第14話
日が暮れ始め、カラスが赤い空を泳ぐ。
通りの人々もまばらになり始め、朝方の喧騒は嘘のように静かになっていった。祭りが終わったわけではない。単に外で遊ぶ時間が過ぎただけ、彼らは家で祭りを続けている。
俺たちは歩き疲れ、通りの脇のベンチで休んでいた。目の前に鎮座する大きな噴水は、この街のちょうど中心に聳えるシンボルだ。
「ごめんね、今日は。やっぱり楽しくなかったかな?」
「そんなことはないさ。あまりにもお前が屋台の物を食べまくるから、ちょっと呆れただけだ」
いつの間にか俺の左手を握っているユーティカが、こちらを見つめてくる。
俺の答えは嘘ではない。彼女と歩くお祭りは、想像よりずっと楽しかった。むしろ俺こそ、彼女を楽しませてあげることが出来なかったかもしれない。
なにせ感謝祭だ。彼女に何も送れない俺は、せめて彼女の好きなように付き合ってあげるべきなのだろう。もうちょと腕とか組んでやるべきだったか? 今更言っても仕方がないが。
道中、俺はずっと親っさんの言葉が気になっていた。
今の俺は空っぽだ。本来あるべき、過去というものが実に薄い。かつての世界のことは覚えているが、俺個人の記憶はすっぽりと空洞だ。
今まで俺は、俺がそうしたいと思うままに生きてきた。革を裂き、靴を組んで来た。完璧な靴を作るためにこの世界に来たのだと、そう考えて。
本当は少し違うのかもしれない。
隣の獣人を見つめ返して、そう思う。
「ねえアユム。私たちが出会ってから色々あって、アユムはいつも私を助けてくれたよね」
しばらく見つめ合っていると、彼女は顔を赤くして俯いた。フードでその顔を隠しながら俺に話しかける。
「……俺が? いつも? 俺はそんなにお前を助けた覚えはないが。むしろ助けられているのは俺の方だ。お前がいてくれなきゃ、今こうして店なんてやってられない」
俺は君に、救われてばかりだ。俺は靴を作ることしか出来ない男だから、他の事を全部君に押し付けている。
負担を君だけに背負わせ、時には君を泣かせるような男なんだ、俺は。感謝なんてしないでくれ。俺は君を、全く助けてなんていない。
「ふふ……。確かにそうかもね。アユムだけじゃ、絶対にお店なんて出来ないもん。アユムが靴を作り続けていられるのも、全部私のお陰かな?」
彼女は声を出して小さく笑う。その笑顔がフードで見えないのが残念だ。きっと美しいのに。
そう思っていると、その願いが通じたのか彼女の頭が持ち上がり、赤い瞳が再びこちらを見据えた。
「でもね、それは逆でもあるんだよ。アユムがいなかったら私も、お店なんて開けない。この街に住む場所がなくなっちゃう。アユムが靴を作ってくれるから、私はここで生きていけるんだ。ありがとう、アユム」
その微笑みは、まるで有名な絵画の美人画のように綺麗だった。夕焼けの日差しの色もあって、フードから覗く彼女の頬が赤く色づいて見える。
俺は気恥ずかしさやら何やらで、まともに返事も出来ない。白い毛並みの彼女は、俺の想像以上に────
彼女の身体がこちらにぐいと近づいて来る。必然、互いの顔と顔も近くなり、吐息を、高い体温すらをも共有し合う。
その顔は何か言いたげで、しかし何も言わなくて。ただ口を、少しだけ開いたまま。白い顔に赤い瞳と頬、唇が映えて俺の目を奪った。
俺は彼女を、そっと押し返す。この体勢のままでいると、なんだかおかしくなりそうだった。
「あっ、ご、ごめん……。ちょっと近かったね……」
彼女は身を乗り出した体勢から、元の姿勢に戻り俺の隣に座り直した。
少し無言の間が続く。彼女も俺も、もう互いの顔を見れない。何か悪いことをしたわけではないのだが、気まずいのだ。
彼女の右手が、俺の左手の上から彼女自身の膝の上に移動している。俺は自分で押し返したそれに、どこか名残惜しさのようなものを覚えた。
しかし、いつまでも座っているままとはいかない。 ユーティカはフードの内側から、赤いリボンの巻かれた何かを取り出す。
「そ、そうだ。これ、受け取ってくれる? 私からの応援と、感謝の気持ち」
差し出されたそれを受け取ると、どうやらそれは革であるらしいと分かった。深い青をした、実に奇妙な革だ。今までにこんなものは見たことがない。
「海に住む獣? の革なんだって。これで靴を作ったらきっと、凄いのが出来るね」
指で感触を確かめ、ひっくり返したりなどして観察する。鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。潮風の香りがした。
青い革が作れる、海の獣……。何となく予想はついた。これはきっと、クジラの革だ。この世界にもクジラが、いやそれに準ずる巨大な怪物がいたのだ。
かつての世界でも、クジラの革を用いた靴というものは殆ど存在しなかった。そもそも、クジラの革というもの自体が貴重品だ。
理由の一つには、クジラ自体の数が少なく捕鯨量も減っているから……というのもあるだろう。だが大きな理由としては単純に、クジラは皮ごと食べられるから、だ。
世界の中でも大きな捕鯨国である日本にクジラの皮を食べてしまう文化がある以上、クジラ革は中々流通しない。俺がクジラ革に触ったのも、恐らくは初めて。当然靴にしようというのも初めてだ。
段々と心が沸き立ってきた。この革で靴を作ってみたくて仕方がない。それも今すぐに!
が、その勢いは何とか心の中だけに抑え込む。隣にはまだユーティカがいるのだ。贈り物を受け取った瞬間、喜び勇んで家に帰るというのは恥ずかしい。
「ありがとう、ユーティカ。とても嬉しいよ。ああ、今までで一番嬉しいかもな」
「え、えへへ。頑張って買って来た甲斐もあったかな! あとね? もう一つあるんだけど…………」
彼女はフードの内側から、また何かを取り出した。今度は手のひらに包んでしまえるような、白くて小さい物だ。
受け取って、よく見てみる。それは細長く固い、筒のようなもので、材質は金属でも木でもない────骨?
「獣人の間では伝統的なお守りなんだ。獣の骨から作ったものなんだけど……首から下げて、肌身離さず持っていてくれると嬉しい……な」
ユーティカは再び顔を赤くし、俯いてしまった。
お守りとやらの上部には小さな出っ張りあり、穴が開いている。ここに紐でも通せということか。
「分かった、大切にする。だが、その。いつものことだが、俺はお前に渡すものが無いんだ。すまん」
俺には靴を作ることしか出来ない。
よって、プレゼントの選択肢など靴しかあり得ないのだったが、それすら用意出来ていない。
感謝祭というイベント自体すっかり忘れていたのもあるが、俺が求める水準に達した靴が中々作れない。
ユーティカに半端な出来の靴を贈ることなど到底出来ないから、何度も作り直すトライ・アンド・エラーの工程は必須だ。こうなると、数ヵ月は掛かるかもしれない。
「今は渡せないが……。新しい靴を作ってやる、必ず。だからちょっと待っててくれないか? その靴はもう捨ててくれていい」
彼女が今履いているモカシンは、俺が三年前にあげたものだ。当時の拙い技術で作られた、とても古い靴。
丈夫に作ったとはいえもうボロボロだから、新しくしてやりたかった。靴なんて他にもたくさんあるのに、彼女はこの靴だけを履く。靴屋の店員ならもっと、良い靴を履くべきだろうに。
「えー、これはアユムがくれた大切な靴なんだよー? 新しい靴をくれるなら貰っちゃうけど、これは捨てませーん」
彼女は座りながら、その足を伸ばして上下に揺らす。すらりとした細い脚はとても綺麗で、きっとヒールのついた靴がよく似合う。
だがやはり、その靴はいただけない。いくら丁寧に手入れされ汚れもないとはいえ、もう古すぎる。靴底も大分すり減っていることだろう。
「それは出来損ないだ。何の価値もない、子供が作ったかのような稚拙な靴だよ。……今の俺の靴も大して変わらんかもしれないが、それでも、それよりはまだマシな靴にしてやる。だからそれは捨てろ」
俺の靴には、皆が評価をするほど良いものではない。だが見た目が整っているから、変わっている形だとかいう理由だろうか、何故だか人気になっている。
それは過分に、分不相応なほどに。俺の実力なんて本当に、大したものじゃないんだ。
俺の靴が新しいものに見えるとしたらそれは、俺がかつての世界の知識を持っているから。世界中の靴の種類を把握し、それをここで再現しているだけだ。
まだネットはおろか、電気すらも存在しないこの世界では、得られる情報量が違い過ぎる。ここで暮らす人々にとっては、俺の靴は流行の最先端に錯覚するのかもしれない。
俺は未だに、最高の一足に辿り着けない。あるいは、そんなものを求める行為こそ、自らの技術に対する驕りに他ならないのか。
いいや、最高の一足以前に俺が満足する靴が作れていない。俺が満足せずして、他の誰かを満足させられる訳がない。
俺はこれっぽっちも成長なんてしていなくて、ただ未熟だった。
「私、アユムの作る靴、素敵だと思う」
視線を彼女の足から顔に移す。彼女もこちらの顔を見ていた。
「だから、そんなこと言わないでよ」
世界が、揺れる。
途端に頭がくらりと揺れ、視界の焦点も合わなくなる。
これは、どういうことだ?
俺は知っている。この言葉を以前に一度聞いたことがある。忘れてはいけない、とても大切な事だったのに。今の今まで忘れていた。
誰から言われたんだっけ? いつ言われたんだっけ? 駄目だ、頭が痛い。
頭蓋骨にヒビが入るかのような、強烈な痛みが脳を揺さぶる。記憶の奥底で何かが呼び起こされた。
そうだ。俺は、俺の靴は。俺の願いは────
「あっ……!」
不意にユーティカが俺に抱き着いてきた。何事かと思えば、噴水を挟んだ反対側に兵士が歩いていることに気付いた。
この街の兵士ではない。恰好が違う。それに、仰々しく銃など持っている。
銃を持った兵士なんて、これまでに見たことがない。何か嫌な感じだ。
夕暮れの空にカラスが鳴く。
冷えた風が吹きすさび、段々と寒い季節になっていくのを予感した。
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