2-7

 そのまま、何事も無く、馬車は進む。


 だんだんと疎になってきた木々に、ラッセはほっと息を吐いた。だが。


「『影』がいる」


 不意に響いた、ネイの声に、はっと気を引き締める。左側、まだ木々が密である方を向くと、木の影とは異なる濃さを持つどす黒い色が、微かに、ラッセの目の端に映った。『影』は、人の感情を糧にしている。特に、『悪意』のある場所に溜まりやすい。父が教えてくれたことと、ネイの言葉が、絡まったままラッセの脳裏を過ぎる。次の瞬間。不意に、ラッセの視界は真っ白な光に塗り潰された。


「なっ!」


 何も見えないまま、突然の殺気を剣と籠手とで留める。前足を上げた馬を脚だけで静めると、再びラッセの方に向かって来た槍らしき殺気を、ラッセは右手の剣で打ち落とした。脚だけで馬を操りつつ、右手の剣と左手の籠手で向かってくる殺気を打ち落とす。籠手を腕に合わせておいて良かった。左腕に走る鈍い痛みに顔をしかめながら、ラッセは目を瞬かせ、視界に残る鋭い光を追い払った。


 戻りかけた視界に、箱馬車の斜めの影とその影に刃を向ける人の影が映る。猊下! 叫ぶ前に、ラッセは脚だけで馬を駆り、馬車の扉を開けて槍を構えたならず者の大きな背を剣で薙いだ。頭絡に目を保護する布が付属しているものを着けていた為だろう、馬車を牽く馬は倒れていないし、御者も矢を受けて呻いているだけだ。馬車の中の猊下も、無事。そのことにほっと胸を撫で下ろしながら、敵を確認するために、ラッセはまだ閃光の残る瞳で辺りを見回した。その時。


「ネイっ!」


 高い声に、はっと振り向く。ヴァイスの赤いマントが馬から滑り降りたその先に見えた、矢を受けて横倒しになった馬の空を蹴る脚とその馬の傍らに倒れていた人影に、ラッセの視界は不意に暗くなった。


「ネイ……?」


 地面に倒れている、敵方らしき複数の影を確かめる間も無く、ぎくしゃくと馬を降り、ヴァイスの方へ走る。ヴァイスの鎧には、怪我による血も傷も見当たらない。そして、おそらくヴァイスを庇って怪我をしたのであろう、地面にぐったりと横たわるネイの鎧には、太い矢が幾本も刺さっていた。


「これは……」


 そのネイの、酷く凹んだ兜を外したヴァイスが、唇を引き結んで首を横に振る。左こめかみに広く開いた傷から流れ出す血で、ネイの顔左半分は鈍い赤に染まっていた。


「これでは、もう……」


 ネイの傷の酷さに呆然とするラッセの視界の端で、ヴァイスが抜いた剣の切っ先が光る。その剣がネイの喉元に届く前に、ラッセは剣とネイの間に立ち塞がった。


「だめっ!」


 叫びが、ラッセの口から漏れる。まだ、ネイから、……何も聞いていない。聞かなくては。強い一つの感情だけが、ラッセの身体全体を支配していた。


「こいつをこれ以上苦しめる気か? 友人だろう?」


 ヴァイスの剣から庇うように抱き上げたネイの、小さく漏れる息に胸を撫で降ろしたラッセの耳に、苛立つヴァイスの声が響く。ラッセが首を横に振る前に、静かな声がヴァイスを止めた。


「その者を、馬車に乗せなさい」


 見上げたラッセの瞳に映ったのは、血のように赤い色をした袖無しの上着。その上着の唯一の着用者、教王ゼーリヒは、動かないネイの額にそっと、祝福の印をなぞった。


「助かるにしろ、息を引き取るにしろ、それは神のみが決めること」


 それが、神の慈悲。猊下の言葉にしぶしぶ頷いたヴァイスの手を借りて、ラッセはネイの冷たい身体を猊下の箱馬車に乗せた。

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