一章 絶望の底で
第2話
結婚式を当日キャンセルした俺は、スーツに着替えて会社に向かった。向かうのは自分のデスクではなく、社長室だ。
ノックをしてから、俺は社長室の中に入る。
「失礼します」
社長のデスクの上に、俺は退職届を置いた。
「すみません。会社、辞めさせてください」
デスクを挟んで目の前に座っている社長に頭を下げ、俺は懇願する。
「矢面、本当にそれでいいのか?」
目尻を下げ、心配そうな顔をして社長は言う。俺は何も答えられず、ただ口をつぐんだ。
「……矢面、お前は優秀だ。真面目で、責任感もある。矢面、俺はな、お前をもうすぐできる個会社の副社長にしようとも考えていたんだぞ。正直、お前を失うのは俺もかなり惜しいんだ。もう少し考えてくれないか。なんだったら、一、二か月くらい休みをとってもいい。頼むから、やめるのだけはよしてくれ」
椅子から立ち上がると、社長は俺に頭を下げた。俺は慌てて顔を上げ、言う。
「やっ、やめてください。……その、社長のお気持ちは凄く嬉しいですし、有難いと思います。でも正直いうと、一、二か月でどうにかなるものではないんです。なんとか復帰できたとしても、きっとミスばっかしちゃうと思います。そんなんじゃ、流石に迷惑でしょう?」
作り笑いをして、俺は言う。
社長の言い分は本当に心底嬉しかったし、三年真面目に働いていたのが実を結んだんだと思うと、凄く誇らしかった。
でも、それが会社をやめない理由にはならなかった。そんなことが理由で踏みとどまれるなら、そもそも退職願なんて書いていない。
「……どれくらい休みたいんだ」
「えっ」
社長は譲らなかった。
「お前を失うのは惜しいんだよ。だから、二か月でダメなら、三ヶ月は休みにしてやる。それにお前、有給消化してないだろ。それも合わせれば四か月は休めるぞ。せめてやめるのは、それからにしてくれないか。四か月経っても元気になれなかったら、その時は辞めていいから」
週四以上働いている俺は、確かに今年と去年分の有休を合計すると、三十日以上にはなる。でも、そんなのダメだろ。
そもそも社長が提案していいことではない。だってこんなの職権乱用だ。それもかなりタチが悪い。
「本気で言ってるんですか」
「ああ。俺はお前を失いたくないんだよ」
「でも、俺の休みは産休とか、明確な理由があるものじゃないですよ。身内に不幸があ
ったならまだしも、死んだあの子は俺の彼女なんですよ。妻じゃなくて彼女なんです。他人なんですよ。それで一か月どころか、四か月も休むなんて許されることじゃないですよ」
「俺が許す。だから頼む。辞めるのはよしてくれ」
社長は俺の真横に来て、土下座してくる。
「やっ、辞めてください! ……わかりました。わかりましたから。お言葉に甘えて、辞めるのは四か月後にさせてもらいます。でも、社長は俺の休みを部下や個会社の方に、どう説明するおつもりですか」
立ち上がって、社長は言う。
「そんなのお前が考えなくていい。とにかくお前はしっかり休んで、四か月後の今日、また会社に来い。それで答えを聞かせてくれ」
「……はい。お世話になりました」
頭を下げ、俺は社長室を出た。
俺はそれから荷物をまとめて、会社を出た。
最愛の人が死んだからってこんなことをするのは、異常なのだろうか。
違う。きっと異常ではない。
だって付き合って何か月かの子が死んだならまだしも、彼女は本当なら今日結婚するハズだった。
大学一年になる前から昨日まで、七年も一緒に過ごしてきた。やっと上司や社長、それに部下にも好かれるようになって、彼女と子供を育てるのにやっと十分な金が入ったのに。それなのに。幸せになれると思っていたのにまさかあんなことになるなんて、誰も思わないだろう?
だって、本当は今日結婚式を挙げるハズだったんだ。彼女は煌びやかなウェディングドレスを着て、俺は洒落たタキシードを着て、招待した奴ら全員に祝福されて。みんなでなかよくウェディングケーキを食べて、式の最期には彼女がブーケトスなんてやって。そうやって、幸せな家庭と家族を作る第一歩を踏み出すハズだったのに……。
涙が地面に零れ落ちて、俺の姿が地面に映った。目が泣きすぎで真っ赤に腫れている。夏菜がいた時は目の上くらいの長さの前髪をワックスを使って上にあげて額が見えるようにしていた。だけど今は全然そんな風にはする気になれなくて、ワックスをつけてもいなければ髪をとかしてもいない。ネクタイだって夏菜がいた時はきちんとシワができないように結んでいたのに、今はシワだらけだ。スーツもシャツも夏菜がいた時は毎日取り替えていたのに、今は昨日から着ているのを使い回している。
地面に映っている自分を見ただけで、明らかに弱っているのがわかった。
「はぁ」
何か悪いことでもしたのだろうか。浮気も喧嘩もしないで、彼女一筋で生きてきたというのに。
「……っ、
掠れ声で彼女を呼ぶ。
本当なら今、ウエディングドレス姿で笑って隣にいてくれるハズだったのに。
その時、クラクションの音が物思いにふけっていた俺を、無理矢理現実に引き戻した。
いつの間にか、俺は青信号の車道に突っ込んでいた。車が目の前に迫ってきて、俺を轢こうとする。思わず冷や汗が出た。自分はこんなにも周りが見えなくなるくらい投げやりになっていたのかと、他人事のように思う。
赤色の車が近づいてくるのが、やけにスローモーションに感じられた。
直後、男の子が走ってきて、俺の身体を歩道側に、勢いよく押した。百五十くらいの身長をした、小柄な男の子だ。制服を着ているから、大方中学生だろう。俺を助けようとしてくれたのだろう。しかし、所詮子供だ。必死で押すが、当然俺の身体は全然動かない。
車は間一髪、俺達を轢く寸前で止まった。
なんだよ。ちくしょう。止まってんじゃねぇよ、このクソ運転手。
酷い怒りが俺の心を支配した。
……アホ。今轢かれたら、この子供も道連れだろうが。
心の片隅にいる冷静な自分が、そんなことを囁く。
――うるせえ黙れ!死ねるなら、夏菜に会いに行けるなら、子供なんかどうでもいいんだよ!!
「ねえヤバくない? 警察呼ぶ?」
「いやでも、未遂でしょ? 別に呼ばなくていいんじゃない?」
運転手が急ブレーキをしたこともあってか人がどんどん集まってきて、好き勝手に騒ぎ立てる。
頼むから黙ってくれ。
「コラッ! お前ら、危ねぇじゃねぇか! その子はまだしも、お前さんも親ならよそ見して道路に突っ込んだりなんかするんじゃねぇ! 死んじまうぞ!」
車の運転手が、窓を開けて言う。
……死んでよかったんだよ、俺は。なんてことを思ったが、流石に口に出すのは憚られた。
「ハッ。別に死んでいいし」
俺が思っていたことと全く同じことを、男の子が小声で吐き捨てる。
「ガキが何言ってんだ」
「……知らないおっさんにそんなこと言われる筋合いないんだけど」
「おいお前、こいつの父親だろ! 教育なってないんじゃねぇか!」
運転手は俺を睨みつけて叫ぶ。
「すみません! あの、申し訳ないんですけど、警察は」
警察を呼ばれたら、ただでさえ今は夏菜のことでいっぱいいっぱいなのに、余計大変になってしまう。
「呼ばねぇよ、俺はこれから仕事が有るからな。ただし、次はないからな」
「はい、すみませんでした。ほら、行くぞ」
男の子の腕を引いて、野次馬をぬける。
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