第二章 緋を曝す
2-1
おそらく、ここだろう。そう見当をつけて、粗末な木の梯子を登る。ラッセの予測通り、修復途中でまだ壁が腰の高さしかない塔の最上階で、ネイは大きな地図と塔からの遠景とを照らし合わせていた。
「ラッセ、どうした?」
気配を察して振り向いたネイの顔色は、普段の通り。銀鉄の国の住人特有の血の気の無い色をしている。その顔色に、あの恐ろしい夜の光景が重なり、ラッセは何かを振り払うように首を横に振った。
「この町は、静かだね」
そのラッセの耳に、独り言のようなネイの声が響く。
「ギードも、ここに来れば、憎しみを忘れることができたかもしれない」
親を殺した子供さらいに対する復讐心に駆られ、命を落とした小さな影が、ラッセの脳裏を過ぎる。何も言えず、ラッセは遠くに映る穏やかな景色を見つめた。起伏のある平原に見えるのは、靄でぼうっと霞む葡萄畑と麦畑、そして様々な高さの木が不規則に立ち並ぶ森林。傾きかけた太陽があるからだろう、悪意を感じて現れるとネイが話した『影』は、見当たらない。確かに、静かだ。心の落ち着きを覚え、ラッセは大きく息を吸った。
ネイが助けた子供の一人、ザインが覚えていた村は、今は無い。『奇跡の子等』をさらったり作物や金品を脅し取ったりするならず者が増え続けていることを懸念した村人達は、自身を守る為に近隣の村々と協力し、まだ皇国が存在せず、大陸が群雄割拠の時代であった頃に作られた丘の上の町への移住を決めていた。素封家であるザインの父が新しい町の長となり、人々が協力して、殆ど廃墟であった町を堅固な砦へと修復している。丘の上の町から畑へと出るのは大変そうだが、子供達を守るには良い方法だ。まだ少し薄いように見える緑の色に、ラッセは目を細めた。ザインの父である町の長の紹介で、ネイが助けたもう一人の子供イーアも若いパン屋夫妻の息子としてこの町に落ち着いた。ザインも、これまでの時間を取り戻そうとしているかのように町長夫妻に甘えている。イーアとザインについては、ラッセは心から安堵していた。だから。……生意気だったもう一人の子供、ギードのことを考えると、喉が苦しくなる。気を取り直すように咳払いをしてから、ラッセはネイが持つ地図を見やった。
ネイが町長から借りた地図は、古いものらしく所々裂けてはいるが、それでも、川の青い線と街道の赤い線がはっきりと描かれている。大陸を流れる二つの大河の合流地点には皇国の首都の名が、そして合流した大河が海に注ぐ場所からかなり右に逸れた場所には、ラッセが父と共に暮らしていたミドノルドの地の名と、皇都へと繋がる細い赤の線が書き記されていた。
「あの尖塔は、教王の都だね」
靄に霞む遠景を見透かしたネイが、地図に目を落とす。
「まずはあそこで、マリのお兄さんを捜してみよう」
ギードを殺したならず者達が捕らえていた女の子の名を、ネイが口に出す。マリと言う名のその女の子は、この大陸を支配する皇王が住まう皇都近くにあるらしい村の出身。村近くの森でさらわれ、皇都周辺を守る衛士達に助けられたが、その時に妹を取り戻そうと村を飛び出した兄を捜すために村を抜け出し、森を彷徨っているところでならず者達に捕まってしまったのだという。向こう見ずで、我が儘だ。自分のことを半分くらい棚に上げ、ラッセは溜息をついた。そのマリの言葉に頷き、兄を捜す約束をしたお人好しのネイに対する呆れの分の溜息も。
確かに、人を捜すには人の多い場所に行った方が良い。それは、分かる。だが。あくまで淡々としたネイの声に、ラッセは再びネイの横顔を見つめた。ネイの故郷、銀鉄の国に唯一神への帰依を強制した教王に対する憎しみは、無いのだろうか。人助けと、心にくすぶる憎しみは、ネイにとっては独立に考えることができるものなのだろう。そう、納得し、ラッセは口を開こうと努力した。ネイに、……聞きたいことがある。あの恐ろしい夜、ラッセがネイを刺したのは、闇が見せた幻覚だったのだろうか? いや。ラッセは確かに、ネイに渡された黒い刃で、『影』に囚われラッセを襲ったネイの胸を刺した。その時のおぞましい感覚が蘇り、ラッセは強く首を横に振った。ネイは確かに、ラッセが振るった刃に倒れた。だが、ネイは今、確かに、ラッセの目の前で生きている。ネイは、何者? 疑問だけが、ラッセの頭をぐるぐると回り続けていた。
と。
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