどっか欠けてるでしょ』

「そういうことじゃなくて……」

 ――い、い、の。そ、う、い、う、こ、と、で。

 流伽はそう言って距離を詰め、俺の右耳にそっと唇を寄せる。

 彼女の吐息が鼓膜を揺らす。息を吸う気配。

 顔が熱い。

 俺のほうがはるかに長い間、秘めていたはずなのに。

 二度も先を越されるのは悔しいから、同時におもいっきり叫んでやろうと思った。

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願うのは、ただ君の幸せ 雨ノ森からもも @umeno_an

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