午後5時55分

 教室の窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らし、黒板の上にかけられた壁時計の長針がカチリと動く。手に握りしめたスマホのデジタル時計が、それから5秒遅れて変化する。


「今日はずいぶん焦って来てくれたんだね」


 午後5時55分。


 時間ぴったりに教室の中に足を踏み入れたわたしの耳に、彼の声が届く。


 目を細めて、ふふっと楽しそうに笑う彼――、トウはわたしの好きなひとだ。


 わたしとトウが放課後にふたりきりで会うようになったのは半年前。


 待ち合わせ場所は、わたし達が初めて言葉を交わした二年三組の教室で。時間は、必ず午後5時55分と決まっている。


「今日は音楽室の時計が10分近く遅れてたの。部長も先生も誰も気付いてなくて、音楽室を出るときにスマホで時間を見てすごく焦った。トウとの待ち合わせに遅れちゃうと思って」

「僕は少しくらいの遅刻は気にしないよ」

「トウが気にしなくても、わたしはイヤなの」


 教室の窓際まで歩いていくと、トウが座っている席の前の椅子をくるりと反転させて、机を挟んで彼と向かい合うようにして座る。


「待ち合わせに遅れたら、トウと話せる時間が減っちゃうでしょ。わたしは、トウとの時間を1秒でもムダにしたくないんだもん」


 机に頬杖をついて、ぷぅっと頬を膨らませると、トウが笑った。


「ありがとう。僕も、すずと話せる放課後の時間が一番好きだよ。今日も、ここに座ってすずのことを待ちながら、約束の時間が来るのが待ち遠しくて仕方なかった」


 トウがそう言って、わたしの真似をして机に頬杖をつく。わたしを見つめて優しく目を細めるトウ。その仕草に、胸がドクンと高鳴った。


 わたしが大好きなトウは、とても綺麗だ。色素の薄い茶色のサラサラの髪、奥二重の切れ長の目、制服のシャツの袖から覗く腕は細くて、透きとおるような白い肌をしている。


 だけど、トウが綺麗なのは見た目だけじゃない。同年代の男の子よりも少しトーンの高いトウの話し声は、透明感があって耳触りが良い。わたしの話を聞いて楽しそうに笑う声は、そよぐ風のように爽やかだ。


 トウを初めて見たときから、わたしは彼のことをとても綺麗だと思っていた。授業中も休み時間も、わたしはこっそりと彼のことを見ていた。窓際に佇む彼の儚げで綺麗な横顔を、わたしは飽きることなく何分でも見つめ続けることができた。


 いつもどここをぼんやりと遠くを見つめていたトウと、教室の端から彼の横顔をこっそりと見つめていたわたし。授業中も休み時間も、そんなわたし達の視線が混じり合うことはなかった。


 トウは、彼を見つめるわたしの眼差しには気付いていない。そう思っていたから、放課後の教室で初めてトウに声をかけられたときはほんとうに驚いた。


 時刻は、ちょうど午後5時55分。合唱部の活動が終わったあと、わたしが忘れ物を取りに教室に行くとトウがいて、目が合った瞬間にふわりと微笑みかけられたのだ。


「君、いつも僕のこと見てるでしょ。名前、なんて言うの?」


 初めて聞いたトウの声は、彼のイメージどおり。空気を静かに振るわせる、優しくて透明感のある声だった。


「……、三浦すず」


 まさか、ずっと見ていたことが彼にバレていたとは思わなかった。胸がドキドキして、恥ずかしくて、自分の名前を伝える声が震えた。


「すず……。可愛い名前だね。君の視線に気付いたときからずっと話してみたいと思ってたんだ」


 わたしがトウに向けていた眼差しは一方的なものだと思っていたから、彼の言葉に胸のドキドキが止まらなかった。


 ***


「今日の部活はどうだった?」


 頬杖をついてお互いを見つめ合ったあと、トウが首を傾げながら問いかけてきた。


「二ヶ月後に文化祭があるでしょ? だから今日は、発声練習をしたあと、みんなでステージで歌う曲の案を出し合ったんだ」

「そっか。もうそんな時期なんだね」

「そうだよ。合唱部のステージ時間は二十分で、曲紹介も入れて三曲歌う予定なの」

「楽しみだね」

「うん。文化祭は、わたし達が歌いたい曲を好きなように決められるからね。今日の話し合いで二曲は決まったんだけど、あとの一曲が意見が割れてるの。トウは、このふたつの曲だったら、どっちが好き?」


 わたしは制服のスカートのポケットからスマホを引っ張り出すと、女性グループが歌っている曲と男性ボーカルが歌うバンドの曲を一曲ずつトウに聞かせた。


「毎回すずに音楽を聴かされる度に思うんだけど……、こんな薄くて小さな機械から音が流れてくるってほんとうに不思議だよね」


 わたしと一緒にスマホで再生した曲を聴いていたトウが、関心するように上や横や斜めからわたしの手の中にあるスマホを眺める。


 ふたつの曲に対して何の先入観も持っていないトウに、どちらがいいか訊いてみたかったのに、トウは音楽よりもそれを鳴らしていたスマホのほうに興味深々だ。


 今どきの高校生なら、みんなスマホなんて当たり前に持っているのに。トウの感覚は今のわたし達の感覚とは少しズレているし、流行にも疎い。


 けれど、わたしはトウのそんなところも好きだった。わたしのスマホやそこから流れてくる音楽に目を輝かせているトウは、なんだか可愛いのだ。


「それで、トウは今聴かせた二曲だったら、どっちがいいと思った?」

「うーん。どっちもよかったけど、最初に聴かせてもらった女の人が歌ってるほうかな。そっちのほうが、すずのイメージに合ってる」


 トウがわたしと目を合わせて、ふわっと微笑む。もう何度もトウの笑顔を近くで見ているはずなのに、彼に微笑みかけられる度にわたしの鼓動は速くなる。トウはどんな表情を浮かべていても綺麗だけれど、笑うととびきり綺麗に見えるのだ。


「合唱部みんなで歌うから、わたしのイメージはあんまり関係ないんだけど……」

「そうなの? 僕は、最初に聴かせてもらったほうをすずの声で聴きたいけど」


 机に頬杖をついたトウが透明な真っ直ぐとした声でそう言うから、言われたわたしが照れてしまう。


「トウは、わたし達のステージを聴きにこれる?」

「どこで歌うの?」

「体育館だよ」

「そっか……。だったら、ちょっと難しいかな……」


 眉根を寄せたトウが、淋しそうに声のトーンを落とす。悲しそうな表情を浮かべるトウを見て、わたしまで少し悲しくなった。


 トウとふたりで話せる時間はとても貴重だから、わたしはそのあいだ、できるだけたくさん、トウを笑顔にしたいのだ。


「ステージを聴きに来てもらえないのは残念だけど、友達に動画を撮っておいてもらうように頼んどくよ」

「動画?」

「うん。そうしたら、これで見せてあげるね」


 首を傾げているトウにスマホを見せて、その画面をトンッと指先でタップしたら、トウがパァッと目を輝かせて笑顔になった。


「文化祭、トウと一緒に回るのは難しいだろうけど、このクラスでやるクラス展示はわたしと一緒に見てくれる?」

「もちろん」

「約束ね」


 わたしがトウの前に右手を出して小指をたてると、トウもふふっと笑ってそこに右手の小指を絡めてきた。するりと、煙のようにすぐに離れていく感覚にドキリと胸を揺らしながら、わたしは、これからもずっとトウとの時間が続くことを願う。


 机を挟んで顔を寄せ合っているわたし達のあいだに、突然、窓からの風がブワッと吹き込んでくる。目を細めてそれを見送ったトウが、黒板の上の壁時計に視線を向けた。


「ああ、もうそろそろ時間だ。すずを待っているときは5分が永遠ほど長く感じるのに。すずと話しているあいだの5分は通りすぎてく風みたいに一瞬だね」


 ため息混じりにつぶやくトウの声を聞きながら、わたしも、黒板の上の壁時計を振り返る。


 午後5時59分。


 トウの言うとおり、わたし達がふたりで会話をできる時間はほんとうに一瞬だ。だからこそ、トウの声が聞ける放課後の5分間は、わたしにとってなによりもたいせつなのだ。


「あと少ししか時間がないみたいだから、今日は最後にすずの歌が聴きたいな。さっきその小さな四角い機械で聴かせてくれた歌を、すずの声で聴かせてよ。僕、すずの声好きなんだ」

「わたしも、トウの声好きだよ」


 トウの声は透明で、そよぐ風のように優しくて。わたしの心にまっすぐに沁みてくるから。


 リクエストに答えて、さっきスマホで流した女性歌手の曲を冒頭から口ずさむと、机に頬杖をついたトウがわたしの歌に聴き入るように目を閉じた。睫毛の長いトウは、目を閉じた顔もとても綺麗だ。


 手に握りしめているスマホのデジタル時計の時間が、教室の壁時計から5秒遅れで変化する。


 午後5時59分。


 今日もわたしの目の前で、トウの影が薄くなる。もともと色素の薄い茶色の髪や制服の袖から伸びた白い腕が、少しずつ透けていく。


「トウ……」


 つぶやいて手を伸ばしても、わたしはそこにいるトウに触れられない。


 特別な時間の終わり。


 哀しい気持ちで見つめるわたしと視線を合わせたトウは、困ったように眉根を寄せて、哀しそうに。だけど、やっぱり綺麗に笑うのだ。


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