第3話 『本当のこと』
秋が始まった頃から、アンの様子がおかしくなった。
スリープから起動への切り替えがうまくいかなくなったり、起動中に何の前触れもなく一時停止状態になったりすることがたびたび起こった。
料理中に突然停止し、炒めていた食材から煙が上がって火災報知器が作動したこともあった。
奇妙な行動も見られるようになった。
日が昇ってから沈むまで家中の窓ガラスをひたすら拭き続けていたこともあったし、庭に水をまいている時に出来た虹をじっと見つめ続けていたこともあった。
アンは明らかに異常をきたしていた。
しかしアキトはアンを修理には出さなかった。
一度アンを手放してしまうと、二度と戻ってこないという予感があったからだ。
実際のところ、アンはすでに旧型のアンドロイドとなっていたため、修理に必要なパーツはほとんど流通していなかった。なので修理をするとなると相当な手間と費用がかかる。
それなら新しいアンドロイドに買い替えた方が長期的に見ると安上がりだ。姿形も完全に同じものが再現できるし、AIの移植も簡単にできる。
しかし、アキトが必要としているのは、今のアンだった。
物心ついた時から今までずっと一緒に暮らしてきた、アンなのだ。
とはいえ、アキトの所持金では修理費を工面できない。
父親に頼むという考えはなかった。
いつものように「あっはっは」と笑われるだけだとわかっていたからだ。
そんなわけで、アキトはアンを手離さなかった。
眠る時や学校に行く時などはアンの主電源を切り、彼女のそばにいられる時だけ起動するようにした。家事はすべてアキトがこなし、あまった時間はアンと一緒に過ごした。
夕食の席で今日一日のことを話したり、母親の遺品と思われる古い映画を二人で見たり、段ボールに詰め込まれた文庫本を読んだりして、静かに時を過ごした。
本来なら人間の世話をするアンドロイドを、人間が世話をしている。
彼らの生活は、じつに奇妙なものだった。
けれどそれも、人間とアンドロイドの絆の形なのかもしれない。
アキトはアンと一緒にいられることに、幸せを感じていたのだから。
やがてアキトは小学校を卒業した。
卒業式の日、父親は現れず、アンも家で眠ったままだった。
家に帰ってからアキトはアンを目覚めさせ、普段通りに過ごした。
その夜、アキトは眠る前にアンの主電源を切ろうとした。
アキトがアンにふれたとき、アンは「まって」と言ってアキトの顔を見つめた。
「アキト」
彼女は彼の名前を口にした。
様づけではなく、親しみを込めて、その名をよんだ。
「アキト。私は、あなたを、愛しています」
その声には心のぬくもりがあった。
その顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。
やっぱり、とアキトは思った。
やっぱりアンには、心があるじゃないか。
アキトはアンに抱き着き、彼女の顔を見上げて言った。
「僕もだよ。僕もアンを愛してる。ずっと、ずっと、いつまでも」
優しい匂いをアキトは感じた。
アンがいつも使っている香水の匂いだ。
その優しい匂いと、交わし合った「愛している」という言葉のぬくもりを感じながら、彼は彼女の胸のなかで眠りについた。
幸せに満ちた眠りだった。
その夜、アキトは夢を見た。
翌朝の目覚めと共に忘れてしまったが、とても幸せな夢だったという記憶だけは確かに残った、そんな夢だった。
アキトが目を覚ました時、アンはもう、アンではなくなっていた。
リビングのソファに座ったまま、彼女は目覚めを失った眠りについていた。
どんなにアキトが呼びかけても、アンは目を覚まさなかった。
やがてアキトは狂ったようにアンの体を揺さぶった。
すると、重くて冷たい金属音が響き、アンの頭部はソファに転がり落ちた。
アキトはアンの体をつかんだままアンの頭部があった空間をじっと見つめていた。
鍵が外れる音が響き、玄関のドアが開く音が聞こえた。
誰かの足音がゆっくりと近づいてくる。
しかしアキトには何も聞こえなかった。
彼の心は停止し、意識と肉体は完全に乖離していた。
ここが現実なのか夢なのか、考えることすら彼にはできなかった。
愛している。
その言葉が、どこまでもどこまでも深い場所へと響き、消えた。
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