3
デグーに来て初めての夜は、一睡もできなかった。
夕食はコールドウェル邸の、料理担当のメイドがごちそうを用意してくれていたが、あまり喉を通らなかった。邸宅の二階の東にある客間を使って良いと言われて、スプリングの効いたふかふかのベッドに体を沈めたものの、翌朝から始まる仕事のことで頭が一杯で目が冴えてしまったのだ。
窓の外を見れば、山の端が少しだけ明るくなっている。夜明けが近いようだ。寝るのは諦めて、ベッドから出た。
花の森にある自室よりも広い部屋だ。奥には洗面所が備え付けられている。
私が花の森から持ってきたたったひとつの荷物は、クローゼットの前に置かれていた。荷解きをしようとカゴを開ければ、カイルから借りたままの上着が目に入った。
「忘れてた、返さないと」
夜が明ければ『恵風』を行うためにカイルと顔を合わせるのだから、その時返せば良い。寝巻きから普段着のキトンに着替えて、洗面台で顔を洗い髪をとかしてから窓辺に置かれたソファーに腰掛け、その時を待った。
山の向こうから朝日が覗きかけた頃。ノックが三回鳴って心臓が飛び跳ねた。いよいよだ。
「ど、どうぞ」
声がひっくり返ったのは緊張からだ。入室の許可を得て入ってきたカイルは、すでに軍服に着替えていた。
「おはよ。よく眠れた?」
「おかげさまで——っむぅ!?」
とっさに嘘をついた直後、カイルの片手が私の頬を挟んできた。間近に迫ってきた胡乱げな目が鋭くて、萎縮してしまう。
「嘘つけ。目、充血してるけど」
「む……」
「気、張りすぎ」
「だっへ」
「これから半年も続くのに、ずっと気を張りっぱなしだと体もたねぇよ。ふたりでするんだろ? だから自分で全部背負おうとするな」
グリーデンも言っていた。風の力と花の力が交わるから、世界中に四季折々の植物を芽生えさせることができる。
「……ごめ、な」
「分かればそれでよし」
頬を挟んでいた手を離すと、私の背後にあった窓を開け放った。まだ夜の名残りのある冷たい風が部屋へと入ってくる。
「さ、始めるか」
隣に腰掛けたカイルと、仕事開始を告げる言葉に体が強張ってしまう。
「『恵風』は昨日のように強い風は送らなくていいらしいからな」
「え、そうなの?」
私は拍子抜けした。昨日の『吹き初め』の儀式で意識が朦朧とするほど苦しい思いをしたから、今日もかなりの風が送られるのだろうと身構えたから。
「昨日は春が来たことを世界中に知らせて一気に芽吹かせる為に、強めに風送りの術を使ったけれど。今回の『恵風』は植物が健やかに育つようそっと促すだけ。そよ風程度でいいってさ」
そう言って、カイルはなぜか苦笑している。
「まだ力んでんな。肩をぐっと持ち上げて、そのまま」
言われるままに、両肩を上げた。
「息を吐きながら、すとん、と落とす」
ふぅ、と溜め込んだ息を吐き捨てて、力を入れていた肩をもとに戻した。変な所に入っていた力が抜けて、楽になった気がする。
力が抜けた私の両肩を、カイルの手が優しく掴んだ。
ゆっくりと近づいてくるカイルの瞳に、山の端から昇ってくる日の光が差し込んだ。キラキラと輝く金色の瞳はまるで太陽そのもので、眩しくて目を閉じた。
その瞬間、唇が重なった。風が送り込まれると知っていたから、唇を僅かに開けば、優しい風が吹き込んできた。
そよ風は私の体をくすぐるように巡っていく。
穏やかな風が心地良くて、唇が離れた後に「ほぅ」と息を吐き出した。
吐息はやはり白く小さな花びらとなって、窓の外へと飛び去っていく。
「朝の仕事はこれで終わり。お疲れ」
昨日のように苦しくなかった。これなら毎朝でも憂鬱にならずにすみそうだ。
安堵したのも束の間。緊張感から解き放たれた私のお腹から、空腹を知らせる不細工な音が鳴り響いた。
「っぷ、あははは!」
「すみません! あの、昨日の夜、何も食べなかったから」
「そうだろうと思って、朝食はもう用意してある」
私は朝食があることで期待感でより大きくなったお腹の音を鳴らしながら、カイルの後をついていった。
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