第14話
午前6時50分。
ほぼ隠居生活をしている村井からすればかなり早起きをしたといえる時間に村井は目を覚まして軽く身支度を整えた。
(まぁ、この時間なら問題なく買えるだろ……)
身支度を整えた村井が冷房の効き始めたリビングを後にしようとしたところ。その後姿に声が掛けられる。
「あれ、お兄さん?」
村井が身支度を整えて外出する少し前にいつものように朝食を作ろうと琴音が部屋から降りて来た。まさか村井が既に起きていると知らなかった彼女は可愛らしい寝癖を抑えながら村井の下へ駆け寄って来る。
「どこ行くんですか?」
「ちょっとコンビニまで。ついでに何か要るものあるか?」
軽い調子で訊き返した村井だったが、琴音は少し考える素振りを見せて答える。
「コンビニ、ですか……あの、今度からでいいので出かける時はちゃんと何か残しておいてください。朝起きてお兄さんが近くにいなかったら怖いです。私も、花音も」
朝から重たい琴音に村井は溜息を吐いた。以前までであれば善処したりするところだが、最近はある程度関係性が安定してきている。腫れ物に触るように気を遣うことは減っていた。そのため素っ気なく村井は答える。
「携帯あるから用があるなら連絡すればいいだろ」
「でもお兄さんライムの返事遅いじゃないですか。時々既読スルーするし……」
ジト目を向けて来る琴音。しかし、村井は時計を気にしておりあまり琴音の言葉を真剣に聞いている様子はない。その様子に気付いて琴音は尋ねた。
「お兄さん、時計ばっかり見てますけど……本当にコンビニに行くだけですか?」
「そうだが?」
しれっと答えた村井。コンビニに行くだけなのは事実だ。ただ余計なことを言っていないだけ。そんな村井のことを琴音は少し怪しんだ。
「……なら、私も一緒に行きます」
「琴音は学校あるだろ?」
「それなら、花音なら一緒に行ってもいいですよね?」
「……いや、待ちたくない」
(怪しい、って思ってる目だな。面倒臭い……)
大したことない用事だが、村井にも少し予定がある。そのため、そろそろコンビニに向かいたいところだが、琴音が村井を離さない。それどころかその状態のまま携帯を弄って花音に電話を掛けた。
『……何?』
「あ、花音。起こしてごめんね? ちょっと急いで着替えて降りて来て」
『わかった……』
「急いでね?」
琴音は念を押すと通話を終了した。そして村井を見上げて笑みを浮かべる。
「コンビニ、花音も連れて行って下さい」
「さっき嫌だと言ったんだが?」
「待たせません。ほら、もう降りて来ましたよ」
「……おはよう」
足音を聞きつけた琴音の言う通り花音が自室から降りて来た。花音はまだ眠そうな顔をしているが既に普段着になっている。これは一緒にコンビニまで連れて行かないと納得しないだろう。村井が観念していると何も知らない花音が琴音に尋ねた。
「で、何? おにーさんは外行く準備してるけどお姉ちゃんはパジャマだし……」
「お兄さんが私たちに黙ってどっか行こうとしてたから」
「あぁ……じゃあ、一緒に行こうね?」
これだけの会話で姉が言いたいことを理解したらしい花音は村井の手を引く。時間もないことだ。村井は諦めて花音をコンビニまで連れて行くことにした。
「あ、本当にコンビニに行って私が学校に行くまでに戻って来るのなら朝ご飯買って来てほしいです」
「わかった。じゃあ行こ、おにーさん」
花音に手を引かれて村井は朝の町へ繰り出す。季節は晩夏。まだまだ暑い夏の日は朝から気温が高く、手を繋ぐのを躊躇いたくなるが、花音は気にすることなく村井の手を取っている。正直、そろそろ周囲の目が気になるのでいつでもどこでも手を繋ぐというのは止めて欲しいのだが村井の気も知らない花音は行先について尋ねて来た。
「それでおにーさん、どこ行くの?」
「本当にコンビニだよ」
「? でも、いっつも行ってるところの道と違うよ?」
「……まぁ、コラボやってるところに行くからな」
村井はぶっきらぼうにそう答えた。花音は首を傾げる。
「コラボ? 何の?」
「……バーチャルシンガーだよ。いわゆる、合成音声ソフトのキャラ。キャラグッズを集めてるわけじゃないが、人気が減ってると思われて廃れていくのは癪だからこういう大衆的なイベントの時は部屋を圧迫しない範囲で色々と買ってるんだ。別にいいだろ」
「うん。いいと思う」
即答だ。正直、花音にとってはどうでもいいことだと思っているのだろうと村井は思った。自分の趣味を否定されるくらいならいいが、キャラクター自体を攻撃対象にしたら村井はこの少女たちを嫌う可能性があったため黙っていたのだが、そんなことはないようで村井は少し安心する。
「悪かったな。こんなんで起こして」
「別にいいけど……おにーさんはそういうのが好きなんだね」
「そうだな。もう長いこと人間の歌よりバーチャルシンガーの歌の方が好きでずっと聞いてる」
「……なら、バーチャルシンガーの歌を私が歌ったら、ずっと聞いてくれる?」
「……どうだろうな」
少し言葉を選んで村井は答える。過去に色々あってバーチャルシンガーに救われたこともあり、彼はバーチャルシンガーを裏切ることはしたくないと思っているのだ。
また、村井は最初に聞いた歌手の声でその歌を記憶するのでバーチャルシンガーが歌った曲はバーチャルシンガーに歌って貰うのが一番だった。別に自分で歌ったり誰かが歌うのを偶に聞く分にはいいが、花音が言うように自分の声の方を聞いてほしいというお願いは例え花音の歌が上手だったとしても遠慮願いたいという思いが出そうなのだ。
ただ、そんな村井の心情は簡単に花音に視られてしまう。
期待していた反応ではない上に僅かに警戒を滲ませた村井を見て花音は彼女のことをよく知る琴音や村井には分かる程度に少しだけ不機嫌になって村井に言った。
「私、歌うの上手ってよく言われるのに」
「そうだろうな。可愛い声してるし」
(【昏き幽王の眠る町】だと諸角から琴音を取り戻すために必死でアイドルをやって数年で国民的スターになるくらいだし)
花音の呟きに村井は【昏き幽王の眠る町】を思い出して同意した。まさかそんなに普通のトーンで褒められるとは思っていなかった花音は少し虚を衝かれる。しかし、村井はそんな彼女のことなどお構いなしに【昏き幽王の眠る町】の内容について思い出し始めていた。
【昏き幽王の眠る町】において、ビジュアル、ボーカル、ダンス、演技力、どれを取っても花音は一級品と言われていた。それらの才能の上に相手の感情を読み取る目とそれを活かす記憶力の他、応用する学習能力まで兼ね備えている。加えて天然ものの魅了の異能まで持ち合わせていると来たものだ。鬼に金棒どころか、機関銃を備え付けたような存在が全力を以て売れるために努力し、果ては国民的アイドルを手中に収めてみたいという諸角の欲望が合わさって資金や人脈まで潤沢と来たものだ。原作での彼女の人気は留まるところを知らなかった。
(まぁ、全部盛大なバッドエンドの前振りになるんだが)
そんな原作での花音の頑張りに対する元も子もない結論を村井は内心で呟く。人気を手に入れるために相手の好みに合わせ続けることで自分を見失い、周囲を顧みずに全てを突破した結果、誰もがアイドルとしての強い花音を崇拝して彼女にある弱さを見ることはなくなった。
まさに
孤独に侵され、何のために努力しているのかも分からず、周囲の期待に応えるだけの人形と化した花音の闇に触れて昏き幽王は成長し、牙を剥くことになる。
そんな重過ぎる荷を課せられる花音だが、村井が我に返ってみれば今は可愛らしくむくれている。文句があれば割と素直に言ってくる花音にしては珍しいと、村井からどうしたのか尋ねてみた。
「どうした?」
「……おにーさんってズルいよね」
「何が?」
「……本当に分かってないのが本当にズルい。いいよもう。それより、おにーさんはどんな歌が好きなの? 私も聞いてみる」
「お、聞いてみるか。そうか……どんなのがいいかな。有名どころからかな?」
「おにーさんが好きなのがいい」
(……同年代なら間違いなくこいつ、俺に気があるなとか思う台詞だな)
ちょっと思うところのある村井だったが、それはそれとして自分の好きなジャンルについての話であれば饒舌に語り始める。今までにない村井の感情の動きを視た花音は新鮮さを感じながらもその感情の一部でいいから自分たちにも好意を向けるべきではないのかと思って少し色々と考えることになるのだった。
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