第23話

 窓から光が差し込む工房。外から海鳥の鳴き声が聞こえる。

 そんな状況ではないのに、なんだかとても落ち着いてきた。


 青い革に線を引き、使う刃物を並べておく。

 全ての準備は整っていた。俺は一瞬たりとも迷うことなく、革を切り離して靴を形にしていく。


 脇腹と背中の傷が、俺を死へと近づける。そのおかげで、ようやく思い出せた。

 自分が何の為に靴を作っていたのか。いつからそれが、完璧を求める呪いになったのか。


 物事には何れも、“できる”と確信する時がある。それは例えば、試合中のサッカー選手であったり、筆を動かす絵描きであったり、とにかく誰にでもその時はあるだろう。

 俺にとってはまさにこの時がそうで、二度あった人生の中でも最も深い集中へと至る。


 遠い過去の欠片が夢を見せ、追憶の刃がそれを形作る。

 デザインはとっくに決まっていて、腕を動かすたびに始まりの靴作りの記憶を呼び起こした。

 今まで心を覆っていた迷いの霧が、晴れていく。


 俺は首を吊って、どういうわけかここに来た。いいや、手段は分からずとも理由は初めから分かっている。靴を作りに、この世界に来たのだ。

 最高の一足を作る事。最高の一足とは即ち、受け取った人が笑顔になる靴の事だ。それは、一分の瑕疵もないことを意味しない。


 俺の靴は硬いと、親っさんは言った。そりゃそうだ。俺は正確性が美しいものだと思ってきたんだ。

 そこに、人を喜ばせようという気持ちはない。あるのは、俺が満足するための独りよがりなエゴ。気持の悪いものだった。

 出来上がった靴もそれは、本来込めるべき感情を失った靴モドキ。工場の大量生産品と何ら変わりがない。いや、それ以下だ。


 違う。それではいくら出来が良くとも、本当に気持ちを伝えたい人に贈るには相応しくないだろう。


 たとえ歪んでいようと、傷だらけであろうと、誰かを笑顔に出来るのならそれは最高の一足だ。

 誰かを想う気持ちこそ、最も欠けてはならないものなんだ。

 こんなことを忘れて勘違いしていたとは、俺はやはり、とんでもない愚か者だ。


 銃創がまた、ぎゅうと痛む。汗は止まらず、身体も震え始める。

 だが靴に血を付けるわけにはいかない。俺は、靴職人の矜持として、無理やり身体の震えを押さえつけた。

 あと少しだ。少しだけ持ってくれれば、それでいい。残された命を彼女の為に使う、こんなに良いことがあるだろうか。


 今までにない充足感を、幸福感を、今ここで確かに感じていた。

 俺の人生は、このためにあった。


 切り出した革を、適当な木型に当てる。ユーティカの足は、木型にしたことはなかった。そもそも、必要がないのだ。

 彼女の足の形はよく知っている。細かな凹凸も完全に、俺の手が覚えている。この木型はあくまでも指標。細部の調整は感覚だけで行う。


 青く美しい靴が、形になる。俺の祈りと願いが、結実する。

 まだ完成ではない。彼女の笑顔を見て、それで完成するんだ。


 木箱に、緩衝材と共に靴を詰め込む。それを麻袋に入れ店から持ち出した。

 外はすっかり雨も止み、晴れていた。水たまりだらけの都市が太陽に照らされ、目が痛いほどに輝いている。


 「キッカワさん!」


 「キッカワ様!」


 フレデリカとアロゲンが駆けつけてくれた。店の前に馬車が止まっている。ユーティカを送り届け、戻ってきたのか。

 力の殆どを失っている俺は、アロゲンに肩を貸してもらいながら馬車に向かって進む。


 「お前さん、嬢ちゃんとは会えたんだって? ……あー、酷いなコリャ」


 予想外の人物の声が聞こえ、横を振り向く。そこには、つばのついた帽子を被った、背丈の高い老人がいた。


 「親っさん……。今まで、ありがとうございました」


 「なんだ、いい顔してやがる。成長したな、アユム」


 大通りの向こうから、大きな音を立ててこちらに迫ってくる人影が見える。

 ユーティカを殺そうとした、あの男たちだ。数はだいぶ減って数人程度しかいないが、廃屋の瓦礫をどかしここまで走ってきたらしい。


 「待て、待て! 撃つぞ! そこの男、止まれ!」


 「行け! お前のやりたいことをしろ!」


 親っさんの声に背を押され、俺はふらふらと馬車へ乗車する。

 感謝してもしきれない。この世界では、驚くほどにいい人たちと知り合えた。


 「止まれと言っているだろう……! ええい、発砲しろ!」


 男の指示に合わせ、兵士たちがこちらに構えた銃の引き金を引く、しかし、破裂音と共に鉛の弾丸が飛び出ることはなかった。


 「どういうことだ!? ……しまった、雨で火薬が湿気たか!」


 「おい、お前ら! 俺たちの街を荒らす不届きものに、ちょいとお灸でも据えてやろうぜ!」


 親っさんが声を上げると、遠巻きに様子を窺っていたクランクの住人、屈強な漁師や釣り人たちが出番かとばかりに集まってきた。

 誰もかれもが、親っさんの知り合いだ。あの兵士たちは、この街で好き放題にし過ぎた。


 「オルディオさん、やっちゃいますか!」「こいつらのお陰で仕事になりゃしねぇんだ!」「靴屋の娘さんを虐めてたって、許せねぇよなぁ!」

 男たちは口々に叫ぶ。

 兵士たちは囲まれ、その銃剣の切っ先を漁師たちに向けるも、彼らは全くたじろぐ様子がない。


 「出しますよ、キッカワさん!」


 俺は馬車の中のソファに寝かされ、フレデリカの合図と共にアロゲンが馬車を動かした。


 「あの子は、フレドラン家の命によって、船底の倉に入れて貰いました! 船の出航まで、あと少しですが……大丈夫です。間に合います!」


 「ありがとう、フレデリカ……さん。本当に、助かった」


 痛みと汗の中、必死に笑顔を作る。俺はちゃんと笑えているだろうか。

 こんなに優しい人ばかりなら……。世界も、存外悪くはないらしい。


 「人間同士、助け合うのが普通です。私の父があなたに助けられましたので、これは借りを返しただけ。感謝の言葉なんて必要ありませんけど……。でも、受け取っておきます。こちらこそありがとうございました、キッカワ・アユムさん」


 今生の別れを済ませ、目的地へ到着し停止した馬車を下りる。

 俺は震える身体で、脇腹を押さえながら停泊する大きな木造船へと歩いて行った。もう支えは必要ない。最期の瞬間は、彼女と二人きりが良い。


 また、泣いてはいないだろうか。

 愛すべき獣人のことを気に掛けながら、俺は麻袋を持っていった。

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