第6話
朝日が昇りはじめ、どんどんと空高く昇っていく。今日は珍しく日差しが強い。
海を見る。水平線の向こうまで空は続き、太陽の光を反射する水面と、雲が白を刺す空とで二種類の青が視界を埋め尽くす。
漁船や貨物船は人を乗せゆっくりと動き、どこからかやって来たいくつもの船が、港に行儀よく並んでいる。
仕事をする人の大きな声、街行く人の異国の話声。外の国から運ばれてきた奇妙な獣の吼えた声。雑多な音はまるで、今日が祭りであるかのように演出する。だがこれは、ただの日常のワンシーン。
ここは王国の玄関口。国で最も貿易が発達しているとされる港町クランクだ。
潮風を浴びながらうろうろと歩き回り、俺は結局、埠頭の海に突き出た停泊地に座って行き交う船を見ている。
靴のアイデアを出すために、ここで取引される品々を観察すれば何か思い浮かばないかと考えたのだが。何でもそう簡単には上手くいかないものだ。
「光るモノ……がいいんじゃないかなぁ。私、キラキラしたの好きだよ」
隣にいるユーティカにアイデアがないか訊いてみると、そんな答えが返ってきた。
俺も頷いて同意する。やはり光をよく反射したり、光沢をもつ素材で靴を作った方が良い。丁度、この海が太陽の光で輝くように。
ユーティカはいつもの鶯色のフードを被っている。マントが彼女の尻尾まで隠し、その正体を秘匿する。だがこの天気では少し暑いのではなかろうか。
早いところ家に帰った方がいいかもしれない。エアコンはないにしろ、その装備を脱ぐことは出来る。
「あと? うーん……」
続けて質問すると、彼女は考え込む。
そして、ぐぅと音を鳴らした。
「……お魚が食べたいなー」
ユーティカは横目で、向こうの漁師たちが引き上げている、網にかかった大量の魚を流し見する。どうやらお腹が空いたらしい。
腹ぺこな獣人のために、近くの食堂へ向かうことにした。
このクランクには多種多様な店があるが、料理店の豊富さは、俺のかつての故郷日本にも勝らずとも劣らない。何しろ、王国内外から多種多様な人々が店を構えているのだ。
特に、魚は美味い。目の前で水揚げされたものを使っているのだ。刺身という調理文化こそないものの、焼いただけでも絶品ものである。
海に沿って埠頭を歩いていると、釣り人たちが海鳥の様に座り込んで海に糸を垂らしている。普段なら別段注目することもなく通り過ぎるのだが、今日はあちらから声を掛けられた。
「お、靴屋の嬢ちゃん! 今日は暑いなー!」
剥き出しの肌を汗で眩しく光らせる、褐色の青年だった。大きな帽子を被って日差しを遮っているが、日焼けは免れないようだ。
だが彼の姿に覚えはない。出会った人間のことをいちいち覚えている場合の方が珍しいのだが、彼に関しては本当に初対面。だと思う。
そもそも彼が声をかけたのも、俺でなく……。
「リヴァウルさん、お元気ですか?」
どうやら、ユーティカの知り合いらしい。彼女はこの街での顔が広い。市場で靴の素材を仕入れたり、買い物などで多くの人と話す機会がある。
釣り人や漁師たちとも交流があり、彼らの間では、彼女は少し人気者らしい。
俺をそっちのけで、ユーティカと彼は適当に世間話をする。互いに笑顔の見える、楽し気な会話だ。
彼は、いや街の人間はほとんど、ユーティカが白毛の獣人であると知らない。だからこそこんな会話が成り立つ。
もし正体がバレれば、どうなるか分かったものではない。だから俺は、彼女を外に出すときはいつもハラハラしている。
「しっかしよ、こんなに暑いんだからフードぐらい脱いだ方がいいんじゃないか?」
「私、肌が弱いので……。お日様の光をたくさん浴びると、痛くなっちゃうんです。ああ、もう行かないと。それではリヴァウルさん、ごきげんよう」
彼女は自分が空腹であることを思い出し、会話を切り上げてこちらに戻ってきた。
肌が弱いというのは嘘だ。彼女は他の人間と何ら変わりなく、いや獣人である分だけむしろ強い肌を持つ。日焼けにもそうならない。
眩しい光を見つめることを嫌う傾向にあるが、太陽を直視するわけでもなし。全ては年中フードとマントを着用するための方便だった。
「待たせちゃったね、アユム。さ、早く食堂に……あれ? あそこにいるのって、もしかして……」
並んだ釣り人、その中に見知った背中があった。
帽子を深くかぶり、目元は見えない。だが、そのくゆらせたパイプと背格好。間違いなくあの人だ。久しぶりに出会ったので声を掛けよう。
「親っさん、何してるんですか?」
「あぁ? ……なんだ、お前か。見りゃわかんだろ。釣りだよ釣り」
聞きたいのはそういうことではないのだが。
目の前の老人は、釣竿を持ちながらこちらに顔だけを向ける。シワが刻まれた職人の顔だ。
「あんまり釣れてないですか? お魚、少ないですね」
ユーティカは親っさんの傍に置いてある、水の入ったバケツを覗き見る。
そこには大ぶりの魚が数匹しか入っていない。
「嬢ちゃん、俺は別に釣り師じゃねぇんだ。コイツは趣味だし、自分で喰う分だけありゃいいのさ。だから小さいのが釣れても逃がしてやるし、必要以上の量は獲らねぇ」
老人が持つ竿が揺れる。
彼が水底へ引き寄せられる竿を一気に持ち上げると、活きのいい魚が宙を舞って水面より飛び出してきた。
しかしそれは小ぶりであったためか、老人は手に掴んだ魚から釣り針を外し、海へ投げ返す。
「……んで。店は順調らしいな。俺も聞いてるよ」
「全部、親っさんのお陰です。俺はまだ未熟で」
強い日差しが海面を光らせる。彼は帽子を、さらに深くかぶり直した。
親っさんのお陰でもあるが、ユーティカのお陰でもある。俺一人では店の経営など、とても無理だった。
「全部じゃあねえ。間違いなくお前の才覚が、評判を生んだのさ。まあ、お前が未熟だってのは事実だが。でもそれでいい。人生ってのは長い長い道だ。何があっても前へ歩き続けろ。驕って立ち止まった時、お前は二度と成長できなくなる」
相変わらず、親っさんの言葉は身に染みる。俺は自分が才能に恵まれていると自覚し、だからこそ前へ進むために懸命に努力を続けてきた。
それでも俺には、まだ手の届かない場所がある。
「しっかしお前はクソ真面目だからな。たまには嬢ちゃんのこと構ってやれよ。そうだ、漁港でデカいエビが獲れたってんで食堂に入荷してんだ。喰わせてやれ、喜ぶぞ」
「エビ!? 食べる、食べよ? アユム、ほらほら!」
ユーティカの空腹は限界らしい。俺は親っさんに別れの挨拶もできぬままに彼女に連れ去られた。
やれやれ、別に美食を堪能しに港まで来たわけではないのだが。
港の食堂は普段より賑わっていた。本日の目玉、とでかでかと張り出された紙の下には巨大なエビが鎮座している。
赤い甲羅、長い触覚を持つ海の生き物。ただしその大きさは、目測でおよそ五十~六十センチという全長だ。それが何匹もザルの上に乗っていた。
席を探すのも一苦労ではあったが、なんとか二人分の席を確保。ユーティカは座るなり手を上げ、エビの甲羅焼きを二人前注文する。
俺はなにも、エビを食べるとは言って……。まあいいだろう。注文は全て彼女に任せることにした。好きなものぐらい好きなだけ食べるといい。
「わぁ~! アユム、すごいね! いっただっきまーす」
出てきたのは、真っ二つに両断されたエビの焼いたものだ。香辛料も乗せられており、なんとも美味しそうな海産物の匂いが鼻を突く。
一口食べると、凝縮された旨味が口の中で爆発する。ここで暮らすうちに海の料理はかなり食べていたつもりだが、今日のこれは別格に旨い。フォークを持つ手が止まらず、エビの身をほじくり返す。
「むぐ……。もぐもぐ。んん~!」
隣の様子を窺うと、見る見るうちにエビが喰われていく。エビの汁気で口周りを汚しながらも、本人はそれを全く意に介さず、夢中になって口を動かしている。
ユーティカが幸せそうな姿を見るのは、俺にとっても幸福の時間だ。彼女には笑顔になっていて欲しい────
ふと、三年前の出会いの日を思い出す。
雨の降りしきる街外れの廃屋の中。彼女は泣いていた。いや雨粒だったのかもしれない。だが、とても悲しい顔をしていた。
服は誰かに破かれたのか、それとも逃げている間にそうなったのかボロボロで、殆どただの布切れと化していた。身体を覆い隠すことは出来ず、血の滲んだ素肌が晒される。
彼女は俺に警戒するも、俺に敵意がないことが分かったのか、逃げることも暴れることもなかった。そんなこんなで行き所の無い者同士、しばらく一緒に廃屋に住み込むことになったのだ。
あの頃と比べ、今のなんと幸せなことだろう。彼女はもう血を流すことなく、こうして笑顔を見せてくれている。
実際の所、俺には十分過ぎた。俺には何の名誉も金も要らず、ただ彼女が隣にいてくれればいい。だというのに最近は店も軌道に乗っていた。もしかしたら夢でも見ているのかもしれない。
ああ、だが。そんな彼女よりも大切なものが一つある。最高の一足を完成させてこそ俺は本当に満ち足りるはずだ。
「……あれ、アユム食べないの? もうお腹いっぱい?」
ユーティカの皿には、既に空の甲羅しか残っていない。汁の一滴も残らず食べ尽くされている。
そして、未だ満腹ではない獣の眼は俺の皿の上へ向けられていた。
「ああ、俺はもういいよ。そんなに食いたきゃ俺のも食え」
俺は基本的に小食だ。朝食もパン一枚で夜まで持つし、それに満腹は仕事が出来なくなるため避けたい。このエビの甲羅焼きも、俺には多すぎる代物だった。
「ありがと~。えへへ、美味しいね」
何より、こうして彼女の笑顔が見れる。俺の食い残しでよければいくらでも食べるといい。俺が自分で食うより満足するというものだ。
さて、食事は終えた。次はどこへ行こうか。
また工房に籠ってデザインを考えるか、いや市場へ赴き異国のデザインから着想を得るか。
時間的な猶予はあるのだが、それでもあまり余裕は無い。この分では、靴が完成するのは期日間近になってしまうかもしれないからだ。
一度引き受けた以上、依頼は完遂する。靴作りなど趣味でやっているという面が殆どではあるが、それが責任というものだ。
自分を一流の靴職人などと驕るつもりは毛頭ない。だが親っさんの後を継ぎ、店を構えた。俺の不義はそのまま、ロミス・オルディオの名を汚すことになりかねない。
「見て見て、アユム!」
「うん……?」
そろそろ食堂を出るかと立ち上がると、ユーティカに呼び止められた。
彼女の両手にはそれぞれ、半分に割られたエビの殻だけが残っている。
「靴! これ、靴じゃない?」
「…………は?」
エビの殻が踊るように──いや歩くように、上下に動く。
まさか、その中身が空洞の殻を靴に見立てているのか?
瞬間、電流のようなものが脳裏に奔った。
そうだ、これは、これこそが靴になる。
俺はユーティカの手を掴むと、その赤色の瞳を見据えて言った。
「分かった、ユーティカ! 今すぐ帰るぞ! ──その殻を貰っていって、な!」
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