8 古い記憶

第15話

 「歩君の作った靴、素敵だなぁ」


 幼馴染の、自分と同い年の少女は笑ってそう言った。

 それは初めて俺が得た誉め言葉であり、一生を通して決して忘れられぬものとなった。


 幼馴染の家に遊びに行くうちに、彼女の父親の仕事が気になった。彼の仕事は靴を作る事であり、家には数多くの靴や道具が揃っていたのだ。

 好奇心旺盛な子供であった俺は、彼の靴作りを見て自分もやってみたいと言い出した。彼は刃物を使うから危険だと窘めたのだが、俺が言うことを聞かないために、厳重な安全管理のもとにお試しで靴を作ることを許した。

 ただの戯れだった。まさかこんなことが、俺の将来を決定づけるとは誰も思わないだろう。


 彼女はこうした経緯で出来た不細工な靴を、そう評した。俺の作った靴は何の変哲もないローファーだが、とても歪な形をしている。

 どうしてそんなに笑うんだろう。こんなもの、全然素敵ではないのに。

 今の俺から見ればゴミも同然のその靴を、当時の彼女がどうしてそう言ったのかは終ぞ分からなかった。ただその時の俺は、彼女の輝く笑顔に見惚れたのだ。




 橘川家は、医者の家系だった。

 父も医者、祖父も医者、曾祖父も医者であり、親戚一同も何かしらの医療従事者である。

 つまるところ、俺の行く末は俺が生まれる前から決まっていたようなものだ。


 両親は、俺の行動を管理した。勉強する時間、休む時間、どれもが俺の意志とは関係なく定められている。

 朝起きて、学校に行き、授業が始まるまで勉強し、授業は授業できちんと受けて、昼休みは食事を手早く済ませて勉強し、帰りは塾に寄って夜遅くまで勉強して家路につく。

 酷く疲れる、欠片も楽しくない毎日だった。だが小学生のころからこんな生活だったもので、特に疑問などは感じなかった。こういうものだと思っていた。


 幼いながらも俺はその運命を理解し、また望まれるままにあろうと勉学に励んだ。本来、友達と笑いあって過ごすような幼年期を、俺は殆ど一人で過ごした。

 例外は彼女だった。ただ幼稚園や小学校が同じだったというだけの関係だが、休み時間も勉強をしているような俺に付き合ってくれる、唯一の存在でもあった。


 「ねえ、何の本読んでるの?」


 中学受験のための参考書だ、と言うと「へぇ」とだけ返された。

 一緒に勉強してくれるとかそういうことでもなく、彼女は机を挟んだ俺の向かいに陣取り、昨日のテレビは何を観たとか友達とどこに遊びに行ったとかという雑談を繰り返す。たまに、自由帳に絵を描いていることもあった。

 ありていに言って勉強の邪魔であったが、俺はわざわざ追い返そうとはしなかった。むしろ、彼女の無邪気さを楽しんですらいたのかもしれない。


 俺に彼女以外に友と呼べる人はいなかった。勉強に時間を取られ、人との関わり合いが薄い俺は、どうやって人と仲良くなれるのかも分からなかった。

 その点、彼女は向こうから寄ってきた。俺がいくら素っ気ない態度をとっても、毎日話しかけてくる。


 当時は、俺と話しても楽しくもないだろうにと疑問でしかなかった。今思えばそう、彼女もきっと、他に友達がいなかったのだ。

 理由など知ったことではない。ただ、クラスの空気に馴染めなかったとかそういう理由。俺なんかと話してるから他に友達がいないのかもしれないが。

 ともあれ、俺と彼女は一緒に居た。他愛のない日々だったが、美しい思い出ともなった。


 ある日のこと。両親から俺に与えられた数少ない自由時間に、俺は彼女の家に遊びに行くことにした。彼女から誘われ、俺は了承したのだ。

 そこで靴作りと出会った。出会ってしまったのだ。

 俺の人生はそこから、規定されたものと大きく外れ始める。


 俺は小学校でも中学校でも勉強を友とし続け、テストなどでは学年一位を取ることも珍しくはなかった。

 だが両親が褒めてくれるわけでもない。どんなにいい成績を得たとしても、それは当然のものとして受け取られる。学年一位だとしても父親の「そうか」の一言で終わりだ。

 両親からの期待が厚いとも言える。お前はそれぐらい当然に出来る子なのだと、そう思われているのだろう。


 しかし、子にそんな親の思惑は伝わらないものだ。次第に俺は、いくら勉強しても得られるものがないような虚無感に苛まれた。

 勉強はこれっぽっちも楽しくはなかった。自分の為になっていると思いたいが、実感など湧かず。そもそも他人と競争するような性質ではなかったため、テストの成績争いなどにも興味はない。

 そのうちに、用意された道を歩き続けるのも億劫になった。


 初めて靴を作ったあの時が、一番楽しかったかもしれない。

 俺が自分の意志で動き、生み出したものを彼女に褒められた。それはごく小さな成功体験だったが、俺にはそれで十分だった。

 気が付けば俺は、高校の進路希望表に、靴作りの専門学校の名前を書き込んでいた。


 当然、親にも打ち明けた。俺は医者に成らず、自分の望むままに生きていくと。

 だがそれは許容されなかった。何をふざけたことを言っているんだと、俺は怒号を浴びせられた。初めて俺は、父親に殴られた。


 頬の痛みを感じながら、まあ当然だよなとその処遇を受け入れる。

 彼らは俺を医者にするために育ててきたのだ。その願いが達せられないのなら、これまで俺にかけた期待も投資も全て無駄だったということになる。

 俺自身も、この決断で両親が怒り悲しむことは分かっていたし、そうさせてしまうのは心苦しいとも考えていた。


 一度決めたことは曲げない。この頑固で気難しい性格は父親譲りなのだろうか。俺は自分の歩く道を靴とすることを決めた。もう、医者には成れない。

 しかし、父親の次の一言には流石に動揺した。


 「お前はもう、この家の子供ではない。二度とこの家の敷居を跨ぐな」


 俺は嘆いた。いくら医者にならないからといって、縁を切られるなど。両親のことは好きではなかったが、それでも今まで育ててくれた親だ。感謝だってしていたのに。

 一族が医者だからといって、俺がそれ以外の道を進んではいけないのか? これは絶縁されるほどに悪いことなのか? 俺に自分の意志を持つ権利はないとでも言うのだろうか?


 どうしようもないとはいえ、苦悩した。

 彼らの期待を裏切った俺が悪いと理解していながらも、自分の道を決めるのは自分自身だと、そう叫ぶ俺がいる。


 高校を卒業してからは一人暮らしとなった。日々バイトをして学費を稼ぎ、専門学校に通う。

 家族と連絡を取ることはなくなり、今どうしているのかさえ分からない。ロクに友達さえいない俺は、本当に世界に一人となった。

 いや、ここでもやはり彼女だけが例外だった。お互い高校を卒業した後でも友人のままで、たまに二人で遊びに行ったりなどもした。誘うのは彼女で、俺はいつも誘われる側なのだが。


 俺が両親に縁を切られたと彼女に告げた時、彼女は「へぇ」とだけ返した。

 そしてそれ以上何も言わなかった。関心がないわけでも、素気がないわけでもない。他人を深く詮索はしないのが、彼女の流儀だった。

 俺にはそれが心地よかった。


 自分の悩みを打ち明けようか、少し逡巡した。

 これは俺の事情だ。彼女に話すことは、恥ずかしさも感じた。

 だから具体的には言わない。一つだけ質問をするに留めよう。


 「なあ、俺は……これでいいと思うか?」


 「いいんじゃない? 君の人生、君が満足するまで楽しんじゃいなよ」


 軽い言葉だった。他人事だと思って、適当に返したのか?

 なんて、そんなことはない。彼女はこれでも、真剣に答えてくれているのだと分かっている。長い付き合いだ。


 そうだな。確かに今は楽しいかもしれない。

 勉強ばかり、望まぬ道を歩くより。その未来が不安だとしても、満足の行く道の先ならば後悔もないか。


 「……で、何の絵を描いてるんだ? 昔から絵が好きだよな、お前」


 カフェの隣り合ったカウンターに座るなり、彼女は相変わらずスケッチブックに絵を描き始めた。何の絵を描いているのか、少し気になった。

 少し彼女側に身体を傾けて覗くと、どうも服のようなものが事細かに描かれている。


 「んー、これは……まだ趣味! そのうち、ちゃんとした仕事になるよ」


 なんじゃそりゃ。だがそれ以上は追及しなかった。

 彼女はどうやら、そのスケッチブックに沢山の絵を仕舞っているようだった。




 やがて俺は専門学校も卒業し、靴職人の見習いを経て、橘川歩という靴職人として独立することになる。辛く苦しいことも多かったが、自分が望んだ職に就けたことは幸せだった。

 とはいえ俺の目的は靴職人になることではなかった。靴を作りたいという気持ちから医者という道を捨てたが、靴職人という道もまたただの経過だ。




 俺が求めたものはただ一つ、そう────

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