第18話

 ふと、目が覚める。


 窓を叩く風の音か、それとも背筋を伝う冷たい汗か。私は、夜明け前の時間帯にベッドから起き上がりました。

 隣にいるアユムを起こさないよう、そっと。


 窓を開けて、外の音を聞きます。風に交じって、微かですが軍靴の足音が聞こえました。

 ああついに。私は覚悟を決めます。


 時間も無さそうなので、手短に支度。いつもの姿を隠す外套と、それから書置きもしておきましょう。

 汚い文字ですが、仕方ありません。簡潔に済ませて、それをアユムの靴の中に入れておきます。これならアユムにだけ伝わるはず。


 最後に、アユムのいる寝室に立ち寄ります。彼は少し苦しそうな表情で寝ていました。

 その顔をそっと撫で、私の額と彼の額をくっつけて。私は別れを告げます。さようならアユム、私の愛しい人。


 どうかあなただけは、幸せに生きてください。




 店の裏口から飛び出し、まだ目覚め前の街を駆ける。冷たい風が吹きさらし、私の体温を奪おうとしてきます。

 銃を持った兵士が街中をうろついていました。彼らに見つからないよう、細い路地や建物の上などを通って山に向かって進むのです。


 死ぬのなら、迷惑の掛からない場所にしたい。アユムと最初に出会った廃屋でなら、私は死んでも良かった。

 出来れば死にたくないというのは、生きるものの共通認識でしょう。ですが私は、もう生きようと思っていません。痛みを抱えながら生き続けること、それは拷問にも等しい。


 いくら逃げようと、幸せを得られないのなら。私という存在が、誰かを傷つけるだけなのなら。私の生に意味なんて無かった。

 両親の祝福。村の崩壊。アユムとの出会い。夢守の登場。

 私が幸せを感じるたびに、それを奪おうとするものも出てくる。私がいる限り終わりのない連鎖、常に血の臭いで幸せの幕が閉じられる……。


 この世は、悲劇で満ちています。

 顔も名前も知らない人たちが、私の存在を否定し、殺してしまおうと追ってきます。どこまでもどこまでも、私が息をし続ける限り。


 白い毛こそ彼らの憎むもの。でも私は、この毛を恨むことは出来ません。

 私のお父さんが、お母さんが私にくれたもの。アユムと出会わせてくれたもの。それをどうして疎むことが出来るでしょう。


 私に最後に残された祈りは、アユムの幸福だけ。私と同じはずれ者。

 分かるんです、あの人もこれまで辛かったんだって。多くの悲しみと行き場のない気持ちを背負ってきたのでしょう。だからこそ幸せになって欲しい。

 私の代わりに幸せになって、はずれ者でも得られる夢があると証明してください。アユムならきっと、成し遂げられるはずです。


 そして、この残酷な世界よ。どうかあの人の幸せだけは、これ以上奪わないであげてください。それだけが私の願いです。


 三階建ての住宅の上から、霧の大通りに向かって飛び降ります。

 着地には難なく成功しましたが、すぐ傍に住人が歩いていました。彼らは驚きの声を上げます。


 「あ、ごめんなさいっ!」


 段々と濃くなる霧で、そこに誰かがいたことに気付きませんでした。危うく事故となってしまうところ。危なかったです。


 「んぁ、嬢ちゃん……? 何してんだこんな時間にこんな場所で」


 漁師と思しき大柄の身体をした住人たちの中から、よく知っている声が聞こえます。

 そこには帽子を被った初老の男性、オルディオさんがいたのです。かなーりお酒臭いのですが。


 「俺はよぉ、非番の連中集めて昨日から飲んでたんだが……。なんか、やたらと騒がしくねぇか? 街が」


 「えっと、その、“夢守”が私を捜しているんです! 銃を持った兵士が、この辺をうろついていて……」


 酔っ払いだった彼らは面食らった顔をして、口々に声を上げ始めます。


 「知ってるぞ、“夢守”って白毛の獣人とかを捜し出して殺す連中だよな……? それに狙われてるってことは、ユーティカちゃんが……」


 若い男の人は、いつしか見かけた釣り人仲間のようでした。私は彼らに正体を明かすべきなのか、一瞬逡巡します。

 しかし私は半ば自暴自棄。今更正体がバレようと、気にすることはないでしょう。頭を覆うフードを取りました。

 どうぞ、好きなだけ憎んでください。


 「おいおい、やっぱり……」


 やっぱり? とは、どういうことでしょう?

 彼らは私の耳を見ながら、納得したように次々と頷きました。


 「突然街にやってきた、白い髪の女の子。いつも身体を隠してるから怪しいって話はあったんだがな。オルディオさんが自分のとこで働かせて、悪い子じゃないって言うから誰も気にはしなかったんだよ」


 「本当に白毛の獣人だったなんて、な! がはははは! こりゃ珍しいもんを見れたぜ!」


 私の正体を薄々知っていながら皆、それを黙っていた……?

 今までにない反応でした。私がこれまで出会った人たちは、私の正体を知るなり殺しに来たり捕まえようとしたりするものです。

 例外なんてほんの僅かだったのに……。


 「ど、どうしてですか? 知っていたなら、分かっていたなら、私を追いださなきゃ……」


 「だから言っただろ? オルディオさんがいいって言ったんだ。それにお前さん、とても悪い獣人にゃ見えねぇな、これっぽっちも!」


 彼らは声を上げて笑います。とても呑気で、愉快な方たちです。

 私は呆気にとられ、口を閉じることすら忘れて。こんなこともあるんだなと、心に何か温かいものを感じて。


 ああ、世界が全てこうであってくれればよかったのに。

 小さな違いなんて笑い話になれば、それで。

 でも、そんな違いを許さない人たちもいて、夢を見ることも許されません。


 「……ごめんなさい、もう時間が無いんです。皆さん、今までありがとうございました。私はもう行きます。さようなら」


 私は小さくお辞儀して、その場を去ります。私が彼らと一緒に居るところを兵士に見つかれば、きっと私たちは全員が殺されます。

 白毛の獣人を匿ってはいけないのです。だから、私は一人にならなければ。死ぬのは本当に、私一人だけでいいんです。


 「待て、嬢ちゃん! お前、もしかして────」


 背中からオルディオさんに声を掛けられますが、無視します。心の中でごめんなさいと謝り、私は山の方へ走り出しました。


 「死ぬんじゃねえぞ、何があってもな!」


 遠くから声が響きます。それは霧の中に溶けて行き、私の耳にしかと届きます。

 私は走って走って、全力で舗装された道を蹴って。途中、銃を持った三人組の兵士とすれ違いましたが、これも無視して走ります。


 破裂音と焦げた匂いがして、後ろから風を切り裂くものが一つ飛んできました。それは私の身体を掠めることすらなく、地面に当たって弾けます。

 銃は怖いものですが、霧の中なら当たりません。兵士たちの足も私よりずっと遅いので、追い付かれるまでにも時間があります。今のうちに早く、あの廃屋へ……。


 「っ!」


 ただし霧の中で見えないのはこちらも同じ。私は地面の段差に脚を引っかけて転んでしまいました。速度を出していた分、転んだ衝撃も並々ならぬものです。


 「痛てて……」


 立ち止まっている暇はありません。起き上がってまた走り出します。怪我の程度は分かりませんが、大したことは無さそうです。

 代わりにフードや外套が汚れて少し破けてしまいましたが、どうということはありません。


 走るのです。ひたすら、霧の向こうに。

 私を一時でも救ってくれた彼と出会った、あの場所へ。

 忌み嫌われる私に相応しい、棄てられた屋敷へ。




 街の端まで来ると、今度は道の無い道を登って行きます。足元が土になり、霧も徐々に消えていきました。

 古い記憶を辿り、あの廃屋を見つけます。既に倒壊寸前にも見えるそれは、どこか懐かしさを感じさせて。


 廃屋の最奥まで踏み入り、天井に大きな穴の開いた部屋で横たわる。

 雲は黒く、雨が降ってくるニオイがします。これはきっと大雨になるでしょう。

 無我夢中で街を走り回った結果、アユムから貰った靴がどこかで脱げて裸足になってしまいました。残念。


 「私だってそりゃ、死にたくなんてないけどさ」


 気温の低い冷たい空気に独り言つ。

 私の全身からは既に力が抜け、走るのはおろか、何をするにも億劫という気だるさに包まれて。ここで生涯を終えようと、そう決めました。


 初めは祝われて生まれた私。終わりは、ありもしない呪いを抱いて死ぬ。

 恐ろしく冷たい世界でようやく、温かいものを見つけたのに。私の隣にいてくれる、愛する人を得られたのに。最期は結局一人きり。


 もっと店を切り盛りしたかった。もっとアユムの靴を売りたかった。もっとアユムがすごい人なんだって知らせたかった。もっとこの街の皆とお話したかった。

 ────────ずっとアユムと一緒になりたかった。


 悔いだけが残るような、そんな人生でした。でも、どうしようもないのです。

 白毛の獣人には許されないから。自らの望みを持つこと、幸せになること、呼吸すること、歩くこと、何もかもが。


 死にたくはないけど、生きたくもない。まったく矛盾しています。

 痛いのは嫌です。血なんて見たくもないのに。でも、死ぬような痛みを感じながら生きることも辛くて。ここで全てを終えてしまえばきっと、楽になれるんだろうと諦めて。


 力無き眼で崩れた廃屋をぼうっと眺めていると、腐った木の床の隅に、光るものを見つけました。

 横たわったままに手を伸ばし、それを拾い上げます。


 きらきらと輝く、銀の指輪。鉄ではないような、私の知らない金属の素材で出来ていた美しいものでした。

 ずっと長い間ここに置かれていたのか、土ぼこりなどを被っていましたが、その煌めきに陰りは見られません。指輪には、これまた光り輝く石が付いていて、これの光が私の目を刺したのでしょう。


 人間の間では、愛する人に指輪を渡す習慣があるようです。私はもし自分が受け取ったらなどと、益体もない妄想をしながらその指輪を左手の薬指に嵌めます。

 少しぐらい遊んでもいいよね。もう最期なのですから、楽しい夢ぐらい見させてください。


 やがて空から雨が降り始め、私は全身でそれを浴びながら目を閉じました。

 身体から体温を奪われ、三年前のあの日のように、私は一匹の獣人へと戻る。痛みの中、ただ終わりだけを待つ存在に。


 そして────

 これまた三年前と同様に、誰かの足音が聞こえてきます。

 聞き間違えようもないあの人の、優しい音でした。

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