第24話

 薄暗い、船の底。

 外を覗く窓すらないが、波でゆらゆらと上下する空間が、ここは海の上なのだと知らせてくれる。


 全体的に埃っぽく、中身の分からぬ袋や樽ばかりが詰め込まれた物置だ。

 ここに人を乗せることは想定されておらず、また誰も来ることはない。


 そんな船倉の隅に、両膝を抱え込んで俯いている少女がいた。

 ボロボロで汚れたフードを被っているが、その長く美しい白い毛を全て隠すことは出来ていない。


 俺が一歩足を踏み込むと、木床が軋み、彼女ははっと顔を上げた。目元が赤く、泣いていたのだと分かる。

 彼女は俺が来たと分かるなり笑顔を見せてくれたが、すぐにそれは失われた。


 「アユム!」


 一瞬の視界の暗転の後、気が付くと俺は彼女の顔を見上げていた。

 頭が柔らかいものの上に置かれ横たわっている。これは、膝の上、か?


 どうやら俺は、既に歩くことすらままならないほどの怪我らしい。意識を失いかけ、彼女に倒れ込んでしまったようだ。


 「一緒に居られるって、言ったのに……!」


 涙と共に絞り出される悲痛な叫びが、しんとしていた室内に響く。

 木の船底の向こうから、波の音も聞こえる。それは悲し気に、彼女のすすり泣く声と重なって聞こえた。


 「嘘、ついて……ごめんな。受け取って欲しいものがあるんだ。ほら、これ」


 隣に落ちていた麻袋を手繰り寄せ、中から木箱を取り出す。

 ユーティカが俺の代わりに箱の蓋を開け、中から海の様に青い靴をつまんで持ち上げた。


 「これ……!」


 「感謝祭の贈り物だ。遅れたな」


 彼女は素足を、俺の靴にそっと入れる。それはまるで、シンデレラがガラスの靴を履くように美しく。

 クジラ革のパンプスは、彼女の足にピッタリと吸いついた。白い肌と海の色はやはり爽やかで、彼女にとても似合うコントラストを描く。


 「綺麗だ、ユーティカ。どんな靴よりも、それを履く君の方が美しい」


 「ありがとう……。ありがとう、アユム。愛してるから、ずっと。いつまで経っても、どこまで行っても」


 壁を背に、俺は涙を流しながら笑う白毛の獣人の姿を見た。

 これが最高の一足だ。俺はついに、それを作り出すことが出来た。


 あの日見た笑顔をもう一度。このためだけに俺はここまで至った。

 肌寒い世界の中に咲く小さな花。何者にも汚されず踏み潰されない、強い意志の宿る儚い花。

 朦朧とした意識の中、俺は嫌いだった世界との別れを惜しむ。せっかく最高の一足を理解できたのに、彼女と共にいられると思ったのに、これで終わりとは。


 「ユーティカ……。俺も、君のことが好きだ。愛して、る────」


 最初で最後の告白。一度言えずに終わった後悔を晴らすように、せめてこれだけでも言い残す。

 これから彼女は、どうなるんだろう。一人きりで残してしまうのが、とてもとても心残りだ。

 次第にそんなことも考えられなくなる。視界は既に閉じられ、黒いベールが思考を押しつぶしていく。もう何も感じない。


 ああ、そういえば。


 俺は一度死んでここに来た。

 もう一度死んだら、今度はどこへ行くんだろう。











 アユムは目を閉じて、それっきり何も言わなくなりました。

 血と汗の臭いがします。目の前の人間は、完全に死んでしまいました。


 私は立ち尽くしたまま、もうどうすればいいのかも分かりません。

 ただ涙が止まらず、心は温かさと冷たさで半分になっています。


 仄暗い倉はゆっくりと揺れています。船はもうとっくに出航していたようです。

 このまま私はどこへ行くのでしょう。名前も文化も知らないような外の国。そこは良い世界なのでしょうか。


 いいえ。


 もしそこが、私が差別されずに生きられる新天地であるとしても。誰もが私に普通に接してくれる場所であるとしても。私はずっと辛いままです。

 だって隣に、あるべき人がいないのですから。


 この心の穴が埋まることはなく、深い悲しみと共に生きていくことになるのでしょう。

 これがさだめです。白毛の獣人は結局、幸せになんかなれやしない。


 世界は本当に理不尽です。悲しみだけが積もっていきます。

 楽しいこともいっぱいあったはずなのに、全然思い出せません。なのに、悲しい

ことだけはいつまでも覚えています。

 いっそ全て忘れてしまえれば、なんて考えを振り払います。アユムのことを忘れるなんて、絶対に出来っこないや。


 私はそっと、自分の首に爪を立てました。

 赤い鮮血が首筋を伝います。


 このまま手で首を搔き切れば、全てが終わります。もう悲しみを感じることもなく、アユムのくれた愛を抱いて、幸せなままに死ねるのです。

 誰かにこの幸せを踏みにじられるぐらいなら。せめて、自分の意志で。




 『ああ、そうだ。この世界は酷い所だ。誰も味方にいない、一人ぼっちの世界はとても冷たく寂しい。だとしても俺は、君に生きて欲しい。隣で笑って欲しい』




 もう────


 そんなことを言われたら、何も出来ないよ。アユム。


 その場にしゃがみこんで、彼が最期にくれた靴を見つめます。とても丁寧な作りをされた、いっぱいの愛を感じる素敵なものです。

 幸せになんかなれやしないけど。でも、とても嬉しい。私がこんなに愛されたことが。愛してくれる人がいたことが。

 生きてくれと、願ってくれる人がいたことが。


 生きていて、いいんだ。

 息をしても、手足を動かしてもいい。他の誰が否定しようと、私は彼に肯定された。

 だから私も、自分を肯定する。どんなに激しい雨の中でも前を向いて歩くんだ。死ぬほど辛くたって、私はまだ生きている。生きている限り、こうして見つけられるものもあるんだ。


 両親がその命に代えて私を守った理由、ようやく分かりました。

 誰かのことを想うこと。幸せを願うこと。笑顔を見たいと望むこと。抱きしめたいと欲すること。共にいたいと感じること。

 この胸にたくさん灯る情の火こそ、愛なのですね。


 愛しています。愛しています。心の底から、愛しています。


 この想いはもう届かないけど。あなたの声を聞くことすら出来ないけど。涙は止まず、心で愛を叫びます。

 私はあなたに幸せになって欲しかった。生きていて欲しかった。

 自分の幸せより、あなたの幸せを願いました。それならきっと、叶うと思ったから。


 目の前の物言わぬ彼は、安らかな顔をしていました。死んでいるのに、とても幸せそう。

 靴を作らず生きることより、靴を作って死ぬ。それがあなたの幸せでしたか。

 私は自分の左手薬指から指輪を取り外し、彼の薬指に付けてあげます。


 これはアユムにあげましょう。貰った靴の、幸せの、愛のお返しになんてならないかもしれませんけど。ただ拾っただけのものですけど。

 将来はこうしたかったという、ただの妄執ですが。


 まだ温かい彼の顔に触れ、その唇にキスをします。

 一瞬だけ。触れあう程度。本当のお別れです。


 私は目を閉じ、俯きながら、船の揺れに身を任せました。

 別れたくなんてない。ずっと一緒に居たい。

 あり得ざる空想を、夢物語を考えます。


 もしこの世界に、本当に神様がいるなら。一握の慈悲ぐらいあるのなら。どうか彼を幸せにしてください。

 死ぬまで頑張った彼に、温かい未来をあげてください。

 そうじゃないと、あまりにも…………。




 波の音が段々と遠ざかっていきます。

 私の意識はも同じく薄れていき、まるで眠るように、白い光の中に吸い込まれて。


 「私の代わりに、歩をよろしくね」


 誰の声……? 誰でも構いませんか。

 光は柔らかく、私をそっと包み込みます。

 両親に抱きしめられているような、アユムと一緒に居るような、そんな篤い熱を感じました。


 なんだかとても、落ち着くな────────

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