第2話 『誰のためにあるのだろう』
アキトが小学生になってから、父親はほとんど家に帰らなくなった。
仕事が忙しくなったからだと教えられたが、アキトは父親がどんな仕事をしているのか知らない。興味もない。
この頃になると、アキトもうすうすと感づいていた。
父親が自分にまったく興味を持っていないことに。
もっとも、アキトにとってはどうでもいいことだった。
小学校では友達もできたし、家にはいつもアンがいてくれた。
それだけで十分だった。
家にアンドロイドしかいない、というのは当時の世間一般的な感覚ではかなり特異なことだった。しかし、アキトに奇異な視線が向けられることはほとんどなかった。
彼が暮らしている街は『人間とアンドロイドが共生する社会』のモデルタウンに指定されており、政府の様々な活動の結果、日常生活のなかにアンドロイドの姿がごく普通に見られていたからだ。
それでも運動会や学芸会といった学校行事にアンが保護者として出席した時は、さすがに奇異な視線を向けられた。
しかし、当の本人であるアキトはまったく気にしていなかった。
というか気づいてすらいなかった。
アンも人々の心が生み出す不穏な空気を感じることはできなかった。
人体に有害なガスを感知する機能はあれども、そういった空気を察知する機能はまだ開発されていない。
そうした空気は、彼らに気づかれず少しずつ蓄積され、変質し、危険度を増していった。
そしてそれは、ある事件を引き起こした。
アキトが小学校最終学年の時のこと。
一学期の終わりが近づいた、初夏のある日。
その日は授業参観が行われていた。アンは人間の保護者に混じって出席していた。
この頃になるともはやそれは日常化した光景であり、アンにあいさつをする保護者も少なくなかった。
授業参観は無事終了し、アンは教室から退室していく保護者の列の最後尾を歩いていた。
その時、クラスメイトの一人がアンのもとへ走り、水筒のお茶を彼女に浴びせかけた。
そのクラスメイトはアキトの友達だった。
それもかなり仲が良く、互いの家に遊びにいくことも多かった。
もちろん、アンとも顔見知りである。
なのになぜ、そんなことをしたのか。
本人にもうまく理解できていなかった。
アキトが人間である自分よりも、アンドロイドであるアンと一緒にいる時のほうが楽しそうにしていることに、日ごろから不満や嫉妬を抱いていたのかもしれない。
いつからか、彼女は当時のことをそう振り返るようになった。
さて、お茶を浴びせかけられたアンだが、周囲の驚きをよそにまったくの無反応だった。
彼女のAIはロボット三原則にのっとり、これが特別な行動を要する事態ではないと判断を下していた。もっとも、お茶のにおいが周囲の人に不快感を与えるかもしれないし、汚れた床は速やかに掃除しなければいけない。
次の動作へ移るべく彼女の思考が巡った、その時。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
アキトの叫びが、教室の空気を震わせた。
直後、アキトはクラスメイトに飛びかかり、思い切り押し倒した。
たしかにアンはアンドロイドだ。
だが、アキトにとっては大切な家族なのだ。
家族にこんなことをされて、黙っていられるわけがない。
アキトは怒りに身を任せ、拳を振り上げた。
その拳を、アンは強くつかんだ。
「いけません。アキト様」
「だってアンが、アンが!」
「問題ありません。私の機能に問題が生じるほどの損傷は受けておりません」
「そういうことじゃない!」
アキトはアンの手を振り払おうとする。
アンはアキトの手をしっかりと握っていた。
彼の手が、人間を傷つけないように。
「アキト様。私はアンドロイドです」
そう話すアンには表情がなく、口調もじつに機械的だった。
彼女の言葉はアキトの怒りを瞬く間に消し去り、氷の刃で切り裂かれたかのような痛みと冷たさを彼の心に刻んだ。
気がつけば、アキトはアンに向かって拳をぶつけていた。
何度も何度もぶつけていた。
顔を真っ赤にして、大声で泣きわめきながら。
かつてないほどに、心を震わせて。
幸いなことにアキトの学級担任は人間とアンドロイドの関係性について開明的な人物だったため、この事件はうまく処理され、解決した。
相手のクラスメイトの両親もアキトの家庭環境はよく知っていたし、非は自分達にあるとしてアキトとアンに謝った。
一方で、アキトの父親はこの件には一切かかわらなかった。
ともかくも、この件がすんだあと、アキトは今まで通りに日々を過ごしていた。
クラスメイトの方はいろいろと気にしているらしく、その後の夏休みの間一度たりともアキトに顔を合わせなかった。
アキトは少し寂しかったが、相手の気持ちを考えて、そっとしておくことにした。
そのため、彼女と一緒に行く予定だった海辺の都会での花火大会は、アンと二人だけで行くことになった。
それはそれでアキトにとって楽しい夏の思い出になった。
平凡だが平穏な日々だった。
かわりばえのない日々だが、一日一日があたたかく、愛おしかった。
そんな時間がいつまでも続くものだと、アキトは心の底から信じていた。
願っていた。
しかしそれは、何も根拠がない楽観的で希望的な願望でしかなった。
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