第33話

 琴音が霧の世界に閉じ込められて二十時間が経過した。未だに霧の世界に囚われたままの琴音は伊海を警戒して一睡も出来ずに体力を消耗した状態で伊海のいる平屋を訪ねていた。


「ふわぁ~あぁ……そろそろ諦める気になったかい?」

「……水、取りに来ただけ」


 大欠伸をしながら琴音を迎える伊海。琴音はぶっきらぼうに彼の言葉に応じて水筒を見せて水瓶の前で俯いた。

 十時間程前、霧の中をどう進んでも平屋の前に戻って来ることが判明してから琴音は根負けして伊海に頭を下げて平屋を探索し、炊事場で水瓶を発見していた。その水が今の琴音の生命線となっている。ただ、その生命線は目の前の男に握られていた。


「おやおや、そんな反抗的な態度だとあげてたものもあげたくなくなっちゃうなぁ。誠意が足りないんじゃない?」

「うるさい、げす」


 いらいらしながら琴音は伊海の目の前で水瓶から柄杓を使って水筒に水を汲んだ。伊海はそれを見ながらおにぎりを頬張っている。彼からおにぎりを奪いたいが、この平屋にある全てのものは何故か彼の所有物となっており、【異能】を使えない琴音ではそのルールを突破することは出来なかった。水も恵んで貰っている有様だ。


「あーあ、また反抗的な態度取っちゃって。いいのかな? 水だって僕が許可してるから飲めるのに。あんまり酷いとこれも許可制にしよっかなぁ?」

「……酷いのは、どっち? さっさと家に帰らせて」

「酷いのは頑なに僕を拒む琴音ちゃんじゃないかな? あ、そろそろ一日目が終わるから明日からは水も許可制ね? 僕にキスしてくれたらそこの水飲んでいいよ」

「っ……!」


 最悪な提案を平然と行う伊海。琴音は様々な感情が昂って涙をこぼす。そんな彼女を見て嗜虐的な気分になったのか、笑みを浮かべながら伊海は続けた。


「あ、もちろんお風呂とトイレは自由にしていいよ。水は飲んだらダメだけど、琴音ちゃんには綺麗にしててほしいからね。汚いとヤる時萎えるし」

「誰が……!」

「ふふふ、いつまでそんな態度が取れるかな~? ま、気が変わったらいつでも言いに来て。キスだけじゃなくてセックスの申し出でも大歓迎だから。んじゃ、僕は部屋でのんびり過ごしてるから」


 琴音が水を汲み終わったのを見届けて伊海は背を向けて去っていく。琴音は悲しさと屈辱感でいっぱいになったが、涙を拭って平屋を出た。


(……最悪)


 定位置となっている木の根に腰を下ろして琴音は蹲る。楽しみだった旅行は最悪の状態に塗り潰され、飢えと渇きに苛まれるという悲惨な状況に追い込まれていた。


(何とか、あの屋敷の謎を解かないと……でも、今の私じゃどうしようも……)


 村井であればもっと強硬手段に出ただろう、花音であれば伊海の心を暴いてもっと上手く立ち回っただろう。だが、ここにいるのは琴音だ。常識を捨てきれない、性根が歪んでいない女の子。甘い考えを捨て切れずに我慢してしまう心優しい子だった。

 そして琴音がそんな性格であることを伊海も【昏き幽王の眠る町-カイ-】を読んで理解していた。もっと言うのであれば、原作では琴音が自分のことを卑下しており、身体を差し出して諸角に保護を求めていたことも知っている。そのため、今回の暴挙に出れば簡単にその身を差し出して来るだろうと思っていたのだった。


(水を自由に飲めるのも後四時間だけ……その後は……)


 これまでは伊海の思い通りになってたまるかという思いで水を貰うことすら控えていたが、今後はただ水を貰うだけでもそれ以上の屈辱を味わうことが確定づけられてしまった。しかもエスカレートするのは目に見えている。


(お兄さん、早く来て……!)


 琴音に出来ることは祈ることだけだった。





「もしもし?」


 ところ変わって都内。村井は携帯がマナーモードで震えたのを確認して花音が練習に励んでいるレッスンルームから出て電話を取った。


『あの、村井さんですよね? お宅のお嬢さんが湖の近くで急にいなくなって探しても見つからないと矢部さんのお子さんから連絡がありまして……』

「はぁ?」


 電話の相手は旅館の女将、湯本の親戚だった。村井が女将の言葉に困惑していると彼女は焦ったように続ける。


『最初は迷子になったのかと思って連絡を取ろうとしたのですが圏外でして、しかも伊海君からは琴音ちゃんと駆け落ちしますって連絡があって……』


(チッ……人目もあるってのに何か仕掛けて来たか?)


 平穏な日常の中に居たことで平和ボケしていたかもしれないと村井は内心で舌打ちする。伊海にはそんな大それた真似は出来そうにないと見くびっていたのが仇と出たようだ。女将が事情を話している間に村井は時間を確認する。


「わかりました。移動しながら話は聞きます。すぐにそちらに向かうので」

『お願いします。警察は本人たちが失踪宣言してるから民事で介入出来ないって言うし、ホントいつも偉そうにしておきながらこういう時に役に立ってくれないと……』


(愚痴は後にしてくれ!)


 どうやら警察に思うところがあるらしい湯本家の女将。だが、今はそれどころではないと村井は一度電話を切ってすぐに今から乗れそうな新幹線の予約を取り、花音がいるレッスンルームに戻った。


「ちょっとすみません、緊急の用件が入ったので外します」

「あ、わかりました」

「花音にはタクシーで家に帰るように言っておいてください」

「はい」


 短く、近くにいた泉プロデューサーに花音への伝言を頼むと村井はレッスンルームを後にしようとする。しかし、その後姿を花音が呼び止めた。


「おにーさん! どこ行くの!」

「ちょっと問題発生だ。悪いけど花音はいい子にしててくれ」

「私も行く」


 練習を中断して花音は村井の方に駆け寄った。そして小声で告げる。


「何の問題?」

「伊海がやりやがった。琴音をどっかに連れ去ったらしい。何をするつもりか分からない以上、すぐに行かないといけない」


 緊迫した様子の村井に花音も表情を改めた。


「私も行く。お姉ちゃんを探さないと。人手はあった方がいいでしょ?」

「スマホのGPS履歴と【探知】を使えば一人でもすぐに見つけられる。危ないからレッスンが終わったら家で待ってろ」

「でも……」

「悪いけど電車の時間がすぐだからもう行くぞ。じゃあな」


 今度こそ村井はレッスンルームを後にしようとする。しかし、後ろから上着の裾を引かれて止まった。


「花音」

「私も行く。伊海って人と戦いながらお姉ちゃんを守ることになったらおにーさんでも危ないかもしれないから」

「……分かった。じゃあ先に行ってる。花音はここの人たちを納得させてから付いて来い」

「分かった」


 先行してこの場を去ることにした村井。建物から出るとすぐに隠形を使って全速力で駅に入ると電車を待つ。何度かの乗り換えの後に村井は新幹線が来るホームに到着した。


(チッ……乗り継ぎの悪いタイミングだったな。琴音の友人や旅館の人たちには悪いが、自分たちで探すより先に連絡して欲しかった)


 村井は女将からの連絡で知った事実に内心で苦々しさを覚えながら花音とスマホで連絡を取る。そして新幹線が来たと思ったところで花音が追いついた。


「おにーさん、おまたせ」

「早過ぎるだろ……」

「ごめんなさい。ちょっと焦って【異能】の制御ミスっちゃった。でも、お蔭で早く来れたから」

「……今回は仕方ない。乗るぞ」


 どういう形で【異能】の制御をミスったのかは分からないが、最愛の姉の危機だ。多少は目を瞑ることにして村井たちは琴音を探しに向かうのだった。



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