第20話

 それは一瞬のようで、だがとても長いようにも感じられて。

 最悪な天気の中での口づけが終わり、俺とユーティカの唇が離れていく。


 彼女は泣いている。静かに涙を流す。どうして泣くのだろう。

 どこか痛いのか、まだ悲しいのか。

 ああ、違う。嬉しくて流す涙もあるのだ。


 彼女の笑顔は、この世で見たどんなものよりも綺麗だった。




 大勢の人間が廃屋に立ち入り、大きな音を立て木板を踏み割りながら進んでくる。擦れる金属音のするこの気配は、間違いない。

 ユーティカが目を見開き、その獣耳をピンと立てる。愛らしい笑顔は一瞬にして消えてしまった。


 動き出そうとする彼女を押さえつけ、耳をつんざく発砲音と共に俺は、脇腹に激しい熱を感じた。


 「アユムッ!」


 背後からの銃撃。俺はユーティカを咄嗟に庇い、この身体で銃弾を受けた。

 弾丸は貫通せず、俺の体内に残っている。さらに出血が激しく、とても痛い。


 「白い毛の獣人を匿う者も、射殺してよいと許可が出ている」


 振り返り、兵士の中心にいる銃を構えた男を睨みつける。

 こいつだ。こいつらだ。俺たちを暗い所へ押しやり、間違ったものとして消そうとしてくる。

 懸命に生きようとする命を、なんとも思わずに踏み潰す者。自らで思考することを放棄し、王の命令にのみ従う人形ども。己が絶対の正義だと信じ、弱者を囲むことに愉悦を覚える者ども。


 楽しいか? 高い所から一方的に、他人を好き勝手にいたぶるのは。

 俺はお前たちみたいなのが、一番嫌いなんだ。無知のままに、声だけデカい奴らが。

 お前たちなんかより、ユーティカの方がずっと賢明で、立派で、正しく生きている。彼女の命は決して、お前らにくれてやるものか。


 「なんだ、その目は。文句でもあるのか? あるならかかってくればいいじゃないか。なあ?」


 男は銃の先端から、何かを押し詰めている。恐らく銃弾を補給しているのだろう。

 この世界にはまだ、連発式の銃は存在しないようだ。しかし周りの兵士たちも皆銃を持っているため、下手に動けばハチの巣となることは請け合いだろう。


 痛みを必死に堪えながら、ユーティカの方へ向き直る。彼女の身体は、俺の血を被って汚れていた。

 彼女は震え、完全に怯えている。その手に付いた俺の血を見て、声も出せないほどに動揺しているようだ。


 「ユーティカ、聞こえるか? 俺の合図で、俺を抱えてそこの窓枠から飛び出せ。一目散に、山のふもとまで逃げるんだ。フレデリカが馬車でお前を待っている」


 兵士たちに聞こえないように、彼女の耳元で囁く。

 フレデリカの名前を出したからか、固まっていた彼女の身体が動き始め、小さく頷いた。


 「……さて、今度は頭に当てるぞ。まずはその獣だ。なあ、白毛の獣ってのは血も白いのか? 頭を吹き飛ばしたら、白い脳ミソでも出てくるのか? 教えてくれよ」


 男はゆっくりと銃を構え、狙いを付けた。

 愉しんでいやがる。この男は、戯れに森で鹿でも撃つかのように、人の命を奪おうとしている。


 いや、自覚などないのだ。獣人は同じ人間だと思っていないから。同じ心を持つ、何一つ変わりなどしない存在だと知らないから。

 何も知らないから、そうやって他人を傷つけられる。


 皮肉にもそれは、この場では幸いなことであった。

 あちらが遊び半分でなければ、俺たちはここにいる兵士たちに一斉に撃たれて死んでいる。

 あの男が、自分の銃でユーティカを撃とうとしているからこそ、チャンスが残った。


 「なあ、お前」


 「ん? なんだ、命乞いか? もう遅い。ここで死ね」


 俺は男に、せめて少しだけ言い残す。


 「仕事のツメが甘いな、驕った心持ちでやるからだ。そんなんじゃ、いつまで経ってもド三流以下だぜ」


 「貴様ッ────!」


 「ユーティカ!」


 男が引き金を引いたのと、ユーティカが俺を抱えて飛び出したのと、どちらが早かったのかは分からない。

 だが、銃弾は誰にも当たらず、俺たちの向こうにあった柱に命中した。


 ユーティカは俺を抱きかかえながら、既にただの穴と化していた元窓枠をジャンプ一つで潜り抜け、外の草の生えた地面に着地する。

 獣人ならではの身体能力。人間一人の重しなど、大きな妨げにはならないらしい。


 窓枠を挟んだ屋内から、兵士たちが次々に銃を構え発砲を始める。

 走ることすら困難な俺は、ユーティカと共に伏せた。一度銃撃をしのぎ切れば、弾込めには時間が掛かるはずだ。

 この距離では命中精度もよくない。あらぬ方向へ飛んだ銃弾が土を弾き飛ばし、草花を吹っ飛ばした。


 「追え、追え!」


 さっきの男が窓枠を乗り越えようとする。だが、ツケが回ってきたようだ。

 廃屋はにわかに倒壊を始めた。木の軋む音に何事かと動きを止めていた兵士たちは、落ちてくる天井に押しつぶされる。

 既にスカスカの廃屋だ。天井が降ってきたところで死にはしないだろう。しかし足止めには十分だ。


 崩壊の原因は恐らく、あの男の柱への銃撃と、兵士たちの乱射だろう。

 発砲の衝撃で、微妙なバランスを保っていた屋敷はついに、完全に崩落することとなった。


 「待て! 貴様ァ!」


 一番に窓から身を乗り出した男は、その足だけを挟んで俺たちに叫んだ。

 気が済むまで声を上げていればいい。俺はユーティカの背中に手を当てる。


 「ユーティカ、怪我はないか? すまんが、俺を背負って連れて行ってくれ……。ちょっと動けそうにない」


 「ア、アユム……! 血が、血が!」


 あの男から貰った銃弾以外に、伏せた時にもう一発背中に喰らっていた。

 彼女を覆うように被さったのが正解だったな。銃弾は俺の肉だけを抉るだけで済んだ。


 ユーティカは俺をおぶると、すごい勢いで山を下って行った。木々の中でも枝一本身体に当てず、飛び跳ねるようにふもとまで降りる。

 そうして俺の身体が揺れるたびに、全身に激痛が奔り血が噴き出す。俺の服は既に、血でべっとりと肌に張り付いていた。


 気を抜くと、意識が消えてしまいそうだ。それだけは避けたい。俺にはまだやるべきことがあるのだから、痛みを必死に堪える。

 こんなもの、彼女が今まで受けてきた苦痛に比べれば、どうということはない。




 「ユーティカ……! 無事でしたか!? ────そんな、キッカワさん!」


 おぼろげな意識の中、誰かの声がする。

 どうやら俺は、いつの間にか馬車のソファの上に寝かされていたらしい。


 「動かないでくださいな! 今すぐ医者に診てもらいますから!」


 その言葉を無視し、俺は起き上がる。激痛だが構うものか。

 俺の服は上半身を脱がされ、黒い布で二つの傷口を固く縛られていた。

 これは恐らく、フレデリカの着ていた外套だ。目の前にユーティカと座る彼女は、外套を纏っていない。余計な手間を掛けさせてしまった。


 「行先は、医者じゃない……! このまま港まで走らせてくれ!」


 ずっと考えていたことがある。彼女を、白毛の獣人を安全に生かす方法を。


 「港……!? どういうことですか、キッカワさん」


 「朝の、この時間……。船が出ているはずだ。クランクから、外国へと運行する貨物船が。それにユーティカを乗せてくれ」


 つまるところ、国外逃亡。王都の外での白毛の獣人の扱いなど知らないが、少なくともここより悪いということはあるまい。

 “夢守”も何だろうが、王国の外の白毛の獣人を捕まえることは出来ないし、王国から離れたのならそこまでする必要もないだろう。


 これまで躊躇っていたのは、乗船する時の確認で、ユーティカが白毛の獣人だとバレてしまうだろうという懸念からだった。

 だが今は、少し話が違う。


 「俺は君の父親に借りがある、だろ? 君と領主の名前で、ユーティカを無理やり詰め込んでやってくれ」


 「それは……出来ると思いますけど。あなたは!? その怪我で海を渡るなんて無理です!」


 こればかりは、とても心苦しいことだ。

 一緒に居られるなんて言いながら、どうにも現実というのは上手くいかない。


 「俺は店の前で降ろしてくれ。必ず港まで行くさ。船が出航する時間までには仕上げて、届けるから」


 「どういうことですか……!?」


 フレデリカは俺が何を言っているのか分からないのだろう。

 隣に座っていたユーティカは察したのか、揺れる車内で立ち上がり、俺の手を握り始めた。


 「アユム、アユム……!」


 「ユーティカ」


 俺は彼女の、赤い瞳を見つめた。

 泣かないでくれユーティカ。俺は君の笑顔が好きなんだ。


 馬車が、よく知る店の前で止まる。俺はゆっくりと立ち上がった。

 傷の痛みで意識は朦朧とし、汗が止まらない。だが、こんなことで俺は歩みを止めはしない。

 ようやく見つけたのだ。自分が、真に求めるものを。


 路上に降り、振り返って馬車の中にいる二人を見る。

 ユーティカは今にも泣きそうな顔をしていて、俺と一緒に降りようとするのをフレデリカが制止した。

 白毛の獣人を運ぶ箱の扉は閉じられ、馬が動き出した。港まですぐのことだろう。


 いつの間にか、雨は止んでいた。真っ黒だった雲の色も、徐々に薄くなってきている。

 俺は覚束ない足取りで店の扉を開け、居間を通り、工房へと向かった。


 俺がこの三年間、最も長い時間を過ごした場所だ。全ての道具は既に揃い、最後のピースも手に入れた。

 あとは、時間との戦いだ。


 自分の怪我がどれぐらい深いか、かつて医者を目指した俺にはある程度分かっていた。端的に言って、もう助かることはないだろう。

 いずれ失血する量に耐え切れず、俺は死ぬ。それは確定した。

 だがそれは、すぐに死ぬということでもない。まだ時間的猶予はあり、俺が最期の命を使うには十分な時間だった。


 後は、ユーティカを乗せる船の出航時間。

 正確な運行時間など知る由もないが、普段窓から港を見ていた限り、大型の輸送船がここを発つのはまだ先のはずだ。

 それでも、何らかの事情で出発が早まることもあるし、“夢守”に嗅ぎ付けられる可能性もある。急ぐに越したことはない。


 「さて、これで最期だ。気合いの入れどころだな」

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