第39話

 2020年5月8日の日が沈む頃。三日間のドームライブを終え、その後のゴールデンウイークを自宅で過ごした花音は学校から帰っている最中にあった。


(はぁ、毎日が休みだったらいいのに……)


 一昨日までゴールデンウイークという世間では長期休暇だった花音だが、今月一日から三日まではドームライブで働いていたし、先月末はライブのレッスン等で過酷なスケジュールでの労働をしていたので四日から六日まで休みだったとしても釣り合いが取れない気分だった。


(でも、明日と明後日はまた休みだから)


 明日からの休息を思い浮かべて花音は何とか気を取り直す。本当はライブ後の打ち上げラジオ等に出て欲しいと事務所からは言われていたが、そういった仕事はいつも通り3Cの面々に投げて花音はパスしていた。3Cの面々は出番が増えると喜んでいたし、花音は楽出来るし、互いにwin-winだ。


(お姉ちゃんも何か私が頑張ってるのを見て勇気出たって言って来週の休校明けからまた登校するみたいだし、残る問題は……)


 いいことをした後の週末。後顧の憂いを絶ち、のびやかな休息を得るために花音に必要なことがあった。それは。


(後ろの誰かを何とかしないとね)


 自分の後をつけている何者かの処理。これを行わなければ平和な日常を送ることもままならない。花音は携帯電話を片手にその場で足を止めた。そして少しだけいつもより低い声で後方に呼びかける。


「素直にその場で姿を見せなければ通報します」


 相手を視て初手さえ自分のものにすればどうにでも出来る。最悪の場合でも村井を呼ぶ準備は出来ている。そう考えての行動。そして花音の前に現れたのは―――


「そんなに怖い顔をしないでください。私はちょっとお話をしたいだけです」

「……誰ですか?」


 花音がこれまで見たことのない美女だった。


 ぱっと見ただけですらりと伸びた足に抜群のプロポーションをしている彼女。長く艶やかな黒髪の下には自分たちとは別系統だが、神々に愛されたような美貌を白雪の如き肌の上に寸分の狂いなく揃えている。

 だが、花音にとってはそんなことどうでもよかった。一々美しい顔で驚いていたら毎日姉や鏡の前で気を動転させなければならない。


 そんな外見よりも花音が視て驚いたのは彼女の内心だ。何かを求めて激しく脈打つ赤い心。花音がこれまで見たことのない反応……


(いや、これは……この色は……)


 違う。花音はこの心の色を見たことがある。それは幸せな日常を迎えるよりも前のことだ。あまり思い出したくない記憶の蓋を外し、花音がその心の意味を思い出す。


 ―――それよりも前に目の前の美しい女性は笑顔でその花唇を開いた。


「まずは、先日までのドームライブ。お疲れ様でした。とても可愛かったですよ? みうさん」

「……どーも」


 今ちょっとあなたの心の状態を思い出そうとしているのだから黙っていて欲しい。そう思う花音だが、相手が今まで見たことのない状態であるが、よく似た感情の色をした人がすぐに暴走したことを踏まえると無視も出来ない。表面上は穏やかにしつつ相手の状態を探るしかなかった。そんな花音に女性は笑顔のまま話を続ける。


「本当に素晴らしかった。妬みや嫉妬であらぬ疑いをかけられていて可哀想です」

「……業界の常ですから、それよりも私に話があって来たのでは?」

「そうですね。実はあなたにはあまり……あぁ、一応ありました。あまり親しい人を信じ過ぎていると足元を掬われますよ?」

「……わざわざありがとうございます」


 一応、先程から本心で話しているらしい女性の言葉に耳を傾ける花音。いい加減に相手の本心を読んで対処したいのだが、相手の表面上の感情がころころと変わる上、意味深なことを言ってくるので一々それに付き合わなくてはいけない。


(どうせ、3Cの誰か……佐伯さん辺りが割り切れない思いを抱えてあの振り付けの人に愚痴ってちょっとややこしいことになったんでしょ。ライブの打ち上げラジオを引き受けてくれる時に引け目みたいなのを感じてたみたいだし)


 女性が言っている言葉は花音には既に心当たりのあるものだ。正直、家族以外に何と思われようとも花音は気にしない。いや、多少は気にするかもしれないがその分は家族から取り戻すつもりだ。


 だから、女性が言った次の言葉は花音の不意を強く打つことが出来た。


「村井さんを信じすぎてはダメですよ?」

「は?」


 不意を衝かれた花音の目つきが自然と鋭くなる。大事な家族のことを見ず知らずの他人から信じるなと言われたのだから仕方のないことだ。しかし、花音は女性が本心から先程の言葉を言っているのを視て取り、困惑することになる。


「……何を言ってるんですか?」

「経験に基いた話を。彼は、酷い人ですから」

「……おにーさんのどこが酷い」


 瞬間。


 花音は目の前の女性の赤い心が炸裂したかのような幻視をした。少し遅れて、花音は自分が大きなミスを犯したことを悟る。


「おにーさん。貴女今、村井さんのことをおにーさんと、親し気に言いましたね?」


 笑顔だった女性はほんの少しだけ目を開いて花音に問いかける。その目はどこまでも深い闇に染まっていた。凄まじい圧力が花音の身体に襲い掛かる。しかし、彼女は気丈に言い返した。


「そうだよ。村井さんは私の大事なおにーさんだよ。あなたが何をしようとしてるか知らないけど、呼んだらすぐに助けに来てくれるんだから」


 花音はスマホをぎゅっと握りしめて女性と対峙する。だが、目の前の女性はそんな花音の様子などまったく気にしていないようだ。とても嬉しそうに言葉を返す。


「呼んだら、すぐに来てくれる。素晴らしい……! 今すぐ呼んでくれませんか? さぁ、早く! 私の下に彼を連れてきてください! 早く!」


 狂気を滲ませて女性は花音の目前にまで一瞬で寄せて来た。素晴らしくいい香りがするが花音にとってはそれどころではない。これは、この女性の目的は自分ではなく村井。それを理解するや否や異能を使って即座に駆け出していた。


「あら、凄い異能量ですね」

「っ!」


 驚く女性。しかし、女性はいとも容易く花音の腕を掴むことに成功していた。即座に振り解きにかかる花音だが、その手にあったスマホが奪われる。


「返して!」

「勿論です。用事が済んだらすぐに返しますよ」


 花音の方を見向きもせずに女性はライムの画面に文字を入力していく。花音はすぐに取り返そうと動いた。


「今すぐ返して!」

「彼が来たらすぐにでもお返ししますよ」


 ライムの画面だけを見たまま花音の奪取の動作を軽く躱した女性はにっこり笑ってスマホを内ポケットの中にしまう。上機嫌な女性を花音は睨みつけながら厳しい口調で問いかけた。


「あなたは何がしたいんですか?」

「そうですね……まぁ、あなたはもう他人ではなさそうなので言ってもいいですか」


 そう言って彼女はようやく花音の方を見てにこやかに告げる。


「夫婦喧嘩に巻き込んでしまってごめんなさい。私は村井 聖。心哉さんの妻です」


 空気が固まった。そして花音は女性の心の色に似た色をいつ見たのか思い出す。


(あ……これ……)


 彼女の母親が父親に向けていた感情、もしくはあの日の邪教の信者が邪神に向けていた感情とでも言うべきもの。


(毒々しいまでの独占欲、そして……)


 愛情だ。


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