第38話
「お兄さん、何してるの?」
「ん? ちょっと仮想通貨の相場をな……どうかしたか?」
「……また、お外に出ようと思って」
2020年の4月も末。新学期が始まってしばらくし、そろそろゴールデンウイークに差し掛かろうとする頃。卒業旅行の一件で心的要因から外出を拒むようになっていた琴音は回復期に入っていた。
「そうか。じゃあ、出かける準備をするからちょっと待っててくれ」
「うん」
高校入試でトップの成績を収め、特待生として高校に通うことが決まっていたのに伊海のせいで高校のスタートを台無しにされた琴音。
村井の知る世界ではこの時期は新型感染症の流行によって全国的に休校が目立つ頃だと思い、この時期に限って言えば不登校でも勉強さえしていれば大した問題でないと考えていたのだが、この世界では新型感染症はそこまで猛威を振るっていないので当てが外れてしまっている。
それでもちらほらと感染者が出ることで休校が多少あったため、このまま行けば琴音が留年することもなさそうだ。
それよりも村井の心配は今見ていた仮想通貨の方にあった。
(……大丈夫だよな?)
新型感染症の流行に伴う世界的な経済不況ヘの対策金が大量に流入することで相場が上がるはずの仮想通貨の相場。しかし、現状は既に経済が再生の兆しを見せているため、大規模な経済対策が打ち出されるかどうかが怪しくなってきた。
(問題は来年のアメリカの動きなんだが……今の内にある程度、利確しておくか?)
思っていたよりも経済対策の規模が小さいと購入時に比べて価格は高騰している今の時点で撤退も視野に入れておかなければならない。そう思いながら村井は仮想通貨のチャートと記事の確認を止め、琴音との外出のために軽く着替える。
「よし、行くか」
「うん」
財布や鍵を持って外に出る二人。今は花音か村井がいれば琴音は外出にも出られるようになっている。事件後から四月初旬にかけての琴音は家にいても二人の姿が両方とも見えなければ不安で電話して来るレベルだったので、それを考えると格段と状況はよくなっていた。
「春ですねぇ」
「来週は25℃超えるらしいぞ」
「……来週の花音のドームライブ、暑そうだなぁ」
「まぁ……でもここ最近の花音の頑張りを見てやらないといけないし、バルコニー席が既に準備されてるし……」
(後、行かないと滅茶苦茶拗ねるだろうし……)
今日も今日とてレッスンに明け暮れている花音のことを考えると多少の暑さ程度で行きたくないなどと文句は言えない。そんなことを話していると件の花音からライムで連絡が来た。どうやら迎えに来てほしいようだ。
「お兄さん?」
「花音が迎えに来てだってさ。明日はゲネだし、今日は軽めの練習で終わりらしい。どうする? 事務所の送迎で帰って貰うか?」
「……そう、ですね」
琴音は少し悩んだ。自分の精神状態が思わしくないということで、ここ最近は花音から村井を取り上げている状況だ。明日はドームでのゲネ、そして明後日からドームライブを控えている花音のことを考えると多少なりとも元気を与えたい。
「……あの、一緒に行きませんか?」
「ん? 俺はいいが……大丈夫か?」
「はい。どの道、明日のゲネプロから花音を見に行くので、心の準備をしないといけないですし……お礼も言わないといけないので」
「そうか……まぁ、念のため中庸薬は渡しておくから、上手く使ってくれ」
精神安定の霊薬を渡して村井は琴音を連れたままタクシーを呼んだ。ライムで花音に琴音と一緒に事務所に向かう旨を伝えると琴音のスマホに通知音が鳴る。しばらく琴音と花音でやり取りしている内にタクシーが二人の下に到着した。
「大丈夫か?」
「あ、うん。ゲネプロに呼んだのは花音でしょ? で押し切っちゃうから」
「……仲良くしろよ?」
「大丈夫ですって」
珍しく強気の琴音と一緒に二人はタクシーに乗り込んで芸能事務所まで移動する。その間、ドライバーの目が何度も琴音に向かっていたが、琴音は村井の服の裾を掴みこそすれどもパニックに陥ることなく落ち着いて事務所に到着した。
(流石に大手芸能事務所のレッスン場ともなると、琴音を見ても騒ぐことはないな)
レッスン場にはそれなりの人がいたが、それほど琴音を見て来る人はいない。既に見慣れた受付嬢と受付を済ませると二人はレッスン場へと足を踏み入れる。
「お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です。そちらの方は?」
二の句を継がせない勢いで泉プロデューサーが琴音を見て尋ねて来た。村井が少し面食らっている間に琴音が自己紹介する。
「花音がいつもお世話になってます。姉の琴音です」
「……! 琴音さん、芸能活動にご興味は?」
「え、いや、あの、私はいいです」
「泉さん、圧が出てます。圧が」
表面上は苦笑で済ませながらも素早く琴音と泉の間に割って入る村井。琴音はさっと村井の影に隠れながらも一応、妹がお世話になっている相手だということでお礼は言わなければと頑張る。
「あの、今日は花音のライブにご招待いただいたお礼を言いに来ただけで、私は芸能活動しないので……」
「勿体ない! 何でですか!? いいじゃないですか姉妹デビュー!」
「いや、大丈夫です……」
「ちょうどいいところに今日はSVPがここにいるんですよ! ちょっと呼んで来ますので!」
(そんな気軽に呼べる人じゃないだろ……)
意味は分からないが何となく偉い人だということぐらいは分かっている村井が内心で突っ込む。ただ、それを表に出すよりも前に騒ぎを聞きつけた花音たちがこの場にやって来た。
「あ、お姉ちゃん」
「うっそ、姉妹揃って可愛すぎないですか? どうなってるんですか?」
花音の言葉に一早く反応したのは七条りあむだ。彼女は興味津々で琴音を見て鼻息を荒くしている。七条と同じユニットの佐伯や有川も琴音を見て隠し切れない興味の視線を向けている。
そんな中、泉が花音に声をかける。
「あ、みうちゃん! お姉さんをこの場に引き留めておいて! 僕は大谷さん呼んで来るから!」
「泉さん、残念なことにお姉ちゃんは芸能活動したくないらしいので無理強いしないでください」
「こんなに可愛いのに! 絶対人気出るのに! ミュージシャンでも女優でも何でもいいので弊社のタレントになってくださいよ!」
「泉さん、しつこいキャッチみたいになってますよ」
大声を出しながら頭を下げる泉を村井はやんわりと窘める。そんな中、花音だけは泉の思惑を読み取っていた。この男はこの場で騒ぐことで先程までこの場にいて今は別室にいる大谷SVPを呼び寄せようとしているのだ。
「おにーさん、お姉ちゃん、泉さんのことはいいから帰ろう」
「まぁ、そうだな」
「え、いいの?」
「後は七条さんが何とかするから」
「わ、私ですかぁ!?」
適当に投げられたりあむが声をあげる。そんな彼女に花音は笑顔で一言。
「りあむ、お願いね?」
「はいっ! 不肖りあむ、承りました!」
チームメイトでも滅多に向けられることのない花音の笑顔。加えて名前を呼び捨てにされることで推しメーターが振り切れたりあむは無条件反射で命令を受諾した。
「よし。じゃあ有川さん、佐伯さん。後はよろしくお願いします」
「……分かりました」
「お姉ちゃん、行くよ」
速やかにこの場から逃げる村井家の一行。
(私たちが努力してやっと掴もうとしている道をあんな簡単に……)
そんな一行の後姿を複雑な心境で3Cの面々は見送る。
「で、二人とも! みうちゃんに頼まれたけどどうすればいいと思う!?」
―――花音に呼び捨てにされた興奮冷めやらぬりあむを除いて。
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