3

「んぅ……!」


 逃げようにも後頭部に回された手に阻まれて身動きが取れない。抵抗していれば離してくれたが、青灰色のバーディルの唇はまだ触れ合うほどの距離にあって落ち着かない。

 逃げればいいのに逃げられないのは、至近距離で私を見つめる金色の双眸のせいだ。矢など構えていないのに、彼の視線だけで射すくめられて、逃げる隙を与えてくれない。


「口、開けて」

「待っ……んんっ!」


 抗議しようと僅かに開いた口を再び塞がれてしまう。私の体の中に送り込まれてくるのは、穏やかな顔を持ちながら、荒々しさも併せ持つ風。少しだけ息ができなくて苦しい。

 離してほしくて、青灰色のバーディルの筋肉質な固い胸を拳で何度か叩いた。力などない私が叩いたところで痛くも痒くもないだろうが。私が苦しんでいるのが伝わったのか、唇が離れていった。


「……ふぁっ……」


 私の唇から、収まり切らなかった風が白い吐息となって漏れ出てくる。

 空気中に混じって消えていくと思われたが、漏れた息は幾枚もの真白の花弁へ姿を変えた。呆気に取られて見ていると、花弁ははらはらと地面へこぼれ落ちた。

 白い花弁が地面に溶けた瞬間、地面近くの雪を掠めた風が、木々や待雪草を揺らしながら吹き抜けていく。それを見送った後、青灰色のバーディルを睨みつけた。


「あなた一体何をっ!」

「周り見てみ?」


 満足そうに辺りを見ていた青灰色のバーディルの視線を追って、喫驚した。風が通った後、朽ちていた木々がまるで若い木のように生き生きと枝を伸ばしていた。枝の先は僅かに黄緑色に染まり、蕾が膨らんでいた。


「これでみんな元通り。良かったな」


 ひとりで勝手に納得して頷く青灰色のバーディルを、私はもう一度きっと睨みつけた。


「一体何するんですかっ! 突然キ、キキキ、キスだなんて、私っ……!」

「確認したはずだけど。好きなもの守るために自分を犠牲にできるかって」

「だからって……!」

「あ、もしかして初めてだったりする?」


 植物の世話に夢中で、今年で二十二歳になるのにキスはおろか誰かとお付き合いした試しはない。恥ずかしくなって、熱くなった顔を隠すように他所を向いた。


「し、知らないっ」

「初めてのご感想は?」

「知らないのでっ!」


 そんな私を見て、青灰色のバーディルは可笑しそうにケラケラと笑っていた。


「そんなに笑わなくても」

「ごめんごめん。フローリアが持ってる植物を芽吹かせる力は、直接触れないと効果はないんだろ? だけど、バーディルの持つ風送りという術を君に流し込めば、フローリアの力を含んだ風が遠くまで吹き渡る。植物だって呼吸するからな。風の中に取り込んだフローリアの力を呼吸によって取り込むことで、植物達は芽吹くことができる。つまり、今のは君の体に風の魔法を送り込んだだけ。君が言うフローリアの宿命を俺が風の魔法を口移しして手助けしただけで、本物のキスじゃない。だからそんな怒るなって」


 相手に好意があって愛情表現で唇を重ねるのがキスならば、さっき交わしたのは本当の意味でのキスではない。今のはノーカウントだ。そういうことにしておこう。


 私と青灰色のバーディルの間を、冷たい風がひゅうと吹き抜けていった。上着を着ていたからもう寒さは感じない。風は彼の青灰色の髪を揺らした後、どこかへ消えてしまった。


「呼び出しか。そろそろ帰ろ」


 先程の風は、風使いが遠方にいる仲間に伝言を送る時に使う、伝風つたえかぜという術なのだそうだ。

 準備運動なのか、青灰色のバーディルは肩をぐるぐる回して羽を大きく広げた。バーディルの翼は勇ましい。広げれば持ち主の体よりも大きく、ひと仰ぎすればたちまち突風さえ引き起こせるほど強靭だ。


「じゃ、風邪ひかないように気をつけろよ」


 肩慣らしがすんだ青灰色のバーディルは、そう言って微笑むとその場で翼をはためかせた。彼の羽風は木々の枝や待雪草を揺らす。力強く羽ばたいて風を掴めば、あっという間に空の彼方へと飛び去ってしまった。

 風は世界を行き来したり、遠くにいる人に言葉を届けられたり、自由な存在だ。その地に根付いて離れられない植物とは違う。花の森から出たことのない私は、青灰色のバーディルが少しばかり羨ましくも感じた。私に翼があって風を操ることができたなら、世界中に咲き乱れる花々を見物に旅立つだろう。


「あ!」


 羽風がやんで静けさを取り戻した森に、私の声が響いた。


「あの人、上着置いてっちゃった」

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