3章 癒しのキス
1
私がデグーに来て一週間が経った。毎朝の仕事『恵風』にも、種や苗に祈りを捧げる仕事にも慣れてきた。生気の全く感じない神殿の雰囲気や、監視しているような神官達の怖い視線には慣れる気がしないが。
午前の仕事を終えた後、いつもなら籠を呼んで帰宅するのだが、私は神殿の入り口で立ち止まった。
今朝、カイルから買い物に誘われたから。何を買いに行くのか聞くと、良いところとだけしか答えてくれなかった。けれど、買い物がてら町の散策もできるので楽しみだった。
ちょうど昼食の時間だからか、神殿の前の通りを歩いている人はまばらだ。神殿の前につっ立っている私を不思議そうに眺めて通り過ぎる人もいれば、特に気にすることなく走り去っていく人もいた。
道を吹き抜けるそよ風の心地よさに身を委ねていると、視線を感じた。道を歩いていた女性ふたりが、怪訝な顔をして私をじろじろと見ていたのだ。だが、そのうちのひとりが視線を進行方向へ向けた途端、突然黄色い悲鳴を上げた。
「嘘っ!!」
「なんでここに射手団長様がっ」
女性達の視線の先を追うと、青灰色の翼を広げてちょうど地面に降り立ったばかりのカイルがいた。軍服姿ではなく、綿のチュニックにズボンというラフな格好だ。
うっとりと眺める女性達に愛想の良い笑顔を向けている。
「おしゃれしてどっか出掛けんの?」
ずいぶんと親しげな口調だが、カイルは女性達と知り合いなのだろうか。
「これから友達とランチに」
「そこの角を曲がったところにある『
「ごめんね。今からデートだから」
そう言って、私の肩に手を回して引き寄せてくる。ふわりと鼻をかすめる爽やかな香りも、肩に置かれた手のひらのぬくもりも、カイルと間近で触れ合う『恵風』の時にしか感じないものだ。見上げれば、口角を上げる唇が目に入る。今朝触れた唇の感触すら思い出してしまいそうで、思わず目を伏せた。
あまりにも自然な振る舞いとデートという単語に、女性達はぽかんと口を開けてしまった。
「え、あ、もしかして。花の代表の?」
「フローリアだから羽がなかったのね」
どうやらあの時じろじろ見ていたのは、私の背中に翼がないからだったらしい。
「フローリアなんて初めて見たわ。毎年、花の代表は神殿にしかいないし、私達みたいな一般市民は姿を見ることなく『風花の契』なんて終わってしまうもの」
「でも、何で今年は神官ではなくて射手団長様がお相手なの?」
無理もない質問だ。私が巻き込んでしまったのだが、そう私が言う前にカイルが口をはさんだ。
「なーいしょ」
「えー射手団長様のけちぃ」
「教えてよぉ」
「ほらほら、早く行かねぇと、あそこは人気店だから長い行列並ぶ羽目になるぞー」
できれば並びたくはないと思ったのか、女性達は「今度絶対一緒に食べましょうねー」と手を振りながら足早に去ってしまった。
「いいの?」
「何が?」
「お知り合いでは?」
「いや。まったく知らない人」
「だってすごく親しげに話してたから」
自分でそう言ってから、初めてカイルと出会った時もとても親しげに話しかけられたから、知り合いだったかと疑ってしまったことを思い出した。カイルは初対面相手でも臆することなく話せる質なのだろう。
「そんなことより、行こうか。デート」
「デ、デートって言い方はちょっと」
「ふたりで出掛けたらデートだって」
国も違えば文化も違う。バーディルでのデートの定義はそうなのだろうか。
カイルについていくと、神殿前の静かな通りからにぎやかな場所に出た。服や靴や宝飾品、本や家具など様々な店が軒を連ねている。昼時にも関わらず、買い物を楽しんでいる人達で道はごった返していた。
全てが物珍しいものばかりで目移りしてしまう。
きょろきょろと忙しなく視線を動かしている私を見て、カイルは苦笑していた。
「迷子になる典型だな」
そう言って、私の左手を握ってくる。
「こうしてればはぐれねぇだろ。こっち」
人の流れに沿うように歩いていくと、とある店に入っていった。扉を閉めれば通りの喧騒が消えて静寂に包まれる。
「射手団長様。お待ちしておりました」
店の奥からやって来たのは、片眼鏡の老紳士だ。頭から爪先まで伸び、丁寧に頭を下げてくる彼の振る舞いは上品だった。店の壁沿いには、男性ものから女性ものまで様々な服が並んでいた。
「彼女に合う服と靴を探しているんだ。見繕ってくれる?」
「かしこまりました。ただいま用意いたします」
老紳士が再び店の奥にさがったのを見計らって、私は慌ててカイルを呼んだ。
「あの、買い物ってもしかして」
「ビアンカのものだけど。本当はもっと早く来たかったんだけど、なかなか休みが取れなくてさ」
「でも私、お金なんて持ってないわ!」
花の森にも通貨はある。木製のものだが、デグーでは使えないだろう。
「心配すんなって。花の代表で来たフローリアの生活費は全部神殿が賄うことになってっから」
「生活費って、服とか靴って入らないと思うんだけど」
「大事でしょ、服も靴も。生きるために最低限必要な衣食住のうちのひとつだから。森の中はまだしも、町の中を裸足で歩くのは危ないから。踏まれたりしたら痛いぞ?」
すると、店の奥から老紳士と女性店員たちが服や靴を手にぞろぞろ集まってきた。
「申し訳ございません。この店にあるのは全てバーディル用で、背中に翼用のスリットがあるものばかりなのです。ないものといえば、こちらのワンピースのような背中が開いたものになるのですが、いかがいたしましょう」
見せてくれたのは、淡い水色の裾がふんわりとしたワンピースだった。たしかに背中はかなり開いていて少し恥ずかしい気もする。
「一回試着してみ? 靴は……この白いパンプスとかどう?」
カイルが選んだのはヒールというものが低いものだった。カイルにワンピースと靴を手渡され、案内された試着用の小部屋に通された。今までキトン以外の服は着たことがないが、カーテン越しに女性店員が説明してくれたお陰ですんなり着ることができた。
「どう、かな」
カーテンを開けてカイルに感想を尋ねると、満面の笑みで「良いんじゃない?」と言ってくれた。
「ビアンカは髪が長いから背中が開いてるのも隠れてそんなに気にならないし。ワンピースの色もビアンカに似合ってる」
「私も……この色好き」
「じゃあひとつめはこれで決まり。あとは……」
結局、見繕ってくれた服と靴全て購入することになった。買ったものは店から直接家に運んでくれるらしい。一番先に試着した水色のワンピースと白いパンプスに着替えさせてもらってから店を後にした。
「良い店だろ?」
「ええ、とっても。店員さんも素敵だったし服も靴も」
でも、靴を履いたことのない私にはパンプスで歩くのは勇気がいった。あの店にはかなり高いヒールもあったのだが、選んだのが低いヒールでよかったと安心した。きっとカイルは、靴を履き慣れていない私を考慮して選んでくれたのだろう。
「腕、貸すから歩いてみる?」
「うん」
差し出してくれたカイルの腕に手を添えて、一歩ずつゆっくり歩いてみる。私の歩幅に合わせて、カイルもゆっくり歩いてくれた。
「どう?」
「だいじょうぶそう。ありがとう、カイル」
「どういたしまして。でもその足だと家に着く前に夜になるから、籠でも呼ぶか」
カイルが伝風で籠を呼ぼうとした時。突然悲鳴があがって辺りは騒然とした。
「泥棒だ! 誰か捕まえてくれ!」
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