第2話 『約束』

 七月下旬の水曜日。この日をもって透の水泳の補習は終了した。

 これは透にとって人間の尊厳の確立、あるいは復活と同義であり、祝福すべきことだった。

 この喜びを分かち合うべく透はアキトを誘い、運動公園のウォーキングコースにある東屋でささやかながら祝杯をあげた。

 二人は自販機で買った炭酸飲料の缶を開け、乾杯と声を合わせ、うまそうに喉を鳴らしながら飲んだ。

 近くにいた健康意識の高い高齢者たちは二人の姿を好奇の目で眺めていた。

 そのうちの何人かは、薄手のシャツに包まれた透の豊満な胸をこれでもかと凝視していた。


「っかーっ! うめえっ!」


 透が爽快に息を吐くと、胸も気持ちよく揺れ動いた。

 すると一人、また一人と健康的な高齢者たちは足を止め、透に視線を向けた。


 透はまったく気づいていないふりをしていた。

 反応したところで、ろくなことにはならないと経験上わかっているからだ。


 ビールを一気飲みしたおっさんのごとく透は豪快に息を吐き、空になった缶を握りつぶす。


「あー、終わった終わった。やっと終わったぜ。これでもう妙な格好で人前に出ることもねえんだ。いやーよかったよかった」


「お疲れ様。でも残念だね。彩が来れなくて」


「仕方ねえさ。陸上部の練習に加えて朗読の練習も始まったらしいからな。我が愛しき妹君は俺たちとちがって忙しいのさ」


「青春だねぇ。まあでも、僕らだって今こうして青春っぽいことしてるじゃない」


「だな。ずいぶん安上がりな青春だけど」


「青春にはね、お金にはかえられない尊い価値があるんだよ」


「それっぽいこと言うねぇ」


「前にハクアが言ってたんだ。何かの本にでも書いてたのかな」


「ふうん。ところでよ、期末の成績はどうだった? 今日、成績表もらっただろ」


「あのさ透。今日という日は透にとって記念すべき日なんだよ。なのにどうしてそういう」


「うだうだ言ってねえでさっさと見せろ」


「やだ」


 一瞬の沈黙のあと、透はアキトのそばに置いてある通学鞄を奪い取ろうと襲いかかった。

 アキトは必死に抵抗するも、日頃から運動公園で鍛えている透が相手では無意味だった。

 荒野の飢狼とそれに捕食される野兎のごとき悲劇的な攻防の後、アキトは鞄を奪われた。


「あー、もう。わかったよ。ちゃんと見せるから鞄かえして」


 アキトは鞄からタブレットを取り出し、成績表を表示した。


「えっと、どれどれ……。うっわ、お前、マジか?」


「そういうリアクション、冗談でもよくないと思うよ」


「冗談なのはお前の成績だっての。特進クラスでこれはやばいだろ。前の総合順位から百番以上も落ちてるじゃねえか」


「全然勉強しなかったからね。なんていうかさ、今回はやる気でなかったんだよ」


「お前なあ……。こりゃあれだ。週末に都会行って遊んでる場合じゃねえな」


「なんでそうなるんだよ。僕はね、都会へ遊びに行くことを励みにこの試験勉強の日々をがんばって乗り越えてきたんだよ」


「どの口が言ってんだ」


「まあまあ。細かいことは気にしないで」


「ったく。わかった。今回は見逃してやる。彩もお前と出かけるのを楽しみにしてたからな。可愛い妹をがっかりさせるわけにはいかねえ」


「さすがシスコン。妹思いのいいお兄ちゃんだね」


「そのぶん夏休み中にしっかり勉強みてやるからな」


「なんでそんなむごいことを」


「俺が妹思いのシスコンお兄ちゃんだからだ」


「理由になってないって」


 アキトはテーブルに突っ伏せる。

 透は「まあがんばれ」と声をかけ、タブレットでアキトの頭を軽くたたいた。


「辛い時は楽しいことを考えろ。俺だって都会へ行くのは楽しみなんだ。それを励みにこのクソみたいな補習を耐えてきたんだぜ」


「あ、そうだ。そのことなんだけどさ、ハクアも一緒に連れてっていいかな」


「そいつはまた、どうしてだ?」


「ほら、彩が都会へ行きたいって言ったのって、少し前までやってたドラマのロケ地を見に行くからでしょ。前にそのことをハクアに話したら、ハクアもその場所のこと知ってるみたいでさ、自分もいつか行ってみたいって言ってたんだ」


「なるほど。お前らしいな」


 透は小さく息を吐き、軽く頭を振る。


「わかった。俺は反対はしない。でも彩が反対したら、俺も反対する。それでいいか」


「ありがとう。彩には僕から話しておくよ」


「お前もほんと物好きだよな。アンドロイドと一緒に出かけたいなんて」


「そうかな。好きな人と一緒にいたいって思うのは、普通のことじゃない?」


 人じゃねえだろ。


 透はその言葉をなんとか押しとどめた。


「……そんなお前だから、俺みたいなのとも一緒にいられるんだろうな」


 透は表情をゆるめ、暗くなり始めた空を見上げた。

 ほどなくして、午後六時を知らせるサイレンが夕空に響いた。



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