第10話
布団の中で、アユムを抱きしめて眠りに就きます。
彼はきっと、私が迫害された過去を思い出して傷ついたのだと思ったのでしょう。それはちょっと違うんです。いえ、傷ついていないと言えば嘘なのですが。
私は理解しています。アユムもまた、傷だらけなのです。傷だらけの不器用なので、私を傷つけてしまったことに自分も傷ついてしまったのです。
だから怒ってはいません。もう悲しんでもいません。
私は彼の傷を癒してあげたかった。日々彼を靴作りに専念させるために、靴の販売から交渉、食事や掃除に至るまで全て私が担当しています。大忙しです。それでも、彼の為なら苦ではなくて。
ただ一つ誤算があるとすれば……。全くこの人は鈍いのかなんなのか、殆ど毎晩一緒に寝ているにも関わらず、私への感情が薄いような。
もうちょっと察してくれてもいいんですけど? ただ一緒に暮らすだけの人にここまでしませんけど?
彼の中で、私はどういった立ち位置なのでしょうか。お手伝いさん? 従業員? 便利な女? 大切にされているというのは伝わりますが、もっと明確に態度に出して頂けると嬉しいです。
……分かってはいるんです。彼は靴の事しか考えていない。
この街でアユムは有名になりましたが、それでも友人と呼べる者はいません。彼はそもそも工房に籠って、誰かとの交流の場などに出て行こうとしないからです。
他の靴職人さんと話す機会があっても、彼は小さく頷いたり「ああ」とか「うん」とか言うだけ。会話が成り立たないので、基本的に私が代弁しています。
いや、これは流石にどうなのかな……。
元から会話が得意な人ではないのですが、これは根本的に、他人に興味が無いからなのでしょう。私と彼の“親っさん”だけが例外です。
誰かと一緒にいるよりも工房で靴に触っている時間の方が長く、靴が恋人なのかもしれません。実は誰も見ていないところで、靴に話しかけたりしているのでしょうか。やりそうです。
私はずっと、気になっていたことがあります。
聞こうと思ってはいたけれど、聞いてしまっていいのかとも思って。
ですが、最近のアユムは殊更にのめり込んでいるのです。それはもう病的なまでに。なのでもう、聞いてしまいます。
「ねえアユム……。アユムの求める、最高の一足ってどういうの?」
「ん?」
とある日の昼下がり。居間のテーブルを囲み、昼食を採りながら。
アユムは食べていた私特製のフィッシュサンドを飲み下します。
「最高の一足っていうのは、完璧で一分の瑕疵もない靴のことだ。完璧と言うのは靴の形であり色であり……。まあとにかく、見ているだけで時間を忘れるような、一つの芸術作品だよ」
彼が特にそれに執着し始めたのは、店を開いて、経営が軌道に乗ってからのことです。それまで生きるために作っていた靴が、生活の安定と共に本当に趣味の物になりました。
「俺は、最高の一足を作るために生きている。親っさんには笑われたけどな、これは気持ちの表現とかじゃなくて本気で言ってるんだぞ」
では、もしその靴を作り終えればアユムは死んでしまうのでしょうか?
それはいけません。もしそうであれば、私はアユムの靴作りを邪魔しなくてはならなくなってしまう。
あれ? アユムが靴を作れなくなったのなら、それはそれでアユムが死んでしまうのでは? これは難題です……。
ともあれ彼の瞳は、遥か遠くを見つめています。そこには少しの揺らぎもなく、確固たる信念と熱い心を感じさせるのです。
私はこの瞳が好きです。巷では変わり者と言われることも多く、時には狂人と噂されていると知っていても。私はアユムのこの情熱が好きなのです。
領主さんからのお礼も、カッコよく断っていました。お金とか名誉とか、彼にとっては無用の長物。
だからつい、私はこの人のことを見つめてしまいます。あまりに一本気で意志の強いその、何かを見つめる瞳のことを。
己が願いの為に、靴作り以外のものを削ぎ落としてしまった人。
どうしてこうなってしまったのでしょうか。何が彼をここまで突き動かすのでしょう。
その心で熱を発するものは何なのか、私は知りたい。
「あのさ……。アユムはどうして靴を作り始めたの?」
「………………ええと、どうしてだっけな」
軽く投げかけた言葉は簡単に返されるものだと思っていました。ですがこれは、予想外に突き刺さってしまったのかもしれません。
彼は言い淀み、沈黙。目を閉じて考えている様子。
私とアユムが出会った頃、彼は既に靴の虜でありました。
あの廃屋から生きるために仕事を探し、街へ下りて靴屋の扉を叩いたのです。それが彼が親っさんと呼ぶ──ロミス・オルディオさんとの出会い。
そして靴屋は今、私たちがこうして使っています。有難いことです。感謝しかありません。
「俺は……過去の記憶が曖昧だ。君と出会う前の、はっきりとしたことは思い出せない。俺はただ、自分の中にある靴を作りたいという欲求に従ってきただけだよ」
そんなことが、あるのでしょうか。自分でも訳が分からず、だけどここまで打ち込むことが。人生まで捧げてしまうことが。
私は、アユムが記憶を失った人だということは知っています。
文字の読み書きも、田舎育ちの私が知ってる限りのことを教えました。この王国に関することも何一つ覚えていないので、オルディオさんも私と同様、アユムに色々と教えてあげたようです。
しかし、肝心の原因については全く分かっていません。彼がどうして記憶を失くしたのか、どうしてあんなところにいたのか。……もしかしたら、記憶と一緒に何か大切なことも忘れてしまったのかも。
リンリン。
軽やかな鈴の音、お客さんです。休憩を終え私は急いで店頭に向かいました。
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