幕間劇8 舞台裏
俺は夜を満たす死の霧。
俺は凍てつく無情の風。
俺は空なる月の落とす影。
俺は月影。孤高の忍者。
暗闇の中、影の体となった俺はキリアに教わった通りの道を正確に辿る。周囲を漂う亡霊の流れが定まり、一点へと集中する。
冥界の二つ目の門だ。キリアめ。どうしてこんなことまで知っているのか。
俺は躊躇わずにそこへ飛び込んだ。
世界が暗転した。門を潜り抜けた先は冥界の更なる灰色の闇の中だ。形無きはずの亡霊たちがすべて元の形を取り戻し、再び人として歩き始める。
それぞれがそれぞれの目的地に向けて歩き始める。
俺は歩みの速度を落とし、周囲に溶け込む。
キリアの情報は確かだ。ここには最初の難関がある。
来た! やつだ。
その三つ首の犬は、俺の背丈を遥かに越えて大きかった。数多の侵入者を食らって成長した結果だった。
ケルベロス。地獄の番犬。
「匂うぞ。生きている者の匂いだ」左の首が言った。
「匂うぞ。ル・クブリス様の呪いの匂いだ」真ん中の首が言った。
「匂うぞ。うまそうな肉の匂いだ」右の首が言った。
ケルベロスは涎を垂らしながら周囲を嗅ぎまわった。徐々に俺の方に近づいて来ると、ケルベロスは俺の匂いを嗅いだ。
「こいつだ!」三つの首が同時に叫んだ。
かっと開いた三つの口の中に同時に投げ込んだ。
甘い蜂蜜の菓子を。
面食らった表情のままで、犬たちは菓子をかみ砕いた。
「うまいぞ、これは」
「だが足りぬ」
「もっと寄こせ」
俺はキリアが用意した菓子を惜しげも無く撒き散らした。ケルベロスはそれらをことごとく食いつくした。菓子が尽きると、首の一つが宣言した。
「ひさびさに旨い菓子であった」
もう一つの櫛がだらりと舌を垂らした。
「だが足りぬ」
最後の首がにやりと邪悪な笑みを浮かべた。
「では、前菜は終わりということで、次はメインディッシュといこう」
キリアめ。これでうまく行くと言ったじゃないか。
「待て。提案がある」
俺は竪琴を取り出した。
「今から一曲弾こう。その曲が気に入ったならば俺を見逃して貰おう」
三つの首がお互いに見つめ合った。
「思い出すな。遥かな昔、オルフェウスが弾いた曲を」
「思い出すぞ。あれは見事であった」
「思い出すぞ。あの後、冥王様に死ぬほど怒られた。だが、あれがまた聞けるならば、また怒られるのも悪くは無い」
三つ首は頷きあった。
「弾け!」
俺は弾いた。
長い長い一曲を弾き終えると、ケルベロスはすべて眠りこけていた。
なるほどキリア。賢い爺さんだ。
菓子の中に眠り薬を仕込んだな。
竪琴を弾いたは、薬が回る時間を稼ぐため。
俺は冥界の闇の中を走った。急がなくては。ケルベロスに薬が効いている間に、キリアの指示を実行し、ふたたび冥界の門を通って帰らなくてはいけない。
ほどなく行く手に大きな城が見えて来た。門の上には、『この門を通る者すべての希望を捨てよ』と書いてある。俺はそれを無視して、門の横の壁を駆け上がり城に忍びこんだ。
壁の向こうには男が一人待ち構えていた。俺は足音一つ立てなかったのに。
「は! 珍しい人間がやって来たな。しかも生きておる」
男はカロンと名乗った。やけに眼光が鋭い男だ。
酒を勧められたが俺は飲まなかった。キリアの菓子のように薬が盛られていたら困る。
カロンに敵意は無かった。俺はドームについて尋ねた。
「ドーム? ドームならとうの昔にここを出たぞ。なんだあいつ、帰っていないのか?」
一歩も二歩も遅かったか。俺は少しばかり気落ちした。ついでに俺自身のもう一つの質門もした。
「雪風に夜霧? そんな名前の者は今までここには来たことはないぞ。それに俺に尋ねるのはお門違いというものだ。お前は忍者だろう。聞くなら己の影に聞け」
カロンは俺の背後を指差した。俺は振りむいたが、そこには誰もいなかった。
「まあ、暗闇の平原に行けば誰か知っている者がいるだろうよ。さあ、急げ。月影よ。急がねばケルベロスが目覚めるぞ」
どうしてケルベロスのことを知っている?
教えられた通りに俺は暗闇の平原へと飛び出した。キリアの情報に照らし合わせて俺はカロンが嘘を言っていないと判断した。初対面の男の情報を俺は鵜呑みにしたりはしない。
やがて前方に大きな焚火が見えて来た。
焚火の前にいたのは、見たことのない痩せた男だ。だが近づくにつれて俺は距離を身誤っていたことに気付いた。
男は大きかった。人間の大きさを越えている。正確には痩せた巨人だ。俺の背丈の倍はある。
俺はいつでも逃げられるように身構えながら、巨人に近づいた。
「月影よ。よくぞ来た」
痩せた巨人の方が先に声を発した。
「おれはヘイムダル。泥棒の守護者。ゆえにお前の味方だ」
自ら味方と高言する者を俺は信じはしない。だがいきなり敵対する必要もない。
「いと高き御方。速足の君よ。私は戦士のドームという男を探しております。もしや見聞きしておりませぬか」
「ドーム?」ヘイムダル神は不思議そうにつぶやいた。
「知らぬ。その者は戦士か? ならばチュールの管轄だ。おれは知らぬ。だが、きっとその者は絶望の石板へ向かったのであろう。あちらだ」
ヘイムダル神は平原の向うを指さした。
「感謝いたします。眠らぬ見張りの神よ」
俺は踵を返した。
「途中どこかでおれの角笛を見つけたら持って来てくれ。月影よ。さあ、急げ。さもないとケルベロスが起きてしまうぞ」
どうして知ってる?
「あと一つだけ。月無き夜を愛する御方。夜霧と雪風なる忍者を知りませぬか?」
「忍者はおれの管轄だ。その両人なら、ほれ、お主の後ろに」
ヘイムダル神が指さし、俺は慌てて振り返った。
そこには風が吹く空っぽの平原だけがあった。顔を戻すとヘイムダル神も焚火も消えていた。
冥界も冥界の住人も意地悪だ。
俺は平原を走り続けた。時間が無いので、敢えて人影のある焚火は避けて走った。が、その中に一つだけ、俺の前に回り込んでいるように見える焚火があった。それは常に俺の前方にあり徐々に大きくなっていった。
避けられない焚火もあるのだと知り、俺は覚悟を決めてそれに近づいた。
二つの人影が焚火の前に立ち上がる。
大きい方の人影が喋った。
「苦しまぬよう。切ってしんぜよう」
右足を進め、腰を落とす。サムライの姿。抜いた刃は妖刀ムラサメ。
「待っていたぞ。月影」
破空だ。そしてその背後にいるのは女忍者の峰。
「ル・クブリス様の命により其方を打つ。二対一なれど、よもや卑怯とは言うまいぞ」
俺はためらわずに逃げ出そうとした。それが忍者というもの。だが、女忍者の峰がすばやく回り込み俺の退路を断った。破空がもう一歩前に出ると、裂帛の気合にて切りこんで来た。
俺は跳び、空中で反転してきたムラサメの刃を素手で弾き返した。
ムラサメは怖い刀だ。忍者の鍛え上げた手でも、一度傷をつければそのまま肉に食い込んで来る。妖刀に一度食いつかれたら、引きはがすのは困難だ。
俺の態勢が乱れたところに峰の放つ手刀の突きが襲いかかる。これもからくも受け流し、素早く足払いをかけるが、見事に外された。
やはり破空も峰も俺より強い。
「手加減はせぬ」破空が己に言い聞かせるかのようにつぶやく。
「次で決める。破空」峰が返す。
二人同時に動いた。白刃が灰色の空に煌き、黒衣の拳が霞んだ姿のまま迫る。完全に息の合った攻撃。二本の腕と二本の脚だけでは防げない。
俺は両手で白刃を受けた。がら空きとなった背中に峰の必殺の突きが襲う。
俺の影から飛び出したもう一本の腕がその突きを叩き落とし、さらにもう一本の脚の蹴りが峰の腹に叩きこまれた。続いて前に回った脚が破空に足払いをかけ、さらに伸びたもう一本の手がムラサメを奪い取り、破空の腹に突き刺す。
勝負は一瞬でついた。
「いったい何が」破空が目を剥いた。
「三人いたとは。卑怯!」
破空が最後の笑みを見せた。
「とは言えぬな。これで我らも楽になれる」
破空の声が途絶えた。俺は周囲を見渡した。自分の影を睨む。三人だと?
焚火が消滅し、破空も峰も消えた。
「夜霧! 雪風!」俺は叫んだが、答えは無かった。
走り続ける。どこまでも。この薄闇の中を。
もう俺の邪魔をする者はおらず、前方に絶望の石板が見えて来た。その昔、この地に天から落ちて来た存在が残していったもの。それは巨大で板というより小山と言ってもよい代物だった。鈍く赤く光る文字が刻まれた大きな石板。その絶望の言葉を現世に持ち帰れば、恐ろしい魔法として働く。
だが、絶望の石板の欠片を持ったものは、必ず死の門を潜らされることになる。かってオーディーン神はその一部を現世に持ち帰った。自分を自分自身に捧げて死ぬことで、死の門を潜った先が自分になるように仕向けたからだ。だが、今ではルールは変えられ、オーディン神のトリックは使えなくなってしまっている。
キリアもこのことは知っている。でなければ自分でここに来て、絶望の石板を丸ごと持ち帰っていただろう。
そんなことになれば地上はいったいどうなる?
ただし、今回の俺の狙いはこれじゃない。ドームの救出だ。
俺は絶望の石板の側面を駆け上がった。石板の一部は崩れ落ちていて、登るだけの手がかりがある。
石板の中ほどまで登った所で、向うで何が起きているのかが分かった。
頂上に二つのアーチ。その前に居るのはドーム。それとあれは何だ。
女のようにも見える。
デーモンのようにも見える。
骸骨のようにも見える。
あるいはただのボロ布の塊か。
ただしそれは動いていた。ドームの手を引っ張り、門の一つへと誘いこもうとしている。
あれがマーニーアンの言っていた冥界の悪鬼か。とすればドームが入ろうとしているのが死の門か。あれに入れば、ドームは死ぬ。完全に。蘇生呪文の利かない真の死へと滑り込む。
ドーム!
さらに石板の向うに、こちらに迫りつつある巨大な影。何かの神の姿だ。そうだ、あれは救済を行う優しき神カドルトだ。
ドームは気づいていないのか?
何故か、カドルト神から逃げている。
俺は石板の崩れたところを回り込み、ドームの背後に出た。ドームに追いつくまで後、少し。 間に合わない。俺は持って来た袋を開けた。キリアから渡された袋だ。
「ドーム!」
キリアの声が轟いた。
死んだ神と死んだ人間しかいない冥界で、生きた者の声が何を引き起こすのか、俺は初めて知った。
絶望の石板に刻まれた文字が激しく輝き、暗い冥界の天井と大地が呼応するかのように震えた。反響が広がり、冥界の隅々まで届く。どこか遠くで、何かの獣が三匹、目覚めと同時に雄叫びを上げた。
ドームが反射的に振り向いた。その動きが止まる。ドームがカドルト神と見つめ合う。
強い風が吹き荒れた。ドームの手を掴んだままの何かが、叫び声を上げながら、門の中へと吸い込まれる。
ミッション終了。これでドームは助かる。
俺はその場で影に溶け込んだまま、カドルト神の導きによりドームが生の門へと入るのを見届けた。それから踵を返すと、冥界の入り口目掛けて疾走した。
ドームは死んでここに来たから、生の門を通って帰ることができる。俺は生きたままここに来たから、冥界の門まで帰る必要がある。
仕事は終りだ。最後の一つを除いて。
冥界の門が近づく。やはり駄目だ。門の前にはケルベロスが目を怒りに燃やしながら立ちはだかっている。その横をすり抜けることはできそうにない。
これが最後の仕事だ。
ケルベロスを倒すこと。
ケルベロスは俺を見つけると睨みつけた。
「やっと来たぞ」
「食事の時間だ」
「冥王さまに怒られる」
ガチガチと牙を噛み合わせ、涎を垂らした。
戦うしかない。俺は身構えた。だが、ケルベロスは強い。
ケルベロスの真ん中の頭が口を開き、炎が噴き出した。跳んで避けようとしたとき、俺の影から一人の男が滑り出た。その男が呪文を唱えると、ケルベロスの吐いた炎は空中で凍りつき、砕けた。
「雪風。参る」男が名乗った。
もう一人の影が滑り出た。
「夜霧。参る」その男も名乗りを上げた。
「二人とも!」俺は言葉に詰まった。ようやく会えたのだ。長い間探し求めた者たちに。
「ここは冥界。永遠の闇。影に潜む忍者に取っては故郷も同じ」雪影が言った。
「だからこそ、我らは常にお主と共にあった」夜霧が言った。
「三人いたとて同じことよ」ケルベロスが咆哮した。
「ただの三人ではないぞ。かって我らは英雄であった」
「ただの三人ではないぞ。かって我らは最強と歌われた忍者であった」
「ただの三人ではないぞ。三人寄れば如何なる敵をも打ち砕く」
最後は俺の言葉だ。
俺たち三人は戦った。殴り、突き、蹴り、そして礫を投げた。二人が戦っている間に一人が魔法を使い、ケルベロスを追い詰めて行った。
三位一体。いまの俺たちは無敵だった。かって一人であった最強の忍者の再来だ。
最後の首が抵抗を諦め、ケルベロスの巨体が敗北を認めてうずくまると、俺たちはその横を通り抜け、冥界の門へと向かった。
「月影。お前が先頭を行け」雪風が示した。
俺は現世の光が差し込んで来る冥界の門を眩しく見つめながら進んだ。
「二人とも。話したいことがたくさんある。俺たちはきっとまた一つになれる」
「その事はキリアと十分に話し合った」夜霧が言った。
「その結果、俺たちが再び融合することは不可能だとの結論に至った」
「もはや我らの道行は異なる。我らが共にあるのはここ冥界だけの出来事」雪風も言った。
「そんなことはない。きっと手段がある」俺は断言した。そうとも、必ず道はある。
「そうは思えぬ。月影よ。さらば。達者でな」
そう言ったのは、夜霧か、雪風か。俺は振り返った。
そこにはただ空っぽの冥界が広がるだけだった。
俺は夜を満たす死の霧。
俺は凍てつく無情の風。
俺は空なる月の落とす影。
俺は月影。孤高の忍者。
だが、いつの日か、俺も死ぬ。夜霧も、雪風も。
そうしてまた俺たちは、ここ冥界でまた一つに再会することになるのだ。
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