第八話 冥界の深き底で(後編)


 俺はただ無言でスーリの向いに座った。

「ドーム。兄さんを殺したのね」スーリは言った。

 沈黙が答えた。

「いいのよ。ドーム。兄さんはもう次の世界に行ったわ。でもあたしは別」

「スーリ」

 俺は何を言えば良かったのだろう?

 謝罪? それとも愛の言葉?

「愛しているわ。ドーム。ここ、冥界にはあの世界のシナリオは影響しない。

 ここでなら、あたしは貴方を心から愛することが出来る

 ここでなら、あたしは貴方の敵では無い」

「…」

「どうして黙っているの? ドーム。あたしを愛してはいないの?」

「だが、スーリ。俺は生き返るつもりだ。この地で暮らすつもりは無い。俺は生の門を見つけるつもりだ」

「では、あたしも行くわ。ドーム。これからはいつも一緒よ」スーリは立ち上がった。

 焚火の炎がその動きにつれて、すっと小さくなった。

「しかし。スーリ。君は生き返る事が出来るのか?」

「できるわ。あたしはモルゴドの司祭尼長よ。魔法には長けているの。

 シギン兄さんから聞いたわ。あちらではあたしの複製が山ほど生まれているって。

 その中の一つに潜り込むのはたやすい事よ。生の門さえ見つかれば」

「スーリ」やっと俺はスーリの手を握った。喪失を恐れること無く。「行こう」



 スーリを失ってからの長い間、どれだけスーリの事を考えただろう。

 俺は遂にスーリを見つけた。それを期待して死んだのでは無いが。

 交わす言葉も無く、俺はただスーリと二人で暗い荒野を歩いた。

 スーリは静かに俺の後ろを歩んでいた。

 目の前に巨大な門が出現したのは、その時だ!

 丸いアーチ型のその門は、周りに女性の姿をした彫刻を配した巨大なものだった。門の中からは強烈な光が溢れ、しかとは判らぬこれも巨大な何者かの姿がその光の中に見えた。

「ドーム! 死の門よ!」スーリが叫んだ。

 スーリの手が俺の手を探り、しっかりと掴んだ。

「離さないでドーム。離せば冥界の奥底へ連れていかれるわ」

 突風が荒野を吹き渡った。激烈な風が門へと流れ込む。足元がすくわれ、俺の身体が風に吹かれて宙に浮き上がりかけた。

 髪が引っ張られ、俺は門へと吸い込まれて行った。スーリの手が万力のように俺を捉えなかったら、そのまま門の中へと吸い込まれていただろう。

「ドーム。離さないで!」スーリが叫ぶ。

 俺は離さなかった。

 しばらく続いた風もやがては弱まり、それと共に門もかき消すように消え去った。

「スーリ。今のは一体?」俺は荒い息をつきながら聞いた。

 スーリはあの風の中でどうやって足場を確保したのだろう? この細身で。

「死の門よ。あれに吸い込まれたらおしまい。

 あたしはモルゴド神の力の加護があるの。まだ少しはね。

 門に抵抗することも門を見分けることもできるの」

 俺は納得した。取り敢えず、死の門の攻撃は過ごした。

 後は生の門を見つけて、スーリと元の世界に帰るだけだ。



 ドームの死体は、穏やかなきらめきと共に魔法陣の中で灰と化した。

 カント寺院の蘇生室の床に描かれた魔法陣の中で輝ける命の杖を振りかざしていたマーニーアンが、法衣の裾を引きずりながら出てきた。

 キリアが驚きの声を上げる。

「マーニー。なんということだ。お前ほどの高位の僧侶の呪文が失敗するとは!」

 カント寺院の尼僧長のマーニーアンがその場に立ち会っていたシオンや月影に目をやると、深刻な声で答えた。

「呪文が失敗したのはこちらのせいではないわ。キリア」

 マーニーアンは従者の尼僧が持って来た椅子へと座り込んだ。蘇生呪文は術者の体力をひどく消耗させる。

「何かが、あちらでドームを捕まえているようなの。ときたまある事だけど。

 その何かがドームを離さない限り、ドームの蘇生は無理よ」

 それは一体何なのだ、とのキリアの問にマーニーアンは首を横に振った。

「判らないわ。冥界に潜む悪魔の一種だとは思うけど。

 でも、何とかしなくちゃ。

 早くしないとドームがその悪魔に、更に深い冥界の奥へと連れて行かれるわ。

 そうなったら究極の蘇生呪文カドルトを使っても蘇りは無理よ」

「どうすればいい。マーニー」いつに無く真剣なキリア。

「なんとか・・ドームに危機を伝えられればいいのだけど。でも冥界に入れるのは死者だけよ。つまり誰かが一度死んで冥界へ旅をしないといけないことになるわね」

 しばしの沈黙。

「わしが行こう」キリアがきっぱりと言う。

「駄目よ。キリア。あなたは歳を取り過ぎてるわ。蘇生はドームより難しいわ」

 マーニーアンが止めた。

「それに冥界は広大よ。それは必要なだけ広がるの。誰かが向こうに行ったからと行って、必ずドームが見つかるとは限らないわ」

「俺が行ってくるよ。こいつと酒が飲めないのは寂しい」シオンが頭を掻き掻き名乗りを上げる。「俺なら体力もあるし、蘇生も楽だろう」

「俺が行く」月影が言った。

 皆の視線が月影に集中した。

「勘違いするな。俺は何も死ぬと言っているのでは無い」月影が厳しい声で答えた。

「忍者は影に隠れることを得意とする。影ある所ならば、どこでも忍者は潜れるのだ。

 冥界は広大な影の地帯だと聞く。忍者ならば潜り込むことが出来るかも知れない。

 少なくとも、俺ならば、潜ることができると思う」

 この提案にマーニーアンとキリアはしばらくの間、議論をしていた。

「良かろう。それは可能なように思える」キリアが結論を出した。

「だが、いいか? 恐らく、冥界に送れるのは、月影よ。お前の影だけじゃ。

 生身の身体を持って、冥界に行くことは致命的な影響があるとわしらは判断する」

「影? 俺の影だけか・・・」月影が床に落ちる自分の影を見つめる。

「影だ。お前に取っては、それは自分の身体のようには思える。夢の中を歩くように、冥界を歩くことは出来る。

 それと月影よ。これを果たしてくれたならば、お前が一番聞きたがっていた答えを渡す。残り二人の居場所を」

「要らない」月影はそう答えた。

「友人を救うのに褒美などは求めない」

 しばらくの沈黙の後にシオンが感想を漏らした。

「良い答えだ」


「それでドームを見つけたらどうすればいい?」支度をしながら月影が訪ねた。

「ドームを見つけたら、この袋を開けろ。わしの声が封じてある。できればドームに張り付いておる悪鬼の正体を教えるのじゃ。悪鬼さえおらねば、蘇生呪文は上手く働く。

 仕事を終えたら、すぐにこちらに戻って来るのじゃ。さもないと冥界の管理者に捕まってしまう。生きている者の声は冥界の中では狼煙のように目立つからのう」

 月影は無言で頷いた。キリアとマーニーアンが決定した事ならば、間違い無くそれが最善の方法なのだろう。ウィザードリイ世界で彼らは一番の賢者達なのだから。

 魔法技術的な計算はキリアが行い、それに従ってマーニーアンが魔法陣を書き換えた。

 やがて装備を整えた月影は冥界へと潜り込んだ。暗い影が一つ、冥界の中に浮かぶ。

 それはひたすら冥界の闇の中を見つめた。多くの死者の魂が周囲を歩いていく。月影はそれに紛れ込み歩きだした。



 俺はスーリを連れて旅を続けていた。

 『絶望の石版』は次第に大きくなり、俺達の前に立ちはだかるようだった。それは小山ほどの大きさがあった。

 再び大きな焚火を見つけたのは石版の根本近くであった。

 神の燃やす焚火であることを意味するその大きくて強烈な炎の中には、端正な顔立ちの神が映されていた。

「あなたは?」俺は臆することなく尋ねた。

 なんだか、この世界ではそれが神に対する正しい態度の様に思えたのだ。

 冥界では過去も自分の思いも隠すことは出来ない。その必要は無い。

 ここには真実のみが存在する。だからこそ・・・地獄と言われるのだろう・・・

 神は喋り始めた。

「初めてお目にかかる、と言って間違いはないか。私は狂気の神ニルギド」

 背後ではっとスーリが息を飲むのが聞こえた。

「そちらの女性は私を知っているようだな。

 そうだ。愛の邪神モルゴドは、私の分身。私を構成する多重自我の一つだ」

 頭こそ熱くはならなかったが、俺には意味が判らなかった。

「そのニルギドがなんの用だ?」

「そう警戒するものでは無い。ドームよ。お前に危害を加えると言っておるのでは無い」

 ニルギドはそっと笑った。

 俺はなんだか背筋がぞっとした。その静かな笑いのどこに問題があったのかは判らない。だが、俺にはニルギドの中の邪悪さが少し感じとれたような気がしたからだ。

「狂気。狂気。そも狂気とはなんぞや?」ニルギドが尋ねた。

 俺が答えるより早くニルギドは自分で自分に答えた。

「狂気は世界の守護者。

 狂気は世界を維持する。

 世界そのものさえも狂気が生み出した」

 ニルギドは両手を暗いままの天に向けて差し出した。

「私の力はあらゆる所に広がる。この世界のすべては私の物だ」

 俺は呆れて、この神を見ていた。スーリが何かを恐れるかのようにニルギドを見つめているのが横目で見えた。

 なぜかここに来るまで一度もスーリは俺の前を歩くことは無かった。俺は振り向かずにここまでやって来た。ボーンの警告を心にとどめていたからだ。振り返れば得た者を失うだろうと。

 俺はこの冥界でスーリを得た。

 だが、スーリを失うつもりは無い。

「その神が俺に何の用だ?」俺は再び聞いて見た。

 なんだか、この神の言うことを聞いていると自分の立場を忘れそうになる気がする。

 これも冥界の罠の一つなのだろうか?

「不粋な奴だな。ドーム。折角、狂気の自己陶酔に浸っていると言うのに」

 神は睨んだ。ニルギド神の視線の周りにキナ臭い匂いがした。

 雷撃呪文メリトを撃った後に嗅ぐことが出来るような匂いだ。大気が焦げている。視線一つで。

「俺は忙しいんでね」できるだけ冷たい声で言った。

「では結論から行こう。ドーム。私の臣下になる気は無いか?」

 ニルギド神は飛んでもないことを言い出した。

「臣下?」

 俺が?

 狂気の神ニルギドの臣下?

「そうだ。私はずっとお前を観察して来た。お前の中の狂気。狂戦士としての力。お前の生き方を。

 そしてこう考えた。

 お前の魂は極上であると。

 お前を臣下にすれば私の重要な手駒になってくれるだろうと。キリアと同様にな」

「キリアがお前の手駒?」

「そうだ。気付かなかったのか? ドーム。キリアの狂いようを」

 確かに・・キリアは根源の神に関することになると気が違った様になる。

 それが、狂気の神ニルギドのせいだとは思いもしなかった。

「お前もだ。ドーム。お前がどうしてそこの娘に耽溺しているのか。

 判っているのか?

 ドームよ。」

「俺がスーリを愛していることに何か狂気が関係あるというのか? ニルギドよ」

「ドーム。こんな神の言うことを聞く必要は無いわ。行きましょう」

 スーリが俺の腕を引っ張った。

「そうだ。お前がその娘を愛するのは何故か。お前は考えたことがあるのか?」

「スーリを愛する理由?」俺はスーリの顔を見た。

 無論、横目でだ。振り返ってたまるか。

「そうだ。ドーム。その娘の魔法により、愛の邪神モルゴドが呼び出された瞬間。お前は我が分身であるモルゴドの力を浴びたのだ。

 狂気の愛はお前の内に宿り、お前をここまで導いたのだ。お前が死んだのは、スーリに対する負目が心の中に残っていたせいだ。でなければあの程度の忍者にお前が倒せるわけがない」

 俺は無言だった。考えていたのだ。

「ドームよ。私の臣下になれ。私はやがて世界を手に入れるだろう」

 ニルギド神は猫撫で声で俺に言った。

「断る!」俺は叫んだ。

 戦いの神チュールは言った。恐れるな、と。

 きっとこの神の誘いのことを言っていたのだろう。


 キリアは自由というものが存在する真世界を求めて根源の神を探している。

 マーニーアンを愛するがゆえに、恐るべき困難に立ち向っている。

 だが、それを狂気とは俺は思わない。

 同様に俺はスーリを愛する。だが、それはモルゴドの力を浴びたからでは無い。

 これ以上、狂気に関わるのは御免だ。これ以上、惑わされるのも。

 俺の答えに、ニルギドは俺の顔をじっと見つめた。たちまち俺の身体が冷たくなる。

 俺はその瞳の中に、チュールやオーディンの目には無かった物を見たのだ。


 悪意。

 狂気。

 そして・・・強烈な絶望。

 絶望の石版を刻んだのは、この神だったのかも知れない。

 狂気とはそも何なのだろう?

 得られることの無いものへの飽くことなき渇望?

 あるいは、己を繋ぐ枷への絶望的な抵抗?

 ニルギドの瞳の中に見たものだけは、冥界を抜けても忘れることは無いのではないだろうか?

 俺は心底そう思った。


「判った。戦士ドームよ。では私と賭けをしよう」

 ニルギドは厳しく冷たい声で言った。

「賭けに応じない限り、ここより先には行かせない」

「どんな賭けだ?」俺は尋ねた。

「お前の魂を賭けて貰おう。私はお前がこの冥界から現界へ戻れない方へ賭ける」

「では俺が勝ったら?」

「何が欲しい? オーディンブレードより切れる剣か? それともいま再びの狂戦士の力か?」

「それでは賭け金が吊り合わない。俺の魂を賭けるのなら、それに見合うものを賭けて欲しい」

「お前の魂にそれほどの価値があると?」

「さっき自分で言ったでは無いか。ニルギド神よ。俺の魂は極上だと」

 ニルギド神はいたずらっぽく笑った。

「何が望みだ? 望みの物を言うが良い」

 ニルギドの身体はいつの間にか大きくなっていて、俺を上から見下ろす形になっている。

 ギルガメシュ酒場の一番上等な酒を百樽というのはどうだろう。いや、ニルギド神の力が本物ならあの月の極上の酒を百樽というのはどうだ。

 いや、それより先に考えなくてはいけないことがある。

「俺が勝ったら。俺が現界に戻ったら。ニルギド神よ。

 お前はキリアの頭の中から出て行け。

 俺達のウィザードリイ世界から全ての手を引け」

「戦士よ。お前は自分の言っていることが判っているのか?

 ウィザードリイ世界は私の力が維持しているのだぞ」

「俺はそれを信じない。この賭けを受けるのか、止めるのか?

 止めるのならば、直ちにこの場から立ち去れ」

「戦士よ。お前は誰に対して物を言っている?」

「狂気の神ニルギドよ。お前に対して俺は喋っている。さあ、賭けを受けるのか?」

 ぞっとするような静けさ。今まで冥界の中に常にあった静けさも、実は様々な音を含んだ静けさであったことを俺は知った。荒野を渡る風さえもがこの瞬間、声を潜めた。

 が、やがて、暗い天空から爆笑が聞こえて来た。

「受けよう。戦士よ。分の悪い賭けだが。私は狂気。ゆえにその賭けを受けよう。戦士よ。

 見事、この冥界から脱出して見せるが良い」

 強烈に燃え盛っていた炎が消えた。会見は終りと言うことだ。



 焚火を一つ越える度に、絶望の石版は近付いているようだ。

 ここでは思いの深さ、因果の絡みこそが距離を決めるのが俺には判った。

 オーディンが冥界から絶望の言葉を盗めたのは奴の賢さゆえでは無い。奴の貪欲さが冥界そのものを越えていたという事なのだ。

 世界に深い愛着を持つ者には、逆に生き返る事も輪廻へ向うことも許されない。

 それらは全て世界に負担をかけることだからだ。だからこそ冥界は、その内において引きずって来た因果を果たさせようとする。背負ったものを全て下し、自己の内に何らかの平安を見出したものだけを解放する。

 この闇の平原で己の背負った罪に向き合い折り合いをつけさせる。すべての遭うべき焚火を越えるまで、生の門にも死の門にも行きつくことができない。

 俺はやっと納得が入った。

 きっとキリアが生き返るときには、俺よりももっと多くの焚火を越える必要があったのだろう。いや、あの爺さんのことだ。冥界を騙す何らかの方法を見つけ出したのかもしれない。


 そしてついに俺は絶望の石板へと辿りついた。



 絶望の石版の周りには無数の亡者が蠢いていた。

 俺は、絶望の石版の頂上を見つめた。何かの輝きが二つ、小さく見える。


 チュール神は言った。戦士は絶望の中に希望を見つけると・・

 オーディン神は致命傷となり兼ねない石版の言葉を自分の身体に刻み込んだ。

 とすれば出口は石版の近くにあったに違い無い。そうで無ければ、幾ら距離を縮められても、現世に戻る余裕は無かったはずだ。

 俺は確信した。

 生の門は絶望の石版の上にあると・・・。あの石板の頂上の輝きが、生の門だ。


 俺は背後のスーリの手を握ると、亡者の群の中に飛び込んだ。

 無数の亡者はどれも火傷を身体に負っているのが、暗い中でもどういうわけかはっきりと見て取れた。それが俺の放った炎によって焼き殺された月の民たちであることに気付いて俺はぞっとした。

「ドーム! この人たち。私と同じ月の民よ!」スーリが悲鳴を上げた。

 その声を聞き付けて、周りの亡者たちが俺に気付いた。

 中の何人かが俺を指さして何か叫ぶ。それを聞いて、他の亡者たちがどっと俺へと殺到して来た。

 掴みかかる手を跳ね除け、俺はスーリの手を引いてひたすら石版の頂上めがけて登った。

 山と見紛う巨大な石版の周りのこの瓦礫は長い間に崩れた石版からの破片らしい。それも砕け落ちた当時のままらしい鋭い破片だ。

 俺はスーリの腕を引き寄せると、背中へとかつぎ上げた。

 裸足の足が破片で切れて血を流すのが感じとれたが、俺は速度を緩めなかった。

 前に立ちはだかる亡者を、俺は跳ね飛ばして進んだ。奇妙に亡者は弱く、俺の腕に押されて砕け散る奴もいた。どうやら完全に死んだわけではない俺の方が存在としての根本が強いらしい。

 背中のスーリがこれもひどく軽く思えるのが、俺は気になった。


 だが、俺は振り返らなかった。



 月影は光る文字の揺らめく、不思議な岩山に到達した。

 ここに来るまでに、多くの時間を費やした。月影もやはり、冥界の掟に半分埋まっていたのだ。冥界は不法な侵入者に注意している。特にこの石版の周りでは。

 月影は、その岩山の中を通る登り道に何かの光る足跡を見付けた。

 それと岩山へと近付く巨大な影を。



 やがて俺は石版の頂上へと続く道のりの半分をこなした。

 亡者の群はそれ以上、俺達を追っては来なかった。

 右手に見える奇妙な岩肌の上に、刻まれている巨大な文字の数々が、中で石炭が燃えているかのように、ときたま赤く揺らめいた。

 世界原初の呪いの言葉。絶望の詩。その一部を声に出して読んだだけで破滅が出現する。

 あいにく、俺にはその文字が読めなかったが。

「ドーム。見て!」

 スーリが俺の顔の横で遠くを指差した。

 この高さから見える暗い地平線の平坦なシルエットの中に、何か動くものが見える。

 ・・・それは人型をしていた。

 恐ろしく巨大だ。この距離でこれほどの大きさに見えるとは。しばらく見つめて、それが石版、つまりは俺の方へと向っていると確信した。

「生の門の守護者よ。聞いたことがあるわ。ドーム。急いで。あれに捕まったらおしまいよ」

 スーリが断言した。

 またもや妨害だ。冥界はよっぽど死者を手放すのが厭と見える。なるほど狂気の神ニルギドが喜んで賭けをするわけだ。

 俺は全力で石版の頂上に急いだ。

 目の隅に捉えられる巨人のシルエットはだんだん大きくなって来る。

 間に合うだろうか?

 遂に残りの工程をこなして、俺は石版の頂上に立った。

 足から流れ出た血が辺りに飛び散る。俺の血は奇妙に光を放っていた。

 頂上には門が二つ、いずれも内部から光を溢れさせてそこに聳えていた。

 普通ならば亡者はここまで登れない。生き返る望みの無い者は・・・なるほど。

 俺は迷った。

 きっと一方は死の門だ。両方が死の門と言う可能性も考えられるが、そこまでは疑うまい。

 どのみち俺たちはどちらかの門に入らねばならない。

 山の巨人はついそこまで来ている。石版を降りて逃げる暇は無い。

 何度見ても、どちらの石版もそっくり同じに見えた。

「こっちよ。ドーム。こっちが生の門よ」

 スーリが指差した。

「どうして判る?」俺はスーリの示した門を見つめた。やっぱり違いは見つからない。

「あたしにはモルゴドの加護があるの。門を見分けることができるのよ。

 急いで。ドーム!

 守護者はそこまで来ているわ」

 俺の立っている地面がわずかに揺れた。巨人が石版を登り始めたのだ。

 俺はスーリの手を握ったまま、その門へと急いだ。

【・・・待て!・・・】

 恐ろしく強烈な意志を込めた声が轟いた。守護者の声だろう。俺の体から力が抜ける。

 俺は萎えそうになる足を叱って、門へと飛び込もうとした。

「ドーム!」雷鳴のように轟く、だが懐かしいキリアの声が俺の耳に届いた。それと同時にもっと懐かしいあの声が重なって聞こえた。それは、こう呼びかけていた。

 ・・ぼうず・・

「お師匠! キリア!」俺は安堵した余りに、遂に振り向いてしまった。

 しまった!

 俺は振り向いてしまったのだ。

 そこにはキリアの姿は無かった。

 背後に迫る巨人と、その前で今にも消えかけている何かの影。

 そして・・・スーリの邪悪な笑い顔。


 それは例えようも無く邪悪だった。

 俺の死を確信した顔。

 俺の破滅を喜ぶ顔。

 裏切られたとわかったときの俺の絶望をいままさに味わわんとする悪鬼の顔。


 その瞬間、俺は悟った。

 俺がスーリを愛したのは、月でのスーリの複製には無かった、この邪悪さ。

 僅かな苦みが料理の味を調えるように、スーリの邪悪さがそのままスーリの複雑さの魅力だったのだと。

 モンスター蛾がマハリトの炎の中に己から飛び込むかのように、俺もまた危険を感じさせるスーリの雰囲気に引かれていたのだと、俺はついに理解した。

 俺の心の周りに蜘蛛の糸の様に巻き付いていた愛の邪神モルゴドの力が、一瞬の達観の内に感知できた。

 風が吹いて来た。風はスーリの周りにまとわり付き、俺から引き剥そうとした。

 振り返れば・・・それが冥界の掟だ。ボーンの声が頭に響いて来た。スーリは失われなくてはいけない。永遠に。

「ドーム! 後、少しだったのに! ドーム! 後…」

 風に巻き上げられた石がスーリの手を掴んだ俺の腕に当り、一瞬俺の腕の力が緩んだ。汗で滑べり易くなっていた手が離れ、慌てて延ばしたもう一つの手はスーリの服の袖しか掴めなかった。あっさりと掴んだ袖が破れ、そして。

 強烈な風はついに俺からスーリを奪い去り、永遠の闇が支配する冥界の死の門の中へと運び去った。俺がたったいま踏み込もうとしていたその門の中へ。

 絶望の叫びを上げながら、スーリは俺の目の前から消えた。永久に。完全に。俺の手の中に残ったのは、スーリの衣服の切れ端がひとつ。それだけだった。


 巨人が近付いて来た。


 俺は唇の端を噛み締めると巨人を睨みつけた。決しておたおたと逃げたりはしない。俺は戦士だ。

 この巨人は、門の守護者は、俺からスーリを奪った。

 拳の一つもできることならお見舞したいものだ。

 巨人の姿が見えるようになった。漆黒の髪、漆黒の肌。そして優しい面立ち。なんということだ。俺はこの巨人に見覚えがある。

 カントの寺院の中にはこの神の彫像がある。

「カドルト神よ。あなただったのですか」俺は体から力を抜いた。

「そうだ。ドーム。我が子よ。

 尼僧長マーニーアンはお前の蘇生のためにカドルト呪文により私を呼んだのだ。

 危ない所であったな。ドームよ。冥界の小鬼にたぶらかされたな。

 その門こそが死の門。お前の入るべきはもう一つの門だ」

「あれは小鬼? スーリでは無かったのですか」俺は驚きと共に尋ねた。

「それがお前の質問ならば答えてやろう。先ほどの娘はお前がスーリと呼ぶその女に間違いは無い。ここ冥界では全ての者はその本性を隠すことは出来ない。

 スーリはお前を完全に殺そうとしたのだ。私が来てしまってはもう打つ手は無いからな。

 あの者の時はすでに残ってはいない。スーリは死の門の先で己の運命に出会うことになる。たった一人で」

「一緒に行ってあげても良かったのに」俺はつぶやいた。

 カドルト神は俺のつぶやきを聞き取った。

「馬鹿な事を言うものでは無い。ドーム。

 お前にはまだ果たさねばならぬ仕事がある。

 行かねばならぬ場所がある。

 多くの者が、多くの世界がお前を待っている。

 ここは眠りを選んだ者の場だ。お前の時はまだ尽きていない。

 ドームよ。お前の名は『運命』を表すものだ。

 お前の運命を、さあ、受け入れに行くが良い」

 カドルト神はもう一つの門を示した。


 俺は考えて見た。

 俺に纏わりついていた全ての重荷は消えた。なるほど、冥界は全ての絡みを解く。スーリが死の門を潜った瞬間、彼女は俺に取っての過去へと変わった。どんなに取り戻したくても決して取り戻すことのできない場所へと消えた。俺の愛とともに。

 もはや後悔はしない。それは戦士にはふさわしくないものだから。


 俺の人生は以前と同じく単純な物となったようだ。

 人間。一度は死んで見るのも悪くは無いのかもしれない。

 それから、俺は、生の門へと、光の中へと足を踏み入れた。



 カント寺院の中、強力な蘇生魔法陣の中央で俺は目覚めた。

 冥界で迎えた暗い朝の記憶が一瞬頭の中に浮かんだが、それも眼に溢れる光の中に消散した。

「ドーム。良かった」ほっとキリアが安堵の息をつく。

「き・・キリア。俺は一体」

 隣に描かれた魔法陣の中で横たわっていた月影がうめき声を上げながら起き上がる。

「なんだ、月影。お前も死んだのか?」

 そこまで言って、はっと俺は思い出した。

 そうだ、俺は確か死んだのだ。あの敵の忍者の一撃を受けて。

 俺は自分の首筋に手をやった。忍者にやられた所だ。

「動かないで! ドーム」マーニーアンの叱咤が飛んだ。「そのまま」

 わけもわからずに俺は凍りついた。

 それほど、マーニーアンの口調には有無を言わせぬものがあった。

 マーニーアンは俺に近付くと、俺が首筋にやった手の中に握ったままの布の切れ端を差し示した。

「その布をあの円の中に置いて。早く」

 切迫した口調でマーニーアンは部屋の隅の魔法陣を示した。

 俺は素直に布をその中に置いた。

「下がって」

 マーニーアンはそう言うと、魔法陣に向って呪文を唱えた。魔法陣の周りに青いきらめきが起こり、陽炎の様に魔法力場が魔法陣を閉じる。

 これほど魔法力場の結界線が目にはっきり見えるとは恐ろしいほどの強さの魔法ということだ。

 あの布一枚にマーニーアンは何を警戒しているのだろう?

「今のはもしや?」キリアがマーニーアンに尋ねた。

「そう。冥界布よ。ごくまれに蘇生者はあちらの世界から何かを持って来ることがあるのよ。ドーム。手を出して」

 マーニーアンは俺の手を取った。

 驚いたことに、布を掴んでいた俺の手は青黒く変色していた。

 今になってようやく、ちくちくと針で刺す様な痛みがその手に湧き起こって来る。

「すぐに引き離さないと手遅れになるのよ。あれは負の生命力に満ちているの」

 マーニーアンはそこまで言うと、俺の手に完全治療呪文マディをかけた。

「向こうの方で誰かに会ったのね。ドーム。よほど断ち難い人と」

 俺はマーニーアンの質問を考えてみた。何も思い出せない。

 向こう?

 俺はずっとここで死んでいたんだぜ。

 しかし、俺はなんだか忘れてはならないことを忘れたような気がした。

 痩せた暗い目をした、見たことも無い男の顔が見えるような気もした。

 しばらく考えた末、俺は首を横に振った。

「知らない。何も思い出せない」

「そう。ドーム。それでいいのよ」

 マーニーアンは俺の顔をじっと見つめて言った。

「あの布は処分するわ。いいわね? ドーム」

 俺は頷いた。何か懐かしい人の面影が思い出せそうな感触があったが。

 月影が首筋を揉み揉みやって来た。ご苦労、とキリアが労う。

 何だ? 何があったんだ? 一体全体?

 マーニーアンが冥界布の入った魔法陣に向って呪文を唱えた。それと共に魔法陣の中で炎が燃え上がった。


 驚く俺達の目の前で、布は叫んだ。人の声で!

 焼け、変形し、ちぢれ、そして確かに・・・

 スーリの顔へと変貌し、もう一度何かを叫んでから、布は焼け落ちた。

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