第177話 初回授業

 翌日、俺は美味しい朝食を堪能した後、さっそく仕事に取り掛かることにした。

 ベルを鳴らして使用人を呼び、案内してもらう。

 詩織ちゃんの部屋を訪ねると、当然そこには部屋の主とお世話係さんがいた。

 そしてもう一人、見覚えのない顔が。


「貴方が聖君ね。お話は聞いているわ。私は詩織ちゃんの先生をしている東部 八千代です。よろしくね」


「よろしくお願いします」


 御剣様の奥様に似た、穏やかな壮年の女性。

 道中で話には聞いていたが、この人が詩織ちゃんの家庭教師のようだ。

 東部家で教育係を勤めてるだけあり、この人も相当なプロフェッショナルである。なにせ、副作用という強力な妨害を乗り越え、詩織ちゃんに情操教育を施したのだから。


「詩織ちゃんの教育には、貴方の協力が必要なの。辛い作業だと聞いているけれど、どうか、力を貸してください」


 東部家からの依頼は詩織ちゃんに言葉を教えることだが、なにも素人一人にやらせるわけではない。

 八千代先生が主体となり、俺はその補助をする。

 単語リストを暗記させるのではなく、教育のプロがカリキュラムに必要と判断した言葉を俺が伝えるのだ。


「もちろんです。精一杯頑張りますよ」


 現状、単語を伝えるので限界ですが。


「ありがとう。早速だけど、副作用が出ないうちにお勉強を始めましょう」


「しね!」


 詩織ちゃんの勉強には副作用という制限がある。

 意識を奪われていたらお休み、視力を奪われていたら指導内容変更を余儀なくされる。

 ただでさえ聴力を奪われているのに、なんともハードな教育環境だ。


「詩織ちゃんは“死ね”が挨拶だと思っているの」


「そうだと思いました」


 怨嗟の声で一番頻度が高いのが「死ね」である。それを最初に覚え、挨拶代わりに使ってしまうのは、仕方がないことだと思う。

 こんにちはを覚えても、使い方がわかっていない。ここが教師の頑張りどころだろう。


「まずは、詩織ちゃんの名前を教えます。私が合図を出したら、“詩織”と伝えてください。ちゃんは付けないでくださいね」


「わかりました」


 こうして、俺と先生のタッグが結成され、詩織ちゃんへの教育が始まった。


「わ、た、し、は、し、お、り」


 手話を交えつつ、口を大きく動かして話す先生。

 そんな先生を見て、詩織ちゃんは真似をする。


「あーあーいーあーいーおーいー」


 何度も繰り返し行っているのだろう、詩織ちゃんは難なく手と口の動きを真似してみせた。

 ただし、そこから紡がれる音はただ空気を出しただけに過ぎない。

 ここで俺の出番だ。

 繰り返される自己紹介のモノマネ。詩織ちゃんが自分の名前を口にする直前、合図が出された。


「あーあーいーあー『しーおーりー』」


 詩織ちゃんが驚き顔でこちらを見つめる。

 俺も驚き顔で返してみた。


「しーおーいー」


「「おぉ!」」


 初っ端からかなり正確な発声で返してくれた。

 これには大人達も喜びを隠せない。

 そんな反応が嬉しかったのか、詩織ちゃんは再度己の名前を繰り返す。


「しーおーいー」


 一方俺は、怨嗟の声と負の感情に打ちのめされていた。

 

 死ね!

 消えろ!

 この無能が!

 生きる価値もない!


 ぐぁぁぁあああ、心が暴れ狂う……。


「聖君、詩織ちゃんに自分の発音を聞かせてあげて。間違ったままでもいいから、そのまま伝えて。そのすぐ後に正しい発音を伝えてちょうだい。自分で発音を修正させたいの」


 え、今のを連続で?


「伯母様。先日お伝えしたとおり、峡部様の伝達には怨嗟之声の反撃を伴います。連続は無理です」


「あっ、ごめんなさい。つい」


 お世話係さんが救いの手を差し伸べてくれた。

 八千代先生も、嬉しさのあまり失念していたのだろう。

 その気持ちは察するにあまりある。

 詩織ちゃんを自分の娘のように可愛がっている大人達が、ようやく悲願を達成したのだから。

 人生ほどほどに頑張るのが肝要と知る老体といえど、頑張りたくもなるっての。


「いえ、せっかくの好機。続けましょう」


「無理しなくていいのよ。時間をかけて教えていけばいいのだから」


 気遣いご無用。

 依頼を達成した暁には、莫大な報酬をお願いする予定なのだから、それ相応の仕事をせねば。

 まぁ、報酬内容はまだ決めてないけど。


「僕もこの反撃への対処法を探したいので、詩織ちゃんと一緒に勉強します」


「……ありがとう。無茶だけはしないでね」


 八千代先生の指導が再開され、合図が出るたびに俺は詩織ちゃんの発声を伝える。

 自分の声がフィードバックされる環境が面白いのか、小さく笑みを浮かべながら何度も自分の名前を繰り返す。

 その度に少しずつ修正され、十回目にしてついに……!


「し、お、り」


「「きゃー!」」


 女性陣は喜びの声を上げた。

 短い付き合いではあるが、落ち着いた印象の彼女達をして珍しくはしゃぐ姿を見せるほど。

 良かった、良かった。

 詩織ちゃんも楽しんで勉強してくれたみたいだし、最高の結果じゃないか。

 じゃあ、もう……いいよね。

 俺……頑張った……。


 そして、気力だけで意識を保っていた俺は、あまりの精神的疲労に意識を手放した。



 本日の成果、詩織ちゃんが名前を言えるようになった。

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