第92話 瘴気




 目の前の妖怪を一言で表すなら、クラゲだ。

 触手をぶら下げながらふわふわ宙を漂い、灰色の体がゆっくりと拍動している。毒々しい濃紫こむらさきのラインが時々浮かび上がるのは、いったいどんな原理なのやら。

 見た目だけなら深海のクラゲそのものだが、体高2mの巨体が宙に浮いていて、気味の悪い存在感を放っている時点で明らかにこの世の生き物ではない。


 これが……本当の妖怪……。

 俺が退治した脅威度2なんかよりずっと禍々しい。

 滅多に騒がない霊感がここから逃げろと忠告してくる。


 この地球には陰陽師と妖怪がいて、そのうえ神まで存在するのだから、言霊がいる可能性は十分あり得る。

 縁侍君の言葉がこいつを呼んだなんて言うつもりはないが、なんでよりによって大人が近くにいない時に……。

 頼みの綱である監視係はどこにいるんだ。

 今こそ子供達の危機だろうが。


 ん?

 そういえば俺達より先に出発した子供達はどうなったんだろう。

 逃げてきたなら俺達と鉢合わせするはず。

 つまり、この妖怪が発生する前に通り抜けたか、大人に誘導されて山の中を通って緊急避難しているということ。


 縁侍君なら逃げられると判断して、他の子供を先に避難させている可能性もある。

 俺の結界の強さも知られているから余計にか。

 何にせよ、この場を離れる他ない。


 戦う?

 あんな未知の化け物相手に、事前準備なしで突っ込むなんて馬鹿のすることだ。

 相手の力量だって、俺にはよくわからない。ただ1つ明白なのは、輪郭のはっきりとした体を持つことから、脅威度2より上ということだけ。


 脅威度3以上の妖怪と初めて戦うなら、親父達のバックアップがある時を選ぶ。

 俺は既に強い力を持っているようだが、妖怪退治初心者であることに違いはない。

 予想外の出来事で呆気なく死ぬなんてごめん被る。ここは大人達に任せた。


 幸い、妖怪と俺達の間にはけっこう距離がある。逃げるには十分な距離だ。


「縁侍君、逃げ――」


「お前たちは逃げろ! こいつは俺が倒す!」


 はぁ?!

 何言ってんだこいつ!


「はっ!」


 俺が引き留める前に縁侍君は刀を抜き、鋭い踏み込みで妖怪に向かって行ってしまった。

 そうだ、そうだった、中学生男子は基本的に馬鹿なんだった。

 しかも、戦闘力と大義名分のある男の子が、全力で倒すべき相手を前に自重するはずがない!

 

「―――はっ!」


 既に外気を取り込める縁侍君の全力の一撃。

 それは見事に妖怪の触手を切り裂いた。


 否、妖怪に避ける気がなかったという方が正しい。


 縁侍君が接近した瞬間、妖怪は体から黒い霧を発していた。

 月明かりしか光源のない暗い山の中であっても、霧は闇に溶けることなく、はっきりと目に映る。

 俺はその正体に心当たりがあったが、警告を発する間もなく、刀の接触と同時に霧が縁侍君の右腕に絡まっていく。


 一刀の後、そのまま駆け抜けた縁侍君は遅れて妖怪の反撃に気がついた。


「なんだこれ。……うっ! うぁぁぁあ!」


 縁侍君が右腕を抱えて踞る。

 激痛を堪えるように顔を歪め、口から呻き声と荒い呼吸が漏れている。


 間違いない、あれは瘴気だ。


 科学や医療技術が未発達な19世紀以前まで、病気を引き起こす原因として悪い空気が存在すると考えられ、それを人は“瘴気”と呼んでいた。現代では病原体が明らかとなったため、瘴気の存在は否定されている。

 しかし、医療現場の外、陰陽師界隈においては現役で使われている言葉だ。


 人間にとって陰気と陽気はバランスが大切とされるが、瘴気は違う。

 瘴気とは人に対する明確な悪意の籠った空気であり、呪いのようなものと言われている。それに晒された人間は大きな不幸や病気、事故に見舞われることとなる。

 殺人型type:murderが直接人を殺しまわるのに対し、災害型type:disasterの妖怪は、ただそこに存在するだけで瘴気をまき散らし、周囲を不幸のどん底へ陥れるという。


 その瘴気が明確に縁侍君を襲い、腕だけに凝縮している。

 もしかしたら、瘴気が体内まで浸透しているのかもしれない。


「こ、こんなもの……!」


 縁侍君はダメージを無視して再び刀を構えた。

 きっと痛いだろうに、それを我慢して戦う気迫が伝わってくる。そんな覚悟があるなら撤退する勇気を持ってほしい!


 一方妖怪も、何もしていなかったわけではない。

 クラゲの体から瘴気が滲みだし、斬られた体が再生していく。

 せっかく与えたダメージは消えてしまったのだろうか。これは……勝てないのでは?


「縁侍君待って! 御守りか結界を――」


「はぁ――!」


 俺の声が届いていない。慌てて簡易結界の札を飛ばすも、武士の踏み込みには敵わなかった。

 縁侍君は疾風の如く駆け出し、クラゲの傘に刀を振り下ろす。

 今度はクラゲも無抵抗ではなく、触手を使って迎撃してくる。


 ――するり


 縁侍君はかつて見た独特な歩法で触手を掻い潜り、見事クラゲを斬りつけた。しかし、刀は確かに妖怪の体を通過したのにもかかわらず、ほんの小さな切傷しかつけていなかった。

 俺の位置からでは見逃してまいそうなくらい小さな傷である。


 間違いない、この妖怪は災害型だ。

 災害型の特徴として、存在が霊体寄りであるため、物理的攻撃が通りにくい。

 陰陽師の攻撃がよく効く反面、武士にとっては相性の悪い相手だ。

 そして、奴らは人類を害する手段として、主に直接攻撃ではなく間接攻撃を用いる。


「ぅぁあああ!」


 先ほどの焼き直しだ。妖怪の周囲に満ちていた黒い靄が右腕にまとわりつき、縁侍君が呻き声を上げる。

 なんで同じミス繰り返してるんだよ。


「内気を練ってるのに……あっぐぅぅ」


 瘴気による影響は浴びた時間や濃度、妖怪によっても異なる。

 軽度ならしばらく不運に見舞われる程度で済むし、深刻な場合は死に至る。

 おんみょーじチャンネルでもアバウトにしか語られていなかったが、濃厚な瘴気は即座に人体へ悪影響を及ぼすこともあるとか。

 縁侍君の腕がどうなっているのか、ここからでは確認できない。


 ただ、もう一度立ち上がる気力はないように見えた。

 既に飛ばしていた結界の札を縁侍君の周りに設置し、とりあえず妖怪の追撃から彼を守る。


「う……ゔぅぅ………」


 縁侍君が嗚咽を漏らしている。

 涙を見せたがらない男の子が戦闘中にすすり泣くほどの痛み、よほどひどい状態なのかもしれない。

 早く医者の下へ連れて行かないと!


「縁侍君、そのまま向こう側から逃げて! こっちはこっちで逃げるから!」


 とにかく離脱、それしかない。

 既に妖怪の横を通り過ぎた縁侍君にはこのまま階段を降りてもらう。

 俺達の退路は後ろだ。


「純恋ちゃん、逃げるよ」


「あ……あぁ……」


 純恋ちゃんは俺の隣で地べたに座り込んでいた。体が小刻みに震え、何かに縋るように自らの肩を抱きしめている。

 なんだ、何があった。俺が気づかないうちに攻撃を受けていたのか?


「立てる?」


「むり……」


 いつもの明るい純恋ちゃんはどこへ行った。

 もしかして、妖怪が怖いとか、兄の苦しむ姿を見て悲しくなったとか?

 腕を引っ張って立たせようとしても、腰が抜けて力が入らないようだ。

 これでは逃げられない。


 縁侍君の方も未だに腕を抱えて膝をついている。俺の指示を聞いて逃げ出す様子は見えない。


 どうする、どうする、どうする

 逃げよう

 でも、2人を守らないと

 助けを呼ぼう

 大人はどこにいる

 探す時間はない

 自分だけでも助かるべきだ

 純恋ちゃんと縁侍君2人を連れて行けるか

 無理だ、触手の動きは思ったより速い

 妖怪が近づいてくる

 瘴気に触れてしまう

 早く逃げよう

 やっぱり見捨てられない

 じゃあ戦え

 そんなの危険だ

 逃げるしかない

 でも……


 ハァ ハァ ハァ


 駆け巡る思考に脳が酸素を求めている。

 すべきことはいくつも思い浮かぶのに、どれを選ぶべきか判断できない。

 しかし、無情にもタイムリミットは刻一刻と迫っている。

 3人で無事生き残るには、俺の身を危険に晒さなければならない。

 いったいどうすれば――いてっ。


 ふいに足元で鋭い痛みが生じた。

 夜闇に紛れて何か小さい動物がチョロチョロ逃げ去っていく。


「何を悩んでたんだ、俺は」


 痛みをきっかけに思考の渦から抜け出したことで、我に返った。

 そうだ、初めから俺の答えは決まっていた。

 2人を見捨てれば生き残れるが、御剣家に俺の居場所はなくなるだろう。

 そもそも、2人は部外者の俺を受け入れてくれた優しい子供だぞ。彼らを見殺しにしたとあっては、2度目の人生胸を張って生きていけない。


 だんだん思考がクリアになっていく。

 自分の背中が冷や汗でびっしょりなことに今更気付いた。

 何かがおかしい。

 そもそもこんなに悩むようなことじゃないだろ。


 つい先ほどまで気づかなかった違和感に気づけたが、今はその原因を究明する暇はない。

 敵が縁侍君のすぐそばに迫っている。


「来るな! こっちに来るな!」


 足は動くのだからさっさと逃げればいいのに、縁侍君は刀を振り回すばかり。

 月明かりの下で見学させてもらった、あの美しい太刀筋が嘘のように乱れている。

 やはり、妖怪の周囲にいるだけでなんらかの精神攻撃を受けるようだ。

 純恋ちゃんが腰を抜かした時点で気がつくべきだった。


「縁侍君、全力で逃げて!」


 ダメだ、やっぱり声が届いていない。

 これも妖怪の仕業か?


 とりあえず安全を確保するため、縁侍君に続いて純恋ちゃんの足元にも札を貼る。

 3枚のお札で形成する簡易結界を張り、妖怪の攻撃から2人を守る。

 俺の結界の強度については大人達からお墨付きを頂いているし、2人が即殺されることはないだろう。


「純恋ちゃん、ここで待ってて。お兄さんを連れてくるから」


 やるべきことは決まった。なら、ここにいては純恋ちゃんを巻き込んでしまう。

 俺は意を決して広場に足を踏み出した。



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