第19話

 「っ……!」


 不吉な音を聞き、俺はつい立ち上がる。銃声がどこから発したのかは分からない。全て、窓の向こうの霧の中だ。


 「あと少しでこの街を出ますから……! あの子はきっと、大丈夫です」


 俺に出来ることは何もない。ただ、ユーティカの無事を祈るのみだ。

 再びソファに座り、膝の上に腕を乗せ項垂れる。先の発砲でもし彼女が死んでしまったら。深い怪我を負い、彼らに掴まってしまったら。暗い想像はとめどなく溢れてくる。


 「あら? キッカワさん、それ……」


 フレデリカの視線が俺の胸元に向けられる。

 首から下げていた白いお守りが、ぶらりと揺れていた。


 「これは……ユーティカがくれたものだ。感謝祭の日、獣人のお守りだって言って」


 「あの子──!」


 フレデリカが何かに気付いたように口を開き、慌ててはしたないというように手で押さえた。

 このお守りに何か心当たりでもあるのだろうか。


 「動物の骨から削り出したそのお守りは、獣人にとっての愛の証よ。自らの毛を詰めたものを、死する時まで愛する者といるためにお守りとして渡すの。…………気付いてる? あなた、あの子に沢山愛されているのよ」


 白い筒のお守りの、上端がフタになっていた。それを取り外すと、中から美しい純白の毛が束になって出てくる。


 やはり、俺は大馬鹿だ。俺がもっと彼女の気持ちに気を払ってやるか、街の様子を窺っていれば、こんなことにはならなかった。こうなる前に、逃げることだって出来たはずだ。


 もっと、抱きしめてやればよかった。手ぐらい繋いでやればよかった。

 声を聞いてやればよかった。体温を感じてやればよかった。感謝を受け止めてやればよかった。触れてやればよかった。

 ────────あの時、キスをしてやればよかった。


 そうだ。俺だって分かっていた。あの子が俺を好きだなんてそんなこと、とっくのとうに知っていたさ。

 だが、俺はそれに気付かないフリをした。気付いてしまえば、返事をしなくてはならないから。その返事はきっと、彼女を傷つけるから。

 俺には、彼女を受け止める覚悟が無かった。


 「俺は……。俺には、彼女の愛を得る資格なんてない。俺は彼女を幸せに出来ない。俺はどうしようもなく億劫で、無関心で、頑固で、隣にいる誰かすらを見てやることが出来ないから。俺は、誰も傷つけないようにずっと一人でいるのが似合いなんだ」


 「それはつまり……彼女のために、その気持ちを何も伝えてないってこと? ねえ。あなたも、ユーティカのことが好きなのではなくて? いえ、好きなんですよね?」


 ぐいと突っ込んでくるな。

 俺の気持ちがどうだというのだろう。そんなの、関係ない。ないはずなんだ。


 「愛に資格なんて、そんな大それたものは要りません。お互いに愛しているのなら、何の問題があるというのでしょうか。あの子を幸せに出来るのは、この世であなた唯一人なのに!」


 問題は、ある。

 俺が彼女に対してどんな感情を抱いていようと、彼女がどれだけ俺のことを好いていようと。俺が彼女の愛に応えることは不可能だ。俺は靴だけを作り続ける機械のようなもので、元からそういう機能はない。

 余計な感情は、刃を鈍らせる。靴作りは正確に行う必要がある。最高の一足には、あらゆる瑕疵が許されない。


 故に、不要だ。

 愛も笑いも、悲しみも慈しみも。それらを不要だと断じ、人間の持つ心を殺し、俺は靴を作り続けてきた。それでいいと思った。それが正解だと感じたのだ。

 その結果として、彼女の愛を無視することになろうとも。彼女に対する言葉を失ったとしても。その先に、俺の望む靴があるのなら。


 俺は人でなしだ。彼女に残酷なことをしていると理解して、それを止めることはない。

 彼女の気持ちより靴を取るのが、俺という生き物だった。

 両方を同時に得られるほど俺は器用じゃない。どちらかしか取れないのなら、俺は後者を選んでしまう。


 なのに。ああ、矛盾している。

 俺はこうして彼女を捜しているんだ。隣から消えた温もりが恋しくて、失いたくなくて、もう一度声が聞きたくて。


 勝手に消えた彼女を放っておけない。彼女を助けようとすることで王の意に背き、靴を作る事さえ叶わなくなるかもしれないとしても。

 失って初めて気付くなんてありきたりな言葉。だけどそれは、間違いなく正しい。俺は、自分自身の本当の気持ちに気付いた。


 「────ああ、そうだな。俺は、ユーティカが好きだ。俺の不器用さで彼女を傷つけてしまうかもしれないとしても、それでも俺は彼女と一緒に居たい」


 「じゃあ、それを直接彼女に言ってあげて頂戴! まだ間に合う、もう着きますわ! そして、彼女がいたら彼女を連れて来て。後は私が匿います!」


 一度大きく揺れて、馬車が停止する、ここから先は山道だ。道すら存在しない。

 俺は急いで降り、霧の中を振り返りもせずに走り出した。ボロ屋はそう遠くない。


 曇りが極まった空から、雨粒が落ちてくる。

 懐かしい大雨が、俺を、山を、街を濡らしていく。




 道なき道を進み、視界を遮るように生い茂る木々を手で払いながら、俺は濡れてぬかるんだ泥になった斜面を登る。

 ボロ屋の正確な場所など覚えてもいない。そもそも、あの廃屋が三年の月日を経てまだ残っているのかも怪しい。

 大雨だが、傘もフードも、自分の身体を降り注ぐ雨粒から防ぐ手段は何も持っていない。全身がずぶ濡れとなる。だがそんなことは意に介さず、俺は進み続ける。


 彼女に、言いたいことがある。彼女に、渡したいものがある。

 俺はまだ何も出来ちゃいない。お願いだからそこにいてくれ、ユーティカ。


 神の存在をあまり信じているわけではない。だが、この時ばかりは神に祈った。この世界のどの神でもいい。今だけ彼女を守ってやってくれと、都合のいい祈りを。

 それが通じたわけではないだろう。しかし、ボロ屋は俺の目の前にあった。三年前と変わらず、いや一層古びて、今にも崩れそうな腐食した柱をむき出しにしながら。


 酷い有様だ。壁は朽ち、天井は落ち、ただかつて家を構築していた木片が、その床に積もっている。昔は大きな建物だったようだが、骨組みだけとなった今や、外から中が丸見えだ。

 しかし、全てがそうではない。廃屋の一角は未だ壁があり、天井があった。大穴が空いていて、雨風を凌げないということには変わりないが。


 そこに、彼女はいた。


 濡れそぼった白い毛並みのユーティカ。木板の残骸の上に、ぐったりとうずくまっている。

 天井の穴から差し込む光とそれに反射する雨粒が、彼女をさらに美しく飾っていた。まるで劇の主役のようだと、場違いにもそう思った。


 彼女は近づく俺に気付くと、泣きそうな顔で上体を起こした。

 フードは頭から外れ、外套はボロボロ。靴は脱げ、素足になっている。だが目立った怪我は無さそうだ。


 俺は無言のままゆっくりと彼女に近づき、その目の前でしゃがむ。

 両手を伸ばすと、彼女は倒れ込むように、俺の腕の中にその身体を預けた。


 その白い肢体は、とても冷たかった。反対に、彼女の胸のあたりはとても暖かく、雨をたっぷりと浴びた俺たちは互いの温度を共有し合う。

 彼女の震えが/怯えが/不安が、その肌から/その顔から/その息遣いから伝わってくる。

 俺の胸に顔をうずめるユーティカの頭を、そっと撫でてやる。彼女は、頭を撫でられるのが好きだった。


 「……危険だよ、アユム。ここから逃げた方が良い」


 「馬鹿。お前無しに、俺が生きていけると思うのか?」


 もう、この体温を離せない。これを失ってしまえば、俺は凍えてしまう。

 君がいるからこそ、この雨の中でも息が出来るんだ。


 「私に関われば、巻き添えになって皆死ぬ。私はもう、誰も傷つけたくない。白い毛の獣人が幸せを望むだなんて……。初めから許されたことじゃなかったんだよ」


 「そんなことはない……!」


 断固として否定する。それは違う。間違っている。あり得ない。


 「どれほど周りと違い、他者から否定されようとも。この世界に産まれた命として、自分のしたいことを、自分の幸せを求めることは何もおかしくない! おかしいのは……王だ、世界だ。はずれ者を疎み、見えないように追いやろうとする意志だ! 君は一つの命として、生きる権利がある。それは、誰にも否定することはできない!」


 心の奥底から、言葉が出てくる。これほど感情を叫んだことは、今までなかっただろう。

 俺は嘘偽りなく、そして逃げることもなく、思うがままを彼女にぶつけた。


 「でも……! でも、私は辛いんだ! もう石を投げられたくない、大切な人を殺されたくない! あなたと出会って忘れていたけど……世界は、こんなにも痛くて苦しい場所だったんだ。…………死にたいんだよ、私」


 彼女の華奢な身体から絞り出された訴えは、切実で、悲鳴のように聞こえた。

 自ら生きる権利を放棄すること、即ちそれは、自ら死を選ぶということ。駄目だユーティカ。君の貴い人生を、そんな終わりにすべきじゃない。


 その赤い瞳に、大粒の涙が光る。俺は、彼女と視線を合わせ一瞬たりともずらさない。彼女の瞳に映る俺が見えるほどに。

 俺は道を逸れたが故に親に縁を切られ、彼女は白毛に生まれついたが故に国から嫌われた。孤独を感じる気持ちも、少しは理解できるさ。


 「ああ、そうだ。この世界は酷い所だ。誰も味方にいない、一人ぼっちの世界はとても冷たく寂しい。だとしても俺は、君に生きて欲しい。隣で笑って欲しい」


 俺の声に、白毛の獣人は顔を色づかせた。その頬が、唇が、とても鮮やかな橙色に染まる。

 寂しげな君の顔も、光を浴びる向日葵のように、生気溢れる輝きを取り戻していく。


 「一人で生きることが辛いならば、二人で生きよう。俺で良ければ、君と一緒に居られる────」


 世界の全てが君の死を望むとしても、俺だけは絶対に君とある。


 だからお願いだ。


 死にたいだなんて、もう言わないでくれ。


 彼女の身体をもう一度抱き寄せ、顔を近づける。互いの鼻と鼻がくっつくまで。その心魂までも共にあるように。

 ユーティカは抵抗せず、目を閉じた。その端から雨以外の水滴が流れ落ちる。




 ────俺は、彼女の冷たい唇にキスをした。

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