第9話

 雨が降っています。


 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ。

 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ。

 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ。


 空は真っ黒で、これっぽちも止みそうにありません。そのうちにまるで、私を罵る人間たちの怒号のように聞こえてきました。

 この廃屋は天井に大きな穴が開いていて、全く雨水を防げていません。冷たい水が私の身体を濡らし、体温を奪っていきます。


 傷が痛みます。


 ずきずき、じくじく、ずきずき。

 ずきずき、じくじく、ずきずき。

 ずきずき、じくじく、ずきずき。


 傷口からの血は止まっています。でも、雨に濡れて赤い色が肌を伝います。

 手当は殆どできていません。傷の治療をする道具はなく、包帯を巻くことすらも出来ません。




 私は元々、この丘のふもとの港町からは遠く離れた場所で生まれました。

 山の中の、小さな集落です。父がいて、母がいて、友人がいて。他とは違う毛色で産まれてしまったけれども、それでも他の獣人となんら変わりのない生活を送ってきました。


 その山のふもとには、人間の村がありました。私は両親から、人間というものは優しい友人であると聞いていて、それなりに興味がありました。

 ですが同時に、母は言いました。決して人間にあなたの姿を見せてはいけないと。その白い毛を見られた途端、大変なことになってしまうのだと。

 私は母の言いつけを守ります。村には近づかず、山の中だけで幼少を過ごしました。


 しかし不運なことに、ある日、人間に私の姿を見られてしまいました。

 いいえこれは、私の責任です。私が余計なことをしたからです。


 母が、薬に効く薬草の在庫が少なくなってきたとぼやくのを、物陰から偶然聞きました。それは山のふもとまで続く川に沿って生える、人の腰ほどの高さまで育つ植物です。

 人間の住む世界には、もっと効率的な薬もあるのでしょう。ですが伝統的な獣人の暮らし、山奥ではその場にある植物を使った薬の調合が普通です。

 私はたくさん持ってきて驚かせてあげようと、山を駆けました。


 川は好きです。よく水浴びもします。しかし薬草は中々見つかりません。ここ最近の天候不順のせいか、上手く育生出来ていないようです。

 私は考えて、山を下り普段は立ち入らないようなところまで足を運びました。人間の村にごく近い場所です。

 人間はこの薬草を採らない。ならば、まだ摘まれていない草が生えていると思ったから。結果は予想通り、多くの薬草を摘めました。


 でも、浅はかだったと言う他ありません。この自然の中において、私の白い毛は目立つこと。ちょっとぐらいならふもとに立ち入っても大丈夫だろうという慢心。そもそも私がすべき仕事ではなかったということ。

 川に水を汲みに来た人間に、私の姿が目撃されました。


 白い毛の獣人がいると知られてからはあっという間で。

 私たちが住んでいた森の中の集落は、沢山の狩人が押しかけてきて消えました。私を逃がしてくれた母は殺され、巻き添えで逃げた友達は私と勘違いされ矢で射られました。


 嗅いだことのないような血なまぐさい森の中を駆け抜け、山のふもとの村外れまで逃げましたが何も変わりません。

 既に山の周りは村の人たちに囲まれていて、私は農具で叩かれたり切られたりしました。


 私はただ、母に喜んでもらいたかっただけです。なのにどうして、母の血が私の顔に付いているのでしょう。

 好きで白い毛に産まれたわけでもないのに。私は何も悪いことなどしていないのに。母の言いつけを、ほんの少し、ほんの少しだけ破っただけです。

 世界の理不尽に嘆きながら、走ります。


 殺されたくはないと必死に逃げて、逃げて、逃げて。

 こんなのは悪夢なんだと、現実からも目を逸らして。

 気が付けば丸七日以上走り続け、山から山へ移動し、人間と鉢合わせては殺されかけて。ついにはこんな大陸の南端まで来ました。




 何度目を閉じて開けても、身体の痛みは変わりません。これは夢ではなく現実であると、無慈悲な雨音の中から聞こえるカエルの声が教えます。

 もうしばらく何も食べていません。地面を蹴り続けた素足は赤くなり、脇腹が呼吸するたびに鈍い痛みを訴えます。きっと、どこか骨が折れているのでしょう。

 人間が鉄の鍬や鋤で殴りつけてくるのです。鉈や鎌に目を潰されそうになり、避けて身体に引っかかった刃が私の服と肌を切り裂きもしました。もう全身が悲鳴を上げています。


 私はここで死ぬのだと。

 その考えに驚きはなく、ただ事実として、静かに受け入れます。


 白い毛は忌み嫌われる。私の両親はそれを知っていたのに、産まれてきた私を祝福してくれました。

 どうしてそんなことをしたのでしょうか。赤子の私を殺しておけば、自分たちが死ぬことにはならなかったはずなのに。

 謎です。死ぬ前に答えを知りたいところですが、もう彼らもいません。私を匿っていた罪人として、全員殺されてしまいました。


 降りしきる雨の中、誰かが近づいて来る気配がします。足音からして一人、私を捜しに来たのでしょうか。

 警戒はしますが、もう私は動けません。隠れることすら出来ず、廃屋の腐った木板の床の上に転がっているだけです。

 あの人間がこの廃屋に入ってくれば私は、為す術無く殺されます。もしくは異端として連れていかれ、首を吊られるか火あぶりのどちらかです。


 異端は捕まってから処刑されるまで、なぶりものにされるのだと聞いたこともあります。王都へ行ったことがあるという父の話です。

 見世物として街の広場に引きずり出され、その街の住人に石を投げられ、木や鉄の棒で殴られるとか。抵抗できない異端は為されるがままに暴力を受け、人間はそれを面白がって笑うと。

 父も母も、茶色の毛並みをした普通の獣人ですので、迫害されることはありません。集落の中でただ私だけが例外なのです。ですからその話を聞いた時、私は心底ぞっとしました。


 その恐怖の未来が、私に訪れようとしています。

 ああ、もしそれが本当なら。この場で私を殺してもらい、なぶりものにするのは私の死体にしてもらいましょう。もう苦しいのはまっぴらです。


 廃屋の床を軋ませ、男の人が入ってきました。傘も合羽も着ていないため、私と同じように濡れてしまっています。

 着ている服は奇妙で、農家の人でも猟師の人でもなさそうでした。両手には何も持っていません。顔も、暗い面持ちです。


 彼も当然こちらに気付きます。私は少し唸って威嚇しました。しかし反応はなく、効果は薄い様子。こちらは血だらけ、弱っているのは明らかですし、当然ですか。


 数秒の静寂。


 彼はゆっくりと私に近づき、何をするかと思えば隣の、倒れた木の柱に腰を下ろします。

 はて、どういうことでしょう。もしや私が見えていない? いえいえ、そんなはずは……。


 隣の男は、困ったような表情をしていました。ここがどこなのか、これからどうすればいいのか分からない。そんな迷子の子供みたいな目です。

 おもむろに男の手がポケットに入り、私は警戒します。中からナイフか何かを取り出し、私を殺そうとするのか。そう考えたのですが、出てきたのは全然違うものでした。


 緑色の、手のひらほどの大きさの球体。

 この辺に群生している果実の一種です。大陸全土に幅広く分布しているようで、私も故郷の森で食べたことがあります。


 彼はそれを皮ごとかぶりつき食べ始めました。しゃくしゃくという、小気味よい咀嚼音が雨の中でも聞こえます。

 そしてどうやら、あまり美味しくないといった顔つきです。眉間にしわが寄っています。


 それもそのはず、この種の果実が皮に含むのは強い苦み。誰だって皮を剥いてから食べるのですが、何故かこの人はそのまま食べています。

 刃物が無ければ別の物を食べればいいのに。私だって、爪でいくつかに割ってから食べられます。


 まじまじと隣を見ていると、男もこちらに顔を向け、ポケットからもう一個の果実を取り出しました。

 左手で掴んだそれを私に向かって突き出し、動きを止めたのです。


 再び静寂。

 天より落ちる雨粒が果実の表皮に弾かれていき、何だかとても美味しそうに見えました。


 瞬間、地の底から何か大きな音が響き渡ります。

 私は何の音かと驚きましたが、すぐに自分のお腹から出たものだと気付きました。は、恥ずかしい……。


 手を伸ばすと、果実が放され私の手の中に落ちてきます。既に空腹は限界。堪えようもありません。

 なりふり構わず、割ることさえも忘れて深緑の恵みに歯を立てると、少し甘い果汁が溢れてきます。それは皮の苦みを持ちながらも、とても美味しくて────


 あっという間に食べ終わってしまいました。種も芯も嚙み砕いて飲み下し、私の手は再び空虚に。

 栄養を得たことで思考が回り始めます。そも、彼の目的は何でしょう? どうして私に食事をくれたのでしょう? 実に奇妙です。


 よく見れば彼の服はよれて汚れてしわだらけ、しばらく着替えていない様子。

 私も誰かの事を言えた立場ではありませんが、それでもこの人は普通と違う、ありていに言えば変な人だと思いました。


 「…………ど、どし、どうして」


 しばらくぶりに発された言葉は擦れていて。それでも、聞こえたはずです。

 しかし彼は何も答えません。何も答えないまま今度は、伏せた私の頭を撫でました。

 全く意味が分かりません。行動の理由が不明で、彼の思惑も推測不能。ですが怖くはありません。全くと言っていいほど、この手には敵意や悪意といったものを感じなかったので。


 雨は止まず。けれども、心は凍えず。

 白い獣と放浪の男は互いに動きませんし喋りません。それが不思議なことに、安心感すら感じていて……。


 同類であると思ったのです。この人間は、私と同じ“はずれ者”だと。

 そういうニオイがしました。いえ事実、果実の食べ方も白い毛の獣人のことも知らないような人がまともであるはずがありません。

 互いに社会から追い出された、行き場のない生き物。誰からも肯定されず祝われず。世界にとっては死んでいるも同然の、無価値な肉片。


 ならばこれは運命でしょうか。その無価値な物同士がこうして出会い、隣り合って雨に濡れることが出来るのは。


 ゆっくりと目を閉じ、地面を打つ雨の音楽に耳を澄ませます。恐ろしい人間の声はもう聞こえません。

 ただ、故郷の小川のせせらぐ音が思い起こされました。

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