第34話

 琴音が霧の世界に閉じ込められて五十時間が経過した。琴音が伊海に水を絶たれて丸一日以上経過した形になる。琴音は疲労と脱水症状から意識をぼんやりとさせつつ固定位置と化した木の根の上に座っていた。

 そんな彼女の下に伊海がやって来る。その手には桶があった。彼がこの場に運んできた時の音からして水が入っているのだろう。しかし、どうせ素直にくれる訳がないので琴音は伊海を一瞥だけしてぼんやりと虚空を眺める状態に戻った。


「こんなところで何してるんだよ。昨日からお風呂に入ってないでしょ? ちゃんとお風呂に入りなよ」


 ちょっと苛立った態度で琴音の様子を見に外に出て来た伊海が一方的に言葉を投げつけて来た。誰のせいでこんな状況に陥っていると思っているのかと言わんばかりの恨みの篭った目で琴音は彼を睨むが、彼女に出来るのはそれだけだ。伊海と話すことで失われる水分すら惜しかった。


「はぁ……仕方ないなぁ。ほらシャワーだよ!」


 無言を貫く琴音と話そうとしても無意味だと思ったのか、伊海は琴音の頭から桶の水を被せる。疲労困憊の琴音にそれを避けるだけの元気はなく、もろに水を浴びた。

 しかも、何故か桶から流れる水の勢いが減ることはない。それを理解しているようで伊海は満遍なく水をかけて来る。程なくして琴音は全身ずぶぬれになった。


「はい、タオル。汚れ落として」


 濡れ鼠になったところで伊海は琴音に手拭いを差し出す。当然だが琴音はその手を拒絶し、振り払った。ただ、恨みを込めた一撃も最早か弱いものだ。伊海は動じる事なく苦笑する。


「そのままだと風邪ひくよ? ほら、僕の部屋においでよ。拭いてあげるから」


 そう言って琴音の手を引いて立ち上がらせようとする伊海。琴音は再度無言で伊海の手を振り払う。そんな彼女の様子を見て伊海は大袈裟に溜息を吐いた。


「はぁ、強情だなぁ。もう……仕方ない。今だけの大サービスだよ琴音ちゃん。今日からキスしないと水をあげないと言ったけど、頬にキスだけで今回だけ。そう、今回だけだよ? 食べ物付きで水をあげるよ」


 伊海を拒絶する以外に反応を見せなかった琴音が少しだけ反応した。この機を逃すほど伊海も馬鹿ではない。畳みかけるように続けた。


「今からお風呂に入って、僕にキスしたら温かいご飯と飲み物が貰える上、今日だけは寝てる時に僕から手を出すことはないと約束しようじゃないか。どうかな? 今回だけの出血大サービスだよ」

「う……」


 飢えと渇きに苛まれている琴音には抗いがたい魅力を感じる提案だった。少し迷いが生じる。その迷いに伊海はつけ込んだ。


「さっきも言ったけど、今回だけだからね? これを断るなら口づけじゃないと水もあげないし、ご飯はそれ以上じゃないとあげない」

「最低……そこまでして何が楽しいの?」

「ここまでさせてるのは琴音ちゃんの方だよ? 大人しく僕の好意を受け取っておけばこうならなくて済んだのに」

「何が好意なの……? やってることは嫌がらせ、ううん。虐めじゃん」


 水の中に涙を滲ませて琴音はそう告げる。頭から掛けられた水も貴重な水分だが、それも口に入ると消滅してしまう。無意識でも嫌がらせから恩恵を得ようとしたことに自己嫌悪する琴音に伊海は投げやりに告げた。


「僕って好きな子に意地悪したくなるタイプなんだよね。ま、そんなことはどうでもいいからお風呂入ったら? 風邪、引きたくないでしょ? お風呂に入ることで身体の水分が減ることを嫌がってるなら茶碗一杯分だけ無条件で水をあげるからさ」


 典型的なフットインザドアの手法だ。伊海は琴音に小さな一歩を踏み出させることで次回からの要求を通しやすくしようとしている。次の一歩が頬へのキス。そして、更に次はマウストゥマウス、そして更に更にと発展させていこうという腹積もりなのだろう。


「……貸しとか思わないでよ。こんなところに閉じ込めたのはあなただし、私をずぶ濡れにしたのもあなただから」

「分かってるよ。だからお風呂に入ってゆっくりと考えてね? 今回だけのサービスをどうするか」


 そんな心理学の初歩的な罠も知らない琴音は伊海の提案を受けて苦々しい顔になりながらも立ち上がり、彼の後について屋敷に向かう。

 そのまま濡れ鼠となっている琴音は何も言わずに露天風呂に直行して脱衣所に服を置くと身体を洗って汚れを落とし、身体を温めた。


(……何で私はこんな目に遭わないといけないんだろう。いい子にしてるのに)


 水分不足の状態で温泉に入り、更に身体の水分を失ったことで朦朧としながら琴音は落ち込む。飢渇でもう思考は滅茶苦茶だった。ただ分かるのは自分が危機的状態にあり、空腹だと言うことだ。


(おなか、すいた)


 身体の水分が減っていることですぐにのぼせてしまう。琴音は意識が薄れたことですぐに危険を感じて温泉から出た。そして謎に乾燥している服を身に着けてから脱衣所を出ると伊海から水を貰う。


「ふふ、湯上り美人だねぇ。それで? しっかり考えられたかな?」

「全然」

「ふーん、じゃあ後三分だけ待ってあげるよ。さっさと決めて?」


 にやにや笑いながら伊海は琴音の決断を促す。詐欺師などがよく行う、制限時間を設けることで焦らせて思考力を削ぐ手法だ。更に伊海は追い打ちをかける。


「何を悩んでるのか分からないけど、答えは決まってるんじゃないかな? 今回だけの大チャンスだよ。ここで断ると次からはもっと大変だよ? いつまでも断り続けることは出来ないんだからさ」

「う……」

「簡単な計算だよ。旅館から都内の君の保護者に連絡が行くのが二十時過ぎ。そんな時間だと電車の本数も減ってるだろうし、急いできたとしても真夜中。捜索は翌日の朝になるだろ? まぁ、明朝から始めたとして朝の六時と仮定すると……その時点で十八時間。この中の時間に換算すると九十時間だよ? 最短で見つけられたとしても今で大体折り返し。【異能】を使えない琴音ちゃんに耐えられると思ってるの?」


 無理だ。何度か水を補給して迎えた昨日から今日にかけての一日ですら琴音は絶望を味わった。水筒の水も日をまたいだ時点でなくなっていた今の状況でもう一日乗り越えられるとは思えない。


「だからさ、必要経費だと思ってさっさとキスしたら? 誰も見てないし、死にたくないでしょ? 花音ちゃんたちにまた会いたいでしょ?」

「うぅ……」

「さて、言いたいことは言ったし、後十秒以内にするかしないか決めてくれるかな? あんまり長引かせても意味ないし」

「そんな」


 まだ時間はあったのに。琴音がそう言う間に伊海はカウントダウンを始めた。


 少し早いカウントダウン。琴音は、折れた。


「わ、分かったよ……キスします」

「よしよし、まぁそれでいいよ。よかったね? 僕が優しくて」

「うぅ……」

「さて、約束のご飯だけど……頬にキスだとこれくらいかな? キスした後に食べていいよ」


 一汁一菜。質素な和食が並べられる。それを尻目に琴音は伊海のすぐ隣に座り、顔を近づけた。


「絶対、こっち向かないで」

「ふふふ、どうしようかな?」


 上機嫌な伊海。琴音は口同士のキスにだけはならないように彼の顔を手で固定して覚悟を決めた。


 その時だった。


「……何だ。心配して損した」

「っ!」


 声が聞こえた。弾かれたように二人は声がした方を見る。そこに居たのは。


「お兄さん!」


 村井がいた。だが、彼は死んだ魚の目をして続けた。


「邪魔したな」

「え」


 琴音が呼び止める間もなく、村井は背を向け……


「おにーさん!? 何してるの!」


 花音の叫ぶ声が聞こえた。同時に、彼女もこの場に現れた。そしてそのまま彼女は村井の服を掴んで村井を揺すった。それに伴いすぐに村井の瞳にハイライトが戻る。


「っ! あ、あぁ……ちょっとやられてた」

「しっかりしてよ! もう! お姉ちゃん! 大丈夫!?」

「う、うぇ……」


 安堵のあまりその場に崩れ落ち、滂沱の涙を流す琴音。その様子を伊海は憎々し気に見るのだった。



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