第32話

 伊海から逃れた琴音は先行する矢部と共に湖から少し離れた山中の方へと移動していた。周囲は山に囲われているが、そこまで深いところに入ることはなく伊海たちをやり過ごすために湖近くの史跡をうろついている形だ。

 ただ、琴音は少し気になることがあった。それは先行する矢部について行っていると段々と湖の方から離れていることだ。戻り時間のことを考えるとそろそろ湖の方に戻らなければ合流に遅れてしまう。そう考えた琴音は大きな杉の木をしげしげと見ている矢部に声をかけた。


「矢部ちゃん、湖から少し離れ過ぎじゃない?」

「んー、もうちょっと、ね」

「そう言って結構歩いたよ? そろそろ戻らないと……」

「ねー、見て。おっきい穴! 何か見えないかなぁ」


 矢部がそう言って杉の木のうろを覗いた次の瞬間。辺りに妙な気配が漂い始めた。


「矢部ちゃん、こっち。すぐにそこから離れて」

「あはは。どうしたの? ことねぇ。こっちにおいでよ」


 楽しそうに笑っている矢部。緊迫している琴音に対して明らかに様子がおかしい。そして、琴音は遅まきながら気付いた。


(~ッ! 矢部ちゃんじゃ、ない!)


「【他者纏衣たしゃてんい】!」


 異能の【移し】の内、少し特殊な技を使って琴音は矢部を正気に戻す。


「あれ? 私……」

「でも、もう遅い」


 不意に男の声がした。琴音にとって聞き覚えのある嫌いな声だ。周囲を見れば濃霧が漂い始めていた。現状、声の主は見えない。それでも琴音には声の主が嫌いな相手であることが分かった。


「……伊海君、今ならまだ許してあげるから外に出してくれる?」

「ふふふ、今の言葉だけでちょっと興奮しちゃうな。でもダメだよ。琴音ちゃん、君には僕と一緒になって貰うからね」


 気持ち悪い言い草に琴音は鳥肌が立った。しかし、それどころではない。周囲の霧は更に濃くなり、一寸先すら見通せないような状況になっていた。


「矢部ちゃん! いる!?」


 友人の安否を確認する琴音。しかし、彼女から返事はない。代わりに不気味な笑い声が帰って来た。


「ふふふ……ここには僕と君だけだよ。琴音ちゃん」


(よかった。巻き込んではなかった……)


 危険な状況に友人を巻き込んではいなかった。その事実にほんの僅かにだが琴音は安堵した。しかし、状況が好転した訳ではない。琴音は現状を変えるために少しでも情報を得ようと嫌々ながら伊海に問いかける。


「……私が飛ばされたのは分かる。けど、ここはどこ? 何が目的なの?」

「知りたい? なら、教えてあげるよ。ここは永享えいきょうの乱で君のご先祖様の軍勢が敗けた地。多数の怨霊と……そして、君たちの家を案じる者が眠っている地だ」

「……私たちのことを案じてくれてるなら出して欲しいんだけど」

「ククク……永享の乱の時代を考えなよ。室町時代だよ? 武家の女なんて世継ぎを産む道具さ。言ったろう? 君たちの家を案じる者が眠っているってね。琴音ちゃんのことを案じてる訳じゃない。あくまで、幸手一色家のことを案じてる者だよ」


 嘲るように笑う伊海に琴音は結構苛立った。これは流石に実力行使に出てもいい。そう考えた次の瞬間、霧が晴れた。そして目の前には謎の平屋と伊海が立っている。


 琴音と目が合うと伊海は笑った。


「ふふふ、さっきぶり。琴音ちゃん」

「【全身纏衣】」

「え?」


 先手必勝。琴音は右手で順突きを繰り出した。


「うわっ!」


 辛うじて躱した伊海。しかし、琴音の左手によって胸座を掴まれている。次は回避不能だ。その状況を理解させた上で琴音は告げる。


「早く出して。じゃないと痛い目見るよ」

「おー怖い怖い。そういうのはもっと色っぽい状況で言うべきだよ?」


 これは痛い目見ないと分からない相手だ。琴音はそう判断して右手で伊海の顔面に拳を入れることにし……


「え……?」


 自身の拳に力が入らないのを自覚した。


「ふふふべっ」


 まぁそれはそれとして殴りはしたが。


「……力が入らないんだけど?」

「こ、この暴力女……! で、でもちゃんと話を聞くべきだったね。これでもう、君は異能の力を発揮出来ないただのか弱い女の子だ」

「……【及深威きゅうしんい】!」


 嘲笑う伊海に琴音は再び攻撃を繰り出した。それはもろに伊海の腹部にめり込み、伊海はくの字になって後方に弾き飛ばされる。


「ごはっ……! なっ、なんだ? 今の、は……うぇ……?」


 呼吸が無理矢理押し出され、激しく息が乱れる伊海。しかし一応、平然とした顔で立ってはいる。ただ、口から漏れ出た血に驚きを禁じ得ない。そんな伊海を見て琴音は至極不機嫌な顔で冷静に告げる。


「……今のは内臓破壊の一撃。けど、今ので血を噴出させられないってことは……」

「こ、怖い怖い……でも、流石にもうわかっただろう? 無駄な抵抗は……」

「無駄な抵抗じゃない。こっち来ないで。ここから出る方法教えて。【異能】なくても私戦えるんだから。素直に出る方法教えないと痛い目に遭わせるよ」

「ふーん……まぁいいよ。出る方法なら素直に教えてあげる。ここから出る方法は僕の子どもを孕むまでセックスすることだよ」


 琴音は無表情になると無言で踏み込み、崩拳を繰り出した。


「うわっ!」

「真面目に答えて。次は当てるよ? さっきのより痛いからね」

「真面目も真面目さ。言っただろう? 室町時代のうわっ!」

「絶対いや。他の方法」


 拳を構えて威嚇しながら琴音は伊海から脱出方法を引き出そうとする。だが、伊海は不気味に笑うだけだ。


「他の方法? 【異能】を封じられた君と、大それた【異能】を持たない僕じゃどうしようもないよ。諦めて僕に身体を委ねて欲しいな」

「……じゃあお兄さんを待つしかないか」

「待つ? ふふふっ! 外の時の流れとこの中の時の流れが同じと思ってるなら大甘だね! この中の時の流れは外の世界の五倍だよ! この隔絶された世界にあの村井とかいう人が来る前に君は干乾びる。そうならないためにもさっさと僕に抱かれろ」


 伊海のにやにやした顔と口にする言葉が非常に気に入らなかった琴音は無言で彼に顔面パンチを入れておいた。そして遅れながら気付く。


「……治ってる?」

「こ、この暴力女ぁ……! そうだよ! 治してるし、長時間の耐久にも優れてるのが僕の【異能】だ! だからって何度も殴るなよ馬鹿!」

「殴られたくないなら私の見えないところに行って」

「じゃあそうさせてもらうよ! その気になったらあの屋敷の中に来な! たっぷり可愛がってやるよ!」


 今日日三流の悪役でも言わないような台詞を吐き捨てて伊海は霧の中に現れた謎の平屋の中に入って行く。先に探索しておきたかったが、伊海が中に居て付いてきたら勘違いされるという状況で琴音はのこのこと一緒に屋敷に行く気にはなれなかった。


「はぁ……どうしよう」


 取り敢えず、坂道に根差している大きな木の根に腰掛けて考える琴音。現在時刻を確認しようとするも圏外だ。一応、時計は正午過ぎを示していた。


(自由時間は八時まで。流石にそれを過ぎても旅館に戻って来なくて連絡もつかないとなると旅館からお兄さんに連絡は行くだろうけど……そこから新幹線使って探しに来てくれたとしても今から半日はかかるよ)


 伊海のこの中の世界は外の世界の五倍速で時が流れる言葉が本当であるならば外の世界の半日はこの世界の六十時間に相当するということだ。つまり、外の世界で村井たちが最短コースで自分を見つけたとしても琴音の体感ではかなりの時間が経過することになる。


(……しかも、最短でこっちに来ても着く頃には夜中。日が出てからの捜索になればもっと時間がかかる)


 琴音の状況が分からない外の世界ではまだタイムリミットがあると見て捜索の手を緩めるかもしれない。そう考えると長期戦を覚悟しなければならない。


(体力とかを温存するには寝てるべきなんだけど、あの人がいるからずっと警戒してなきゃいけないし、最悪)


 大きな溜息がこぼれる琴音。せめて【異能】が使えればまだ体調のコントロールや結界を張ったりして自己防衛が出来たのだが、それも出来ないらしい。


(うぅ……確か、人って飲まず食わずでいると三日が限界だったよね……?)


 一応、水筒の中にお茶と、新幹線の中で食べようと思っていたが周囲からの貢ぎ物のおかげで食べなかったお菓子は持っているがこれからのことを考えると心許ない。もし、村井たちが最短で見つけてくれなければ最悪の事態もあり得る。


(……何かないか探さないと。あのお屋敷に忍び込むか、それか湖の近くなんだから水とお魚を求めて霧の向こうに行ってみるかだけど)


 しばし悩む琴音。ただ、取り敢えず元気な内に行動すべきだと判断し、最初は伊海のいる屋敷から離れる形で行動を起こすのだった。



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