第40話

 花音の目の前で美女、いや……村井 聖が艶やかに笑う。その笑みは恋する乙女のものというには妖しい気配を秘めていた。


(この人が、おにーさんのお嫁さん……?)


 妖しい香りに包まれた花音は聖が言った言葉の意味を内心で繰り返す。


(そんなの、おにーさん言ってなかった)


 聖の言葉を否定するための材料を探して花音は聖の内心を触れずに視るだけの限界まで深く読む。だが、彼女は嘘を言っていない。花音は指先から体温が失われていくかのような感覚に襲われる。


 しかし、ここで簡単に折れるほど花音は素直で愚かな少女ではなかった。


(でも……おにーさんは私たちと初対面の時、私のこと何も知らない時にも好きな人はいないって言ってた。それは本当のこと。それに、私が告白した時だって失恋してて今は恋愛どころじゃないって言ってた。それもまた本心……)


 認めたくない現実を前に、花音は不安で胸が押し潰されそうになりながらも高速で思考を巡らせ、組み立てる。


(おにーさんは嘘吐いてない。逆に、この人の様子はおかしい。何かが……何かがある)


 都合のいい考えかもしれない。だが、根拠が何もないわけじゃない。そもそも、妻を自称する割には村井と年単位で会っていない上に彼の話にすら上がって来てないではないか。様々な事実が花音の心を再構築していく。それに対し、聖は花音にスマホの背面を見せながら言った。


「心哉さん、私に会いに来てくれるみたいです。スマホは心哉さんに返しておきますから、みうちゃんはもう帰っていいですよ?」


 その言葉に、花音は逆転の芽を見た。視えたのだ。彼女が嘘をついたという色が。花音はそこを突いた。


「いや、おにーさんは私に会いに来るんでしょ? だって、私のスマホで会いたいって言ったんだから。あなたは私の名前を使っておにーさんを呼び出した。違う?」

「……細かいですねぇ。どうでもいいじゃないですか」

「少なくとも、私の名前を使って呼び出したなら私の無事な姿を見せないとダメだと思うよ?」

「……今から犬も食べない夫婦喧嘩をした後に未成年のみうちゃんたちに見せるにはまだ早い仲直りをするつもりなのだけど」


 正論を言う花音に聖は困った顔でそう告げる。相手にされていないどころか馬鹿にされている。だが、花音にとっては好都合だった。


「じゃあ、その喧嘩のところまででいいよ。私がいないと喧嘩どころじゃ済まないと思うからね」

「……まぁ、別にいいですけど」


 花音にはそこまで興味がないのだろう。聖は簡単に花音の同席を許可した。戦いの土俵には乗ることの出来た花音は聖とどう戦うべきか考えながら彼女と共に村井との待ち合わせ場所に向かう。


 一方、花音から連絡を受けた村井宅では。


「琴音、緊急で出かけて来る。俺が戻るまでこの家から一歩も外に出るなよ」

「どうしたの? 何か……」

「悪いが一刻を争うんだ。誰が来ても家の扉を開けるなよ? 花音でもだ」

「え、え……」


 困惑する琴音を尻目に村井は武装に平凡な見せかけの術を掛けて急いで外出の支度を整えていた。支度をしている間に事情を説明してもらいたい琴音だったが、村井には本当に余裕がないようで琴音の目もお構いなしに着替えて速足で外に向かう。


「いいか。絶対自分から誰かを招き入れるなよ? 花音がたまたま今日は鍵を忘れていたりなんてことはないからな」

「う、うん。ねぇ!」

「悪い、もう出る」


 琴音の言葉を遮って村井は玄関の扉に手をかける。それでも琴音は言った。


「せめてこれだけ! 絶対、無事に帰って来て……!」

「……覚えておく」


 それだけ言い残して村井は玄関から出て行った。残された琴音は不安になって花音にライムのメッセージを幾つも送るが今日は珍しく既読にならない。


「まさか……花音に何かあって?」


 琴音の頭を嫌なものが過ぎる。そろそろ花音が帰ってきてもおかしくない時間だというのにまだ帰ってきていない。学校も終わって仕事もないのに直帰しないというのは村井に引き取られてからの花音にはこれまでないことだった。


(どうしよう……花音に何かあったら、私……)


 琴音が悲観的な考えに至ったその時。ライムに既読がつき、花音から返信が返って来た。


「……? 何、これ」


 内容は一言。しかも、琴音の予想していないものだった。


「お兄さんの厄介ファンと戦うので帰るのが遅れます。お兄さんも一緒です……?」


 想定外過ぎて思わず音読した琴音。ファイティングしているゆるキャラのスタンプも送られて来た。


(……何かすれ違いが起きてるのかな? まぁ、無事そうだからいいけど)


 取り敢えず、何か琴音が思っていたより花音の事態は緊迫していないようだ。拍子抜けした琴音はゆるいスタンプを返して晩御飯の仕上げに移るのだった。


 聖とある種の戦いを繰り広げようとしている花音。そして、花音の連絡で脱力して夕飯の仕上げに入った琴音。呑気な少女二人とは別に村井は非常に焦っていた。


(まさか原作の暗躍者が何の前触れもなく花音に接触して来るとは……!)


 隠形、そして全身纏衣による自己強化と足場への移しをフルに使い、障害物を無視したショートカットを駆使して花音のスマホのGPSを追う村井。花音は下校中に何者かと接触したのか、かなり近い距離にいるのは間違いない。だが村井は相手の気配を掴むことが出来ていなかった。


(幽王の使徒、フォマ……原作では探偵側の主人公が探し求めていた謎多き女として記されていたが、何で急に……!)


 【昏き幽王の眠る町】本編で昏き幽王の復活のために暗躍していた謎の美女。それがフォマだった。彼女の目的は列島中で魑魅魍魎が蔓延っていた平安時代にこの地を支配していた昏き幽王の復活。そのためにフォマは昏き幽王を鎮めた巫女の血を引く二人を探して夕邑生町から来たのだろう。


(恐らく、奴の目的から察するに今回のターゲットは俺だな)


 村井が相手の目的を推察していると花音の隠形こそしているが、敵意を全く隠そうとはしていない巨大な異能が感知範囲に入る。目的地までもうすぐだ。その前に村井は自分の情報を多少なりとも整理した。


(昏き幽王の復活のためには花音と琴音の負の感情、そして絶望が必要だ。そのために助けを求めさせてそれを潰し、助けは来ないと思い知らせることが目的のはず)


 そうでなければ村井に連絡などせずに誘拐してしまえばいいだけの話。自分で言うのもなんだが、花音は自分に随分と懐いてくれている。目の前で殺すなどしなければ希望を捨てることはないだろう。それを感じ取ったフォマが希望を折りに来たに違いない。


(その判断、後悔させてやる……!)


 村井が獰猛な意思を強固にしていると目的地が見えて来た。奇しくもそこは琴音を連れ、伊海と初邂逅する時に指定したファミリーレストランだった。村井は苦々しい顔で少し離れたまま中を探知する。そして首を傾げた。


(……? 異能の気配がない? 仕込み型か? それとも協力者しかいないのか?)


 てっきり、中に居る客と思われる人々も敵と思っていた村井だが、自分の検知には異常が見当たらない。仕方がないので少々値は張るが、御伽林から買った探査呪具を使ってみる。


(異常なし……だが、知った顔が花音の隣に居やがるな……どういうことだ?)


 とんでもなく苦い顔になってしまう村井。嫌な予感を抱きながら彼はファミレスの扉を潜った。


「いらっしゃいませー、何名様でしょうか?」

「……先に入ってる人を待たせてるんで大丈夫です」

「畏まりましたー」


 適当なスタッフを尻目に村井は目立つ二人が待つ席へと向かう。そこで彼は敵意を露わにしながら怒りを押し殺した声で自分を待っていた人物の名を告げた。


「弓削……よくも俺の前に出て来やがったな……?」

「あぁ……」


 村井の顔を見て飼い主の帰りを待ちわびていた子犬のような態度で喜色満面の笑みを浮かべていたかと思うと声を聞いて涙を流し始める。そんな聖の様子を花音は困惑しながら、そして村井はすさまじく嫌そうな顔で見ているのだった。



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