第136話 美月再起録 冬 side:美月


 新しい家族となった“ヨンキ”の散歩の為、外出する機会がどんどん増えていき、やがて毎日外へ出るようになった。

 獣医さん曰くヨンキはまだ子供らしいけれど、どこまでも走っていきそうなくらい元気いっぱい。

 廊下に出るたび、お散歩に連れて行ってほしい素振りを見せる。


「くぅ〜ん」


「しょうがないわね。もう少し待って」


 こんな調子で甘やかしていた。

 そのおかげで私も外への恐怖が薄れたのだから、ヨンキには感謝している。


 ペットを飼う場合はマンションの敷金を全額振込する契約だし、休職中だから貯金がどんどん目減りしているけれど、そのことにはいったん目を瞑る。


「もぅ、引っ張らないの」


 元気いっぱいなヨンキを連れて、今日は隣街にある洋館を目指すことにした。

 Goo〇le mapの衛星写真によると、この辺りに素敵な屋根があるはずなのだけれど……。


「あった」


 何度か迷子になりつつ、マップを頼りにお目当ての洋館まで辿り着いた。

 歴史を感じる造りだけれど、手入れはしっかりされている様子。

 周囲の建物は日本建築ばかりだから、少し違和感を覚える。


「建てる時には、ご近所さんに反対されたのでしょうね」


 景観を損ねるから止めろ! と叫ぶ町内会のご老人が家主やぬしと口論する。そんなやり取りがあったかもしれない。

 それでいて、今は人が住んでいる気配はない。

 いったい誰が手入れをしているのか、どんな歴史を刻んだのか、想像が膨らむ。


 創作意欲を刺激された私は、さっそく帰路に着いた。


 そしてふと、当たり前のように外を出歩けるようになった自分を客観視してみる。

 電車や人混みの多いところはまだ怖いけれど、それ以外なら以前のように出歩ける。

 ここしばらくは嫌な思い出やネガティブな思考に囚われることもなくなった。

 お母さんの支えはもちろんだけど、憑き物が落ちたように晴れやかな心地は、きっと聖君のお祓いのおかげだとおもう。

 

「私も頑張らないとなぁ」


 あんなに小さな子供が仕事を頑張ってるのに、自分だけ足踏みしているわけにはいかない。

 もう少し落ち着いたら、職場に復帰しようかな。

 最初はリモートワークで……。


 ボッーとしていたせいか、私の歩みは普段より遅くなっていた。

 焦れたヨンキが「ワン」と吠えたところで、私の意識が現実に戻ってくる。

 冬の訪れとともに太陽が顔を出す時間は短くなっていた。


「あっ、綺麗な夕焼け……。いけない、早く帰らないと」


 ここから家までまだ距離があり、帰宅する前に暗くなってしまう。

 まだ暗い時間に出歩くのは恐ろしい。

 そうでなくとも、婦女子にとっては危険な時間。聖君も『夜は外に出ちゃダメだよ、妖怪が出やすいから』と言っていた。


 タクシーは……密室で2人きりになりたくない。

 ヨンキと歩いて帰ろう。


 この時の私は知らなかった。

 どれだけ運気が回復しても、必然の前には敵わない。

 夕方、人気ひとけのない道、悪意を持つ人間、そして、非力な女性――。

 誰よりも気をつけていたはずなのに、不運にも・・・・最悪なカードが揃った。

 そうして、事件は起こってしまった。


 まるで妖怪に「お前が幸せになることなど許さない」とでも言われているかのように。


「ワンッ」


 足早に歩いていた私は、ヨンキの鳴き声に立ち止まる。

 まだ短い付き合いだけれど、この吠え方は警戒する時の声だと知っている。


「どうしたの、ヨンキ? 何か……」


 ヨンキの視線を辿った先には1人の男性がいた。

 なんの特徴もない、中肉中背のその男は、私を見て気味の悪い笑みを浮かべる。


「見つけた」


 忘れもしないその顔は、私の心に傷をつけたストーカーのもの。前に見た時よりもやつれているけれど、見間違えるはずがない。

 なんで、ここにいるの?

 知らず知らずに呼吸が乱れる。

 あの日の光景がちらつき、足元がふらつく。


「に、逃げなきゃ」


 私はリードを引っ張って元来た道を戻る。

 必死に走っているつもりだけれど、男の方が足が速く、次第に距離は縮まっていく。

 防犯ブザーを鳴らし、スマホで110番に通報する。

 その時、ポケットに入っていた御守りをギュッと握り、祈った。


(誰か助けて)


 運のないことに、逃げる途中で人に会うことはなかった。

 そして、手元ばかり見ていたせいか、土地勘のない私は自分がどこを走っているのか分からなくなった。

 辺りは闇に包まれ、街灯の灯が唯一の道しるべとなる。

 でも、その先に光はなかった。


「行き止まり。ど、どうしよう。……あっ」


 目に留まったのは細い横道。

 この先が行き止まりだったら誰にも助けを求められなくなる。

 時間も選択肢もなかった私は、一縷の望みをかけて飛び込んだ。


「そんな……」


 小さな希望はすぐさま絶望へと書き換えられた。

 道の先は何もなく、ブロック塀に囲まれた行き止まり。

 高い壁は登れそうもない。


「俺を警察に突き出しやがって。お仕置きしないとなぁぁぁ」


 振り返ると既に男が出口を塞いでいた。

 目は虚ろで、とても正気には見えない。


「こ、来ないでください。警察がすぐに駆けつけます」


「それがどうした? 捕まえられるなら捕まえてみろよ」


 薬でも使っているみたい。

 男は警告を無視して一歩一歩近づいてくる。


 あの時の記憶が私の脳裏をよぎり、身が竦んでしまう。

 男に体当たりして逃げるのが正しいと分かっているのに、行動に移せない。


 その時、リードが私の手からすりぬけた。


「ワン」


 ヨンキ!


「このっ、クソ犬っ!」


「ガルルル!」


 私を守るため、ヨンキは勇ましく男へ襲い掛かった。

 けれど、噛みついた脚は防寒対策の厚いズボンに守られている。


「うっとうしい! 犬っころは黙ってろ!」


 男が脚を蹴り上げるも、ヨンキは離さない。

 ついに痺れを切らした男はブロック塀に向けて足を振り、ヨンキを壁に叩きつけた。


「きゃん」


「ヨンキ!」


 私は思わずヨンキの下へ駆け寄った。

 体に触れると心臓の鼓動が伝わってくる。でも、どんな怪我をしているか分からない。

 名前を呼んでも、ヨンキは意識を失ったまま。

 早く獣医さんに診せないと。


「ごめんね。私の為に……」


 男に近づくことになったけれど、この時の私にはヨンキしか見えていなかった。


「クソ犬に襲わせるなんて、やっぱり悪い女だ。でも、俺のもんだ。もう失うもんか。セックス。セックスすれば俺のもんに」


 ぶつぶつ呟く声が耳に届く。

 相変わらず何を言っているのか、私には理解できなかった。

 この場を切り抜けて、ヨンキを助けるんだ!


「えいっ! えいっ!」


 私はヨンキから貰った勇気を胸に、外したリードを振り回して男に立ち向かった。

 でも、男は目に当たったリードを掴み、まるで痛みを感じていないように近づいてくる。


「この前は優しくしたからつけあがったんだ。今度は誰が主人かちゃんと躾しないとなぁぁ」


 武器を失った私はあっさり押し倒され、男に馬乗りされてしまった。

 この前と同じ状況に陥り、頭の中が絶望に染まっていく。

 さっきまで動けていたはずの体から力が抜けてしまい、背中の痛みも感じなくなっていき、精神が現実逃避しようとしている。

 ヨンキを助けるどころか、自分の身すら守れない。


「うるせぇなぁ。スマホか? ブザーか? どっちも壊せばいいや」


 これでもう、通りすがりの人が助けに来ることはない。

 直前の位置情報をもとに警察が駆けつけるまで、この男は止められない。

 その時までに私は……。

 ヨンキは……。


「あぁ……うぅ……ぐすっ」


 ここまで堪えてきた涙が溢れてくる。

 外に出る時、怖かった。

 1人で散歩すると決めた時、不安だった。

 見通しの立たない将来を想像した時、絶望した。

 社会人になって、1人暮らしを初めて、両親に心配かけないように、強くあろうと頑張ってきた。


 なのに……


 誰にも弱いところを見せたくなかったのに、誰よりも見せたくなかった加害者の前で赤ん坊のように泣きじゃくってしまう。


「誰か助けて……。助けてよ………」


「取られる前に、早くセッ――」


 男が下卑た笑みを浮かべ、私のコートに手をかけたその瞬間。

 一陣の風が吹いた。


「ぐえっ」


「お兄さん、女性には優しくしないとダメだよ」


「いってぇ。な、なんだ。今の、お前がやったのか?」


 私には何が起こったのか理解できなかった。

 ここにいるはずのない人物が目の前にいる。

 そして、男を引き剥がし、私を背にかばってくれている。

 でも、だって、そんなはずはない。

 警察よりも先に聖君・・が駆けつけるなんて……。


「どうして、ここが……」


「美月さんが助けを呼んだら、僕が必ず助けに来るって、約束したじゃないですか」


 暗い路地に差し込む街灯の灯りが、聖君の輪郭を浮かび上がらせる。その姿はまるで後光がさしてるみたい。

 思わず私は手を伸ばしていた。

 希望の光に惹かれ、救いを求めるように。

 でも、光に集まる蛾のような醜さを自分の中に感じ、伸ばす手が止まってしまった。


 大丈夫ですか、お姉さん。

 聖君はそう言って私の手を掴み、優しく抱き起こしてくれた。

 思っていたよりも力強い。

 さっきまで絶望に呑まれていた私の視界が、いつの間にか聖君の優しい笑顔で塗り替えられていく――。

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