第134話 美月再起録 夏 side:美月


 それから私は、定期的にお祓いを受けるようになった。

 過敏になった私の警戒心も、まだ幼い聖君に対して働くことはない。

 家族以外で唯一の交流相手といえる。


 最初、お祓いをすると聞いたときは騙されているのではないかと思っていたけれど、聖君の真剣な姿を見て、そのうえ実際に効果が出てきたことで考えが変わった。

 自分でも気付いていなかった体の不調が改善されたし、自然に笑えるようになった。

 それもこれも、聖君のおかげ。

 完治するにはまだかかるそうだけれど、少しだけ、希望が見えた気がする。


 そして、聖君から受けた刺激は、私の中で大きな決意をするきっかけとなった。


「お母さん、ちょっと……外に、散歩、しようかな……って」


 思った以上に、私の心は揺れていた。

 外に出るのは怖い、人に会いたくない、危ない場所に行きたくない、安全で快適な部屋でゆっくりしていたい、そんな考えが頭を埋め尽くす。

 けれど、弱気な私の背中を聖君が押してくれる。

 あんなに小さい子が応援してくれているのに、格好悪いところ見せられない。


「無理しなくていいのよ」


「大丈夫。でも、ちょっと心細いから……ついてきてくれる?」


「えぇ、えぇ、もちろん! でもその前に、お化粧しないとね」


 ほっぺをツンと突かれて、今自分がスッピンであることを思い出した。

 お母さんと聖君くらいしか人と顔を合わせる機会がなくて、しばらく肌のお手入れする余裕もなかったから。


 準備を整えた私は、改めて玄関に立つ。

 扉は既に開かれている。

 唾を飲み込む音がやけに響いて、心臓が激しく鼓動する。

 半年前なら何も考えずに通り過ぎていたこの場所が、今の私にとっては切り立った崖にすら見える。

 外には平和な景色が広がっているけれど、敷居を一歩でも跨げば、その先はいつ転落するか分らない危険地帯であることを、私は知っている。

 そんな世界へ、私は――。


「っ! はぁっ、はぁ、はぁ」


「大丈夫、大丈夫よ。私がそばにいるから」


 肩に置かれたお母さんの手の温もりがなければ、いつまでも一歩を踏み出せなかったかもしれない。


「……!」


 呼吸を整えた私は覚悟を決め、マンションの外へ向かう。

 エレベーターの音に驚き、管理人さんの視線に怯え、なんとかエントランスを抜ける。


「はぁ……」


 ここへ来るだけでも大仕事だった。

 あの事件の前まで、私はどうやって外を歩いていたんだろう。


 人の視線が怖くなかった。

 暗闇から腕が伸びてくると想像しなかった。

 後ろからつけてくる人がいると考えなかった。

 なんて……なんて無防備だったんだろう。


 こんなにも恐ろしい外の世界を、無防備に過ごしていた自分が信じられない。


「無理しなくていいから。今日はこのくらいにしたら?」


 お母さんの優しさが心に染みる。

 でも、優しくされたからこそ、頑張りたくなった。

 それに、明日は聖君が来る日だもの。


「もう少し歩きたい」


 できれば、近所の大きなお屋敷を見に行きたい。

 目的地まで歩く間に、だいぶ落ち着いてきた。

 今日まで何度もフラッシュバックしたあの時の記憶も、朗らかな日差しを浴びながら歩いているうちに、頭の隅へ追いやられていく。


 優しい風が頬を撫でる。

 住宅街でもこんなに自然を感じることができたのね。

 今まで気づけなかった新しい発見に、私の世界が色彩を取り戻していく。


 きっと、部屋に戻ったらまた思い出してしまうけれど、今この時だけは、外の世界を満喫したい。


 目的の建物を外から眺めた私は、家に帰ってお話を書き始めた。

 外で感じた自然の豊かさを、建物の放つ不思議な魅力を、私は文字に書き起こす。

 この感情を誰かに伝えたい。

 そんな思いに突き動かされて、文字を連ねていく。


 昔のスランプなんて嘘だったかのように。


 原稿用紙ではなく、パソコンで書く方が向いていたのかも。

 ……ううん、それよりも、伝えたい相手がいるからかもしれない。

 翌日、思わず聖君に外出を報告してしまったくらい、私は浮かれていた。


「美月お姉さんが頑張ったこと、僕は知ってるよ。よく頑張りました」


 男の子に頭を撫でられたところで、今更ながら羞恥心が込み上げてくる。

 それと同時に、頑張った甲斐があったなぁ、なんて思ってしまう。


「できた」

 

 数日後、完成した小説を読み返して気付いた。


「聖君には難しすぎるかな……」


 書いている時は溢れ出る言葉をそのまま文字にしたから、違和感がなかった。でも、読者として改めて読むと認識が変わる。

 大人相手なら問題なくても、小学生相手に読ませる内容ではない。

 少なくとも、私が小学生の頃に薦められたら途中で読むのをやめてしまうような作品だった。


「よしっ、次のお話はもう少し分かりやすくしましょ」


 こうして私は、お母さんに付き添われながら、月に一度、外出するようになった。


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