第9話 『山の手の異国』
街を出発してから一時間半ほどたったところで、目的地に到着した。
電車を降り、地下鉄のホームに出た瞬間、彼らは別世界へ踏み込んだような感覚を感じた。
とにかく人、人、人があふれていた。
電車から吐き出された人々は波のごとく改札へ進み、彼らは人の波に押し流されるように歩いて改札を通り、これまた多くの人がうごめく地下街を進んで、地上へ出る階段を上った。
地上はさらにすさまじかった。
戦車が並走できそうなほどに広い道路が迷路のごとく右へ左へと入り組み、その上を大量の車が大平原を駆ける草食動物の群れのごとく走っていた。
歩道は人であふれ、自転車は殺人的なスピードで走りながら見事なハンドルさばきで通行人をかわしていた。
地鳴りのようなエンジン音。
肺に重みを感じさせる排気ガスのにおい。
自我を飲み込まんとする人の群れ。
空高くそびえる得体の知れない高層建築の集合図。
絶え間ない人とモノの移動。
生まれては消え、消えては生まれる無数の言葉。
とはいっても、ここにあるものが全て灰色の人工物ではない。
昼前の初夏の青空はこの都会にあっても健在で、都会の北には群生する高層建築を圧倒するような雄々しい姿の山々が東西に連なっていた。
その姿は、自然の威容の前では人間の文明など遊び程度にしか過ぎないということを、都会に生きる人々に語りかけているようだった。
透は大きく胸を反らし、両手をいっぱいに広げ、日の光を体中に浴びた。
「いやー、さすが都会だ。人と物と騒音と排気ガスがごったがえしてめまいがするぜ。それで彩、俺たちはこれからどこへ行くんだ?」
彩はスマートフォンを出して地図を映す。
「ここからだと、とりあえずあの山に向かって歩けばいいみたい」
「山、ねえ。まさかお目当てのロケ地ってのは、あの山の向こうにあるとか言わねえよな」
「安心して。今回の目的地は山の手の街だから」
彩はそれとなくアキトのほうを見る。
彼はハクアの隣に立ち、都会の景色を眺めていた。
「よっし。そんじゃ行くか」
透は彩の手を握り、歩き始める。
「ちょ、やめてよ。恥ずかしいって」
「いいじゃねえか。可愛い妹が迷子にならないよう、ちゃんと手を握っとかないとな」
透と彩のやりとりを見て、アキトは言う。
「僕たちも行こうか」
アキトはハクアに手を差し出し、ハクアは彼の手を握った。
彼女はアキトとちがい、透の意図に気づいていた。だからアキトの手を握った。
先頭を行く透と彩に目を向けながら、ハクアは何気なく言う。
「この街の人はね、道に迷ったらみんな山を探すの。山が見えたら方角がわかるから」
「そうなんだ。わかりやすい目印だもんね」
「この街は複雑に入り組んでいるけど、案外単純なところもあるのよ」
なるほど、とアキトはうなずく。
どうしてそんなことを知っているのかと、彼が気にすることはない。
そもそもそんな疑問は最初から彼の頭には浮かばない。
大通りを抜け、高架下のくすんだ道を進み、古い時代の危ない雰囲気を感じさせる繁華街を抜けて、山の手の街へ続く坂道を上る。
本当に山道を登っているのではと思えるほど急な坂道を上り終えたところで、目的地に到着した。
そこは異国の街並みが現代の街並みと混在する、不思議な空気の漂う場所だった。
山の斜面に沿ってつくられた街の所々に、歴史の影を感じさせる洋館がいくつか見える。いずれも洋風建築ではなく、本物の洋館だ。それを証明するように、館の前には由来を解説しているプレートが設置されている。
道行く人々は写真を撮影し、海外からの観光客と思われる団体も興味深そうに眺めながら異国の言葉を交わし合っていた。
そんな人々の中にあって、彩もまた感動を口にした。
「すごい……。本当に、ドラマで見た通りだ」
アキトは特に感動しなかったが、彩がうれしそうなので満足していた。
「ほんと、すごいよね。気のせいかもしれないけど、外国の空気を感じるよ」
「そうかぁ? 俺はアスファルトとコンクリートと排気ガスの」
黙れ、と彩は怒りをにじませた声を出す。
そんな彼らの様子を、ハクアは少し離れたところから楽しそうに眺めていた。
彩は手当たり次第に風景を写真におさめながら街を歩いていく。
彼女の行く先には、この街でも特に有名な、風見鶏をシンボルにした洋館があった。アキトたちも彩のあとに続く。
青空の下に洋館の風見鶏が見えた時、彩は歓声を上げて走り出した。
アキトは歩調を早めようとしたが、その時、ハクアが不意に立ち止まった。
「どうしたの、ハクア」
ハクアは山の上へと続く細長い石段を見上げていた。石段の入り口には鳥居が見える。
「この上にある神社には、学問の神様が祀られているの」
「そうなんだ」
「時間があれば、お参りに行きましょうか。キトの成績が良くなりますようにって」
「やめてよ。今日は遊びに来てるんだから」
アキトは不満げに言い、ハクアは小さく笑った。
その時、近くから大きな歓声と拍手が聞こえてきた。
見ると、山の斜面をくり抜いて造られた、コンサートホールのようなこじんまりとした広場に人だかりができていた。
なんだろうと思いアキトは広場へ向かう。
人々の注目を集めていたのは、二人組の曲芸師だった。
そのうちの一人は、ハクアと同じようにコードが発光していた。
彼らは音楽に合わせて色とりどりのボールを使ったパフォーマンスを披露していた。
人間の曲芸師は機械のように精密な動きでボールを操り、アンドロイドの曲芸師は人間のように熟練した技でボールを操っていた。
人間はアンドロイドの動きを超え、アンドロイドは人間の動きを超えていた。
彼らのパフォーマンスは人間とアンドロイドの境界を消し去った領域に達していた。
パフォーマンスが終わり、二人の曲芸師は恭しく頭を下げる。観客たちは惜しみない歓声と拍手を送った。
その中には、透と彩の姿もあった。しかし彩は、どこか暗い表情をして透の手を強く握っていた。
そんな彼女を見て、アキトは声をかける。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫。ちょっと、疲れただけ」
「そろそろお昼にしようか。日差しもきつくなってきたし、どこかで涼もう」
「そうだね。行ってみたいお店があるの。また、大通りのほうにもどっちゃうけど、いい?」
もちろん、とアキトはうなずいた。
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