第22話

 そこから先は思い出せない。

 意識が虚ろのまま、警察やらなにやらから話を聞き、いつの間にか俺は自分の部屋にいた。


 工房付きの一軒家。

 深夜、俺は工房の椅子の上で、作業台の上に置いた紙袋を眺めていた。


 袋は、彼女が思いっきり押したことで大きなシワがついていた。しかし、中身の靴が入った箱には瑕一つない。

 あまりにも信じられないことだが……。彼女は、自分の命よりもこの靴を守ることを優先したように見えた。


 あの時君は、紙袋を捨てて車を避ければよかったんだ。

 でも、そうはしなかった。俺が死ぬかもしれないと思ったのか、それとも自分はどうやっても死ぬと思ったのか。

 彼女は最期に俺の靴なんかを守って、トラックに轢き殺された。


 馬鹿だよ、本当に。靴なんて作り直せるのに。

 どうしてそういうことをするんだ。

 どうしてこんなことになるんだ。


 俺の心は、空っぽになった。




 後日、警察から透明な袋に収集された、小さな箱を渡された。

 彼女が懐に入れていたものらしく、事故の衝撃で箱は歪み、ほとんど壊れている。


 中には、銀色の指輪が入っていた。


 彼女がきっと渡したかったものなのだろうと、気を利かせた警官は言った。

 俺は礼を言い、玄関を閉め、静かに工房まで戻った。


 そして、泣いた。


 まるで子供の様に。意味のある言葉を発することもなく、嗚咽しながら、彼女の真意を理解した。

 こんなものを用意していたのだ。このために金を使っていたのだ。


 彼女は、俺と────────




 あの日から世界の全てが色褪せ、俺は生気を失った。

 もはや何もする気が起きない。寝て起きて、少しばかりの食事をとり、項垂れたまま一日を無為に過ごす。

 一日に数回催す吐き気を、頭痛を背負い、ただ心臓だけを動かす。


 俺は仕事を辞めた。あらゆる依頼を拒み、看板を下ろした。

 なぜなら、もう意味がなかったからだ。俺が靴を作る理由が、どこにも存在しない。


 俺が靴を作り始めた切欠は、ひとえに彼女の笑顔が見たかったからだ。

 遠い昔に見たあの笑顔。あれが忘れられなくて、ただそれだけが欲しくてここまで来た。両親と縁を切られてさえ進んできた、長く苦しい道だった。でも、後悔は無かったんだ。


 彼女にもう一度、靴を渡したかった。一人前になった俺が、今度は歪でない、今の全力を込めて作った靴を渡したかった。

 俺の人生なんて本当にそんな理由で。君に喜んで欲しかったからってだけだ。名声だとか金だとか、そんなものには一片も興味なんてない。靴職人なんて、経過なんだよ。


 だがそれは、もう二度と手に入らない。

 君の笑顔を見ることが出来ないなんて、そんなのは嫌だ。

 ああ。いくら泣いても、いくら絶望しても世界は変わらない。運命が捻じ曲がり、彼女が生き返るなんてことはない。




 世間では、天才靴職人と人気のファッションデザイナーを襲った悲劇の事故が、最近の目玉の事件として取り上げられていた。

 テレビでは出演者たちがそれらしく哀悼の意を表し、俺と彼女が恋人同士であったと勘違しているような言動も目立った。


 俺たちはそういうものではない。少なくとも、恋人ではなかった。もっと大切な肉親のような、いや既に己の一部であったような、とにかくそういう存在なんだ。

 いずれにせよ彼らには、この悲劇が大きな刺激となるのだろう。どこのテレビ局もこぞってこの事件を報道した。


 どうでもいい番組だ。テレビのチャンネルを消そうとする。

 そもそも真面目に見ていたわけではなく、ただ酷く寂しかったから賑やかしにつけていただけだ。だがこれは、ただの騒音だったようだ。

 しかし次には、余りにも衝撃的な報道が続けられることになる。


 事故で死亡した人気のファッションデザイナーの、盗作疑惑?

 今まで彼女の手掛けてきた服やアクセサリーは、殆どが他人からの盗作だとする告発だ。

 これは事故の前から、SNSで一部噂されていたらしい。それが、事故を切欠に取り上げられた。


 ニュースで存在を知った後、俺も自分で調べてみた。SNSなんて使ったことはない。慣れない操作で、しかし知りたいことがあった。

 そこには。彼女に対する非難や不信の言葉が書き連ねられていた。初めは、一つのアカウントが発信しているだけだった。だがそれを信じたのか、次第に他のユーザーも同様の発信をするようになる。


 「盗作の証拠。私のデザインした服と、発表された服のデザインが酷似している」

 「盗んだ人気かよ」「人のデザインを横取りして稼いでるってマジ?」「最悪だな」「事故から知ったけど、そんなヤツだとは知らなかった」「死んで当然だったってこと?」


 何だ、これは? 明らかにおかしい。どうかしている。

 事故により注目が集まり、いわゆる炎上状態になっている。何も言わぬ死者に対して、無遠慮に、無慈悲に暴言が吐かれる。


 彼女が盗作なんてするわけない。これは確実に言い切れる。彼女はそれこそ、小学生の頃からデザインをしてきた。

 彼女の発表したデザインは間違いなく彼女自身のもの。

 最初に盗作を嘯いたアカウントには、その証拠となる画像も添付されていた。


 そこには確かに、似たデザインの服が映っている。だがこれは、似ているだけだ。

 俺には一目瞭然だった。盗作を主張するデザインの方が何段も劣っているし、彼女の好みでもない。こんなものを、彼女が模倣するものか。


 だがそれは、俺以外には理解しにくいものだ。それでもちゃんと調べれば、そんなはずはないと分かるのに。文字通り世界中と繋がるSNSには、心無い書き込みが後を絶たなかった。

 死んだはずの彼女は、無関係な人間たちに、その社会的な功績や地位までも殺されようとしていた。


 お前たちに何がわかる。こんな画像一つで分かった気になって、死者を貶めるような口が利けるのか。

 勝手な御託を並べるな。嘘をつくな。全て、ただの思い込みに過ぎない。やめろ。彼女をこれ以上傷つけるな。

 最悪なことに、彼らは楽しんでいた。悲劇は他人事である限りエンタメなのだ。この炎上騒ぎもまたエンタメの一つとして盛り上がっていた。


 “死んで当然だった”だと? そんなわけあるか! 彼女のことを何も知らないお前たちが、さも理解した気になって喋るな!

 心底、怒りが湧いて来る。だがそれも、すぐに消えた。

 俺にはもう熱が無かった。何もない。空っぽの身体に、感情は虚無と化して吸い込まれた。


 ここで俺がいくら擁護しようと、格好のおもちゃを見つけた彼らは聞く耳を持たないだろう。彼らは俺のことも、遊び道具にするに違いない。

 彼らが口々に吐く毒は、俺を溶かしていく。頭痛と、吐き気と、心臓が締め付けられるようなそんな感触。

 苦しいという感情さえ分からなくなる。ただ俺はうずくまり、深く染み込んでくる痛みに耐えていた。


 俺が責められる分には、何の問題もない。だが彼女を責めることはしないでくれ。彼女は何もしていない。

 ただの他人想いな彼女を、お前たちの道具にしないでくれ。


 もう放っておいてくれないか。俺も彼女も、とうに終わったことなんだ。




 あの事故は、青信号に突っ込んできたトラックに歩行者が轢かれた不運なものとして報道されている。

 だがどうやら、警察の調べでは単なる事故ではないと見られているらしい。

 あのトラックの運転手は、彼女の務めていた会社の同僚だった。意図して彼女を殺そうとしたと、そう供述している。


 その同僚は、盗作騒ぎを引き起こした最初のアカウントの持ち主だった。

 彼もまたデザイナーであり、彼女が本当に自分のデザインを盗んだのだと思ったと、そう語ったらしい。

 売れない自分と爆発的に人気になっていく隣の彼女を比べて、劣等感がそうさせたのか。その思い込みは加速し、殺してしまおうと考えたようだ。


 警察は、彼女の盗作騒動は全てこの男の勘違いから生まれたものであり、法的措置を取り彼女の社会的名誉の保護にも専念すると言った。

 だが既に起こった事実は変わらない。彼女は謂れの無い誹謗中傷を浴び、そして殺された。俺はこの世界の醜さに、吐き気を催すばかりだった。




 俺は、彼女の墓の前にいた。墓の前で、あの日彼女にあげたはずの靴を持っている。

 白いパンプスだ。君にはこれが一番よく似合うと思ったから。


 墓の前にそっと置いてみる。誰も履く人のいない靴を。彼女は笑っているだろうか。何も分からない。


 もう持って帰ろう。こんな靴ではやはり、彼女の笑顔は見えない。

 鑿を振るい、革を裂く。虚ろな心のままに、俺は唯一出来ることを再び繰り返し始めた。


 もうどうしてこうなったんだか分からない。生きる意味なんて無くなった。せめて完璧な靴を目指せば、天国にいる彼女が笑ってくれるだろうと。

 そういう妄想だけを抱いていた。


 工房から出ることが殆ど無くなり、ただひたすらに靴の山が積まれていく。

 靴を作ること以外のことは何も考えていない。彼女の好きそうな靴を作っては、部屋の隅に放っておく。ただそれだけの機械と化した。


 きっと、これが間違いだったのだろう。俺は大切なものを見失った。

 悲しみを訴える感情が邪魔で辛いからと、切り離してしまった。同時に、彼女の笑顔も思い出せなくなった。全て、消えてしまった。


 身体も心もやつれきったある日、スマートフォンが鳴った。仕事用の電話は全て切断していたから、これはそれ以外の着信だ。

 もしかして彼女から電話が来たのかと、そんな夢を見ながら通話ボタンを押す。


 「こっちに戻ってこないか。これまでのことは、全部水に流してやるから」


 縁を切ったはずの両親からだった。

 話を要約すると、ニュースから俺の現状を知った親が、俺をもう一度医者の道へ誘いに来たのだ。


 「今から医者になれとは言わない。だが、病院での仕事は斡旋出来る。靴職人を辞めたのなら、新しい生き方が必要だろう。それとも、まだ執着する理由があるのか?」


 「────ふざけるな! 今更俺にそんなことを言うのか!? もうとっくに縁は切った……! お前たちが、俺を疎んでそうしたんだろう!」


 俺は電話を切り、スマートフォンを投げ出した。もう使うことはない。


 俺の人生は無駄だったのか。彼女に対する気持ちは、無意味だったのか。

 彼女が笑うような、最高の一足はもう作れない。いくら頑張ろうと、遠くへ行った彼女の笑顔を見ることは出来ない。


 「歩君の作った靴、素敵だなぁ」


 いいや、全然素敵じゃない。こんな靴じゃ君は笑えない。

 駄目なんだこれは。失敗作なんだ。お願いだから微笑まないでくれ。君にこんなものは似合わない。相応しくない。


 頭を掻きむしり、手を血が出るほどに握りしめる。


 俺が始まった言葉は、いつしか呪いとなって俺を縛っていった。

 呪いは知らず知らずのうちに身体を、心をも蝕む。


 そして、理不尽と苦痛だけの世界に潰された俺は、これ以上生きることを諦めた。


 工房の小さな椅子の上に立ち、縄で作った輪っかに首を通す。

 最期に、左手に包んだ銀色の指輪を見て。


 俺は。


 椅子を、蹴り飛ばして──────

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