第183話 英会話教室


 一方その頃。

 聖の祖母、宮野 美代は病室にいた。

 一時は退院できるほど良くなったのだが、よる年波には勝てず、再び体調を崩してしまった。

 今はリクライニングベッドで上体を起こし、午後のひと時を穏やかに過ごしている最中である。


「お母さん、その、相談したいことがあって」


 病室にいるのは彼女だけではない。

 宮野家の長女である美麗みれいがお見舞いに来ていた。

 美代は思う。


(また、お金でしょうか)


 彼女はちゃんと気がついている。美麗がお見舞いに来るのは、より多く遺産を貰うためであると。

 お見舞いの際にはちょくちょく孫達も連れてくる。孫達の顔を見られるのは嬉しいけれど、その目的も情を抱かせるため。素直に喜べない。

 

「何かしら?」


 そんな感情をおくびにも出さず、美代は澄ました顔で聞き返す。

 顔見知り程度では、上流階級で生きてきた彼女の本心など読み取れないだろう。


 しかし、家族ともなれば話は別である。娘である美麗には、穏やかな顔の裏で、悲しみと諦観が渦巻いているのがわかる。

 厳しくも優しい母親が怒らなくなったのは、いつからだろうか。

 こんなこと、したくなかった。

 こんな関係になりたくなかった。

 でも、家族を守るためには、こうするしかなかった。

 美麗は葛藤しつつ、話を切り出す。


「旦那のことなんだけど」


 美代の心がより深い悲しみに染まる。

 母親の気持ちを察した美麗は、慌てて言葉を続ける。


「違うの! 玲央れおが、その、突然……英語を習いたいって言い始めて」


 英語……?


「もしかして、外国の女性と?」


「ううん。浮気している様子はなくて。ただ、理由を聞いてもはぐらかされるの」


 クズ男な夫はこれまで何度も浮気してきた。

 故に、美麗がその兆候を見逃すことはない。


「そう。……語学へ興味を持つ分には、良いことかもしれませんね」


「これまでこんなことなかったから、どうしたのか心配で。ほら、妖怪に襲われて入院したでしょう?」


 これまでもクズ男に振り回されてきた美麗だが、今回は特殊すぎる。

 その原因に心当たりがあるだけに、妻の心配は一入だ。


「はぁ……」


 美代はため息が漏れるのを止められなかった。

 娘を誑かした不届者の話題はよく出る。大抵はお金の話につながるのだが……。

 美代にとって、お金自体はどうでも良いものである。全て渡しても構わない。

 ただ、家族のつながりを歪められてしまうことだけは避けたかった。


(娘を悲しませるような真似、しないでくださいよ?)


 美代は心の声は、怨嗟之声よりも怒りに満ちていた。



 〜〜〜



 あくる日、安達 玲央クズ男は駅前の英会話教室にいた。


「実践的な授業ね。俺の希望通りじゃん」


 授業前の説明では、そんなことを言っていた。

 早く恩人と会話したいクズ男にとって、実践的な授業こそ、彼の求めるものである。

 さっさと入会してしまいたいのだが、それは先方に止められた。まずは体験授業を受けて、授業の雰囲気を掴んでほしいとのこと。

 8人の受講生が教室に集まり、授業の開始を待っていると、先ほど授業について説明してくれた講師が、教室に姿を現した。


「Hello! everyone! ペラペーラ、ペラペラペーラペラ」


 挨拶は何となくわかる。

 しかし、続く生徒との会話がさっぱり聞き取れない。


「ペラペラーラン」


「OK! ペラペラペーラ!」


 クズ男は授業の開始と共に、こんなところへ来たことを後悔し始めていた。

 周りにいる奴らはペラペラ英語を話している。どいつもこいつもまともな人生を歩んできた人間であり、自分が場違いな存在であることを自覚させられた。


 思い出されるのは、死神型妖怪の姿。

 死の化身との遭遇によって自覚した、己のクズさ加減が否応なく刺激される。

 それでも教室から逃げ出さないのは、ひとえに恩人と話をするため。

 ジョンによって救われたクズ男は、退院してからずっとそのことばかり考えていた。


 なぜ、見ず知らずの自分を助けたのか?

 なぜ、見返りもなしに傷つきながら戦っているのか?

 あの時、なんと言って去っていったのか?


 話したいことはたくさんある。

 そして柄にもなく、直接感謝の気持ちを伝えたいと、そう思ってしまったのだ。

 そのためには、クズ男自身が英語を話せるようになるしかない。


「やったらぁ」


 覚悟を決めたものの、これまで努力してこなかった人間がすぐに成果を得られるはずもなく。

 聞き覚えのある単語を使った英語っぽい謎言語で講師を困惑させただけであった。

 そして、己の英語力が壊滅的であることを再確認しただけの体験授業は早々に幕を閉じる。


「ペラペーラ、パラッパラッパ」


 やはり、何を言っているのかさっぱりわからない。

 次はもっと初心者向けのところを探そうと決意したところで、クズ男は知っている言葉を耳にした。


「Let's do someone else a solid next time they're in a bind. See ya!」


「おい、その言葉!」


 ずっと忘れられない、恩人が言い残した言葉。

 響きは完璧に覚えているけれど、単語としては何一つわからなかった言葉だ。

 なぜ、今ここでそれが?

 クズ男が立ち上がると、講師は小さく笑みを浮かべて着席を促す。


「安達さん、体験授業は以上となります。これから個別にお話ししましょう」


 受講生達が退席したのち、講師に案内された小部屋で面談と相なった。

 授業の感想などどうでも良いから、先ほどの言葉の意味を教えてほしいと伝える前に、講師が口を開く。


「貴方も、John様とお会いしたのですね」


「ジョンってあの坊さんのことか! あんた、あの人のこと知ってるのか?!」


「まぁまぁ、落ち着いてください」


 身を乗り出して問いただすクズ男を、講師が宥める。

 糸目な講師は両手を組み、落ち着いた声で話し出す。


「知っていますとも。私は彼に命を救われたので」


「おっ、俺もだ! やっぱり、他にもいたんだな。妖怪に襲われた奴が!」


「その通りですが、周りに言いふらすなと、注意されませんでしたか?」


 された。

 いつの間にか搬送されていた病室で、目が覚めると同時にスーツの男達がやってきた。

 彼らは「無用な混乱を避けるため、今回の出来事を口外しないように」と命令して去っていった。

 もしも破ったらどうなるか、クズ男に試す勇気はない。


「そんな話はどうでもいい。ジョンさんはどこにいるんだ? あれからずっと探してるのに、会えねぇんだ」


 それも当然である。

 荒御魂との戦いにより、青森で療養中なのだから。

 そんなことを知らない講師は、とりあえず情報を共有する。


「John様は、この辺りの地域を不定期に巡回し、妖怪を退治していらっしゃいます。貴方がJohn様に救われたのは、その途中での出来事でしょう」


「不定期ってことは、俺が探している時に、たまたま別のところを見回りしてただけってことか?」


「それが、ここ数日姿をお見せにならないのです。妖怪との戦いで傷ついていらしたので、心配ですね」


 数週間前に講師を助けた際にも、ジョンは傷を負っている。

 痛みを感じない彼は『気にするな』と言って次の妖怪を探しに行ってしまったが……。

 事情を知らない者からすれば、心配にもなる。


「大丈夫だ! ジョンさんがあんな化け物に負けるわけがねぇ。多分……山奥とかで修行してるだけだろ。それよりも、どこに住んでるのかとか、どこに行けば会えるのかとか、いろいろ教えてくれよ」


「会って、どうされるおつもりですか?」


「そりゃあ……いろいろあるだろ」


 いい歳こいた大人が、ヒーローに会いに行く子どものようなテンションで問い詰めていることに、今更ながら気がついた。

 人一倍見栄っ張りなクズ男は、椅子にドカッと座り、バツの悪そうな顔で目を逸らす。


「教えるのはやぶさかではありませんが、私からも一つお願いがあります」


「なっ、何だよ?」


「私達のコミュニティに協力していただけませんか?」


「コミュニティ?」


 クズ男は知っている。

 この話の流れからして、詐欺や新興宗教、ねずみ講など、碌でもないものの可能性が高い。

 そういう大事になりそうなヤバい案件には触れないのが、この業界で生きていくコツである。

 しかし、今回は対価が魅力的すぎた。


「……話だけは聞いてやる」


「そんなに警戒しないでください。ただのボランティアグループですよ」


(福祉事業の補助金横領か。胡散臭そうな顔に違わず、エグいことやるな)


「私たちの活動のモットーは、“If you're grateful, do someone else a solid next time they're in a bind.”です」

 

 それは、クズ男が気になっていた言葉である。

 講師は続けてその意味を教えてくれた。


「もしも感謝しているなら、他の人が困っている時に力になってくれ。John様はそう言い残して去っていきました。きっと、貴方の時も同じだったのでは?」


 クズ男はフリーズした。

 その言葉の意味を理解するのに、しばし時を要した。


「安達さん? どうされましたか?」


「…………」


 恩人は超人的な力を持ち、勇猛果敢に戦っていた。

 自分も怪我を負ったはずなのに、他人のためだけに救急車を呼び、クズ男を助けてすぐに去っていった。

 そんな男が去り際に残した言葉は、さらに多くの人を救うための——思いやりの連鎖を生むものだった。


「……最初から最後まで、人のことばっかじゃねぇか」


「あれほどの力を持ちながら、人のために力を振るう。John様こそ、真のヒーローです」


 二人の心は今ひとつになった。

 これまで出会ったことのない超人的な存在に命を救われ、衝撃を受けた者同士、通じるものがある。


「そこで、先ほどのお願いです。私はJohn様に助けていただいた恩を返したい。しかし、一人ではできることなど限られています。人助けの輪を広げていくためには、多くの人が力を合わせる必要がある。貴方の力を、貸していただけないでしょうか?」


 一人よりも組織の方が強いという事実は、クズ男にもすんなりと受け入れられた。

 徒党を組んだ半グレは厄介だし、ヤの付く自由業は言わずもがな。

 ボランティアだって、人が集まれば大きなことができるはず。

 ひいては、恩人の願いをより良い形で実現できるだろう。


「いいぜ。コミュニティとやらに入ってやる」


「それは助かります。連絡先は体験授業の申し込みでご記入頂いてますね。週に一度、会合を開いているので、まずはそちらに参加してください。困っている人に心当たりがあれば、その会合で教えていただけるとありがたいです」


 こうしてクズ男こと、安達 玲央れおは、ジョンの教えを広める会、略してジョン教会へ参加することとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る