6
北から吹いていた風が止まる。それが冬から春に移り変わる合図だと古の時代から信じられていた。そしてその日が、出立するのに良い日だとも。
数枚しかない着替えの服をヤマブドウのツルで作ったバスケットに詰めた。荷物はこれだけ。そこに、青灰色のバーディルに借りた上着も入れた。デグーについたら彼を探して返そうと思ったから。
この日の為に、フローリアの男性達が育てていた綿花。そこからとれた綿を布にして、儀式用の真白のドレスを作るのはフローリアの女性達の仕事だった。
「うん、よく似合ってるわ」
ドレスを着付けてくれた母が、姿見に映る私を覗き込んで優しく語りかけてくる。母の瞳には、ブルーベルの谷で見た池のように澄んだ涙が、零れ落ちないように溜まっていた。
風花の契で花の代表に選ばれたら、二度と花の森に帰ることはない。任期を終えたフローリアは、天空の花園へと向かう。
地上には咲かない幻の花々が咲き誇り、頬が落ちるほど美味しい果物がなる木が立ち並ぶ、天に住まう神のみが見ることを許された植物の楽園。そこの管理者になるのだ。天空の花園の管理を任されるということは、即ち、地上よりも力を身につけた上位のフローリアになれるということでもあった。世界中の植物を芽吹かせて育てるという大役を担ったのだから、それ相応の褒美なのだろう。
そしてそれは、私の長年の夢でもあった。
きっと天空の花園には、言葉では表せないほど素敵な色をした花が咲いている。管理者になれたら、一日中、一生お世話ができる。だから、ずっと待っていた。風花の契でフローリアの代表に選ばれるのを。
「あなたのドレス姿を見るのは、結婚式だとばかり思っていたけど……」
「お母さん泣かないで。一年頑張れば私の夢が叶うんだから、笑顔で見送ってほしいな」
「……そうね、ずっと言っていたものね。頑張って行ってくるのよ。母さんも父さんも応援しているから。離れていても、ずっと」
指の端で涙を拭った母は、口を震わせながら無理矢理に笑顔を作っていた。
見送りは両親の他には族長補佐しかいない。他のフローリア達が間違って連れ去られることを防ぐためだという。
私達は花の森とデグーの境界でもある、ネーヴェ山の麓までやって来た。花の森は緑の大地、デグーの領地は雪の大地、両国の境界線は明らかだった。
デグーからの使者を待つ為、花の森の境界線に立った。花の森はロザリナ様の魔法によって守られている。その力は強力で、フローリア以外の者が森に入ってくれば、木々の根が即座に侵入者を捕らえて地面に縛り付けてしまう。森を守る魔法は他にもいくつも用意されていて、誰一人として花の森に侵入することはできない。だから花の森には軍隊などは存在しなかった。
やがて大勢の足音が聞こえたかと思うと、紫色の長衣をまとったバーディル達が列をなして山を降りて来た。
そのバーディル達の背中には羽はない。彼らはバーディルの神官達だ。一人前として認められた者は、信仰している風の神に忠誠を誓うために自らの翼を捧げるのだという。
列の中心を歩いていた四人の神官が運んできたのは、人を運ぶための籠だった。籠は宝飾で飾られ、自然豊かな花の森には似つかわしくないほど煌めいていた。
境界線ぎりぎりのところで、籠が私の前で止まって扉が開く。
この籠に入れば花の森とはお別れだ。両親の顔を交互に見やる。
「……じゃあ、いくね」
「気をつけて」
「頑張れよ」
涙でぐずぐずの母と、ぶっきらぼうに私の背中をそっと押す父に別れを告げて、籠へと飛び乗った。
振り返らないで乗ったのは、自然と溢れてくる涙を見せたくなかったからだ。昨日までは希望でいっぱいだったはずなのに。いざこの時を迎えると、花の森で過ごした日々や両親や友人達との楽しい思い出が多すぎて、離れ難くなる。
近くにいた神官が扉を閉めると、籠は進み始めた。小さな窓から見える両親の顔を目に焼き付け、必死に手を振った。
ふと、ネーヴェ山の麓に咲く
どの花よりも早く春を知らせた花は、溶け始めた雪と共に消えようとしていた。花弁が散り、緑色の葉だけを残すのみとなった
神官達は休むことなく山を登り続け、デグーの首都マラティに着いたのは昼を過ぎた頃だった。
まだ雪に覆われた街では、バーディル達が屋根の上に登っていた。籠を見つけると、皆一様に両手を大きく振ってくる。
応えるように手を振りかえしていると、籠は一際大きく豪華で荘厳な建物の前を通り過ぎた。恐らくデグーの王宮だろう。
籠が止まったのは王宮前の大きな庭園だった。真っ直ぐに伸びた赤い絨毯の両脇に、綺麗に着飾ったバーディル達がずらりと並んで、籠に視線を送っていた。籠の扉を半分だけ開けた神官が私に指示を出した。
「扉を開けたら、ステージの前まで絨毯の上を真っすぐ歩くように。後は進行役がいるからその指示従いなさい」
私が頷いたのを確認すると、神官は扉を大きく開けた。庭に集まっていたバーディル達の視線が一斉に私に向けれられた。
静まり返る会場に響いていたのは、緊張で今にも飛び出しそうなほどに脈打っている私の心音だけ。
風花の契での最初の儀式は『吹き初め』といって、世界中の植物に春が来たことを知らせるものだ。
冬が終わり春が本格的に訪れるお祝いの儀式ともあって、毎年王宮の広間に招待客が集められて盛大に催される。
広間に集まっているバーディル達の視線を一身に浴びながら、ゆっくりと一歩ずつ、赤い絨毯の上を歩いてステージへと向かっていく。
森育ちの私はこういった人の多い場に慣れていないから人酔いしそうだ。
ステージに置いてある机の前で立ち止まると同時に、ステージ上に人が上がってきた。
机を挟んで向かい合うと、鋭い眼差しに射すくめられて喉の奥で「ひっ」と短い悲鳴をあげてしまった。
私を睨みつけていたのは、つりあがった黒い双眸。頭髪は全て剃っており、灰色の立派な口髭が蓄えられている。髭の似合う厳つい顔面の初老の男の背中には翼はない。紫色の長衣を纏い、厳格な雰囲気を醸し出していた。
吹き初めの儀式について族長補佐から受けた説明によれば、儀式を執り行う際に進行を務めるのは、神官の中でも位の高い大神官だという。その大神官の名はグリーデンと言っていたはずだ。
すると、私の隣に薄紫色の神官服を纏い、焦げ茶色の翼を持った若い男性が立った。この人が私のパートナーなのだろう。まだ羽があるということは、彼は半人前の神官ということか。
「今日、長く厳しい冬が終わり、うららかな春が訪れる」
風ひとつ吹かない庭園に、グリーデンの渋く野太い声が響く。
「春とは、風と神と花の女神が出会った時、この世界に起きた奇跡である。我々はその奇跡を繋いでいく使命を帯びている——風の使者と花守りよ、植物達を冬の眠りから解き放て」
グリーデンからの、向かい合いなさい、という指示に従って私は神官の男性と顔を合わせた。相手が誰であろうと、私は私の夢を叶える為にこの一年を乗り切らなければならない。夢の為、宿命の為。
神官の手が私の肩に触れる。目を閉じて、その時を待つ。神官の顔が近づいてきて、私の唇に触れかけた時だ。
ドォォォォォン!
間近で何かが爆発した。
体を震わすほどの轟音に恐怖を感じ、思わず身を屈めて頭を両手で守った。
爆発の後に訪れた静寂に、ぎゅっと閉じていた目を開けてみると、会場にいるバーディル達も地面に伏せていた。私を見る目は怯えきって、化け物でも見ているようだった。ステージ上にいたグリーデンも、状況を理解できていないのか目を丸く見開いていた。
そばに立っていた神官の姿がどこにもない。辺りを見渡すと、真正面にそびえる石造りの塔の壁にめり込んだまま白目をむいて意識を失っていた。
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