『ハーモナイズ』

青山 樹

序章 「つくりもの」

第1話 『そこにあると信じているから』

 物心がついた頃から、アキトのそばにはアンドロイドがいた。


 しかしアキトには、それがアンドロイドであることを理解できなかった。

 それは人間そっくりの姿をしていたため、まだ幼かった彼には人間とのちがいがわからなかったのだ。


 そのアンドロイドは、若い女性の姿をしていた。

 髪は栗色のふわりとしたショートボブで、顔の輪郭には少女的なやわらかさを残しつつも、目鼻立ちはすっきりと整っていて大人びた雰囲気を感じさせた。パンツスタイルのスーツを着用し、いかなる時も落ち着いた姿勢を崩さないその姿は、大人であっても彼女が人間であるかどうかの判断を難しくさせた。


 しかし彼女の両手の甲や首筋を見れば、静かに発光している紋様が見えるだろう。

 それはアンドロイドが起動中であることを示す『コード』と呼ばれるものだった。


「ほぉら、アキト。よく見てごらん。手や首に光ってる模様があるだろう。これは『コード』といってね、これが人間じゃなくてアンドロイドだっていう目印なんだ」


 アキトの父親はアンドロイドの『コード』を指さして言った。

 しかし当時まだ三歳だったアキトには、父親の言葉の意味がよくわからなかった。


「じゃあ、もようがひかってたら、にんげんもあんどろいどなの?」


「んん? あはは。お前は面白い奴だなあ。あっはっはっはっは」


 父親は楽しそうに笑い、アキトは不思議そうに首をかしげる。

 アンドロイドは、そんな二人の様子を無表情のまま見つめていた。

 機能上、アンドロイドも人間のように表情をつくることはできる。しかしアキトの父親は表情をつくらないようプログラムを設定していた。


 もちろんアキトはそのことを知らない。


 それでもアキトはそのアンドロイドにいつも笑いかけていた。

 一切の裏表なく、彼は彼の心をアンドロイドに向けていた。

 人間とアンドロイドの区別など、彼には存在しないのだから。


 アキトの父親は、そのアンドロイドを「アン」と呼んでいた。

 その理由は、アンドロイドだからアンという、あまりにも安直なものだった。

 アキトもアンと呼んでいた。それはただ純粋に、父親がアンと呼んでいたからだ。

 父親が仕事に出ている間、アンは家事をこなし、アキトの世話をした。

 この家に暮らしている人間はアキトと父親しかいないので、アキトはアンと二人きりで過ごしていた。

 アンがアキトに危害を加えることは、原則としてありえない。

 すべてのアンドロイドのAIには『ロボット三原則』が刻み込まれているからだ。


 ロボットは人間に危害を加えてはならない。

 ロボットは人間に危害が及ぶのを見過ごしてはならない。

 以上の二つに反しない限り、ロボットは自身を守らなければならない。


 幼少期のアキトは、アンの保護の下で安らかに、健やかに育っていった。


 自分の母親について、アキトはほとんど知らない。

 父親から教えられたことは、アキトが生まれた日に死んだということだけだった。

 彼が母親の話をしている時、いつもアキトは異様な雰囲気を感じていた。

 なのでアキトは自分から母親についてふれないようになった。

 そもそも、アキトにとって母親がいないということはあまり重要なことではない。


 アンがいつもそばにいるからだ。


 毎日食事を用意し、家をきれいに掃除して、遊び相手にもなってくれる。

 一緒にお風呂にも入ってくれるし、眠る時も添い寝をしてくれたり、絵本を読み聞かせてくれる。

 母親に求められるであろう諸々の役割を、アンは十分に担っていた。


 しかしアンはアキトの母親ではない。

 人間ですらない。

 アンドロイドだ。


 どれほど姿形が似ていても、役割を全うできても、その事実は決して変わらない。


 それを意識してのことだろうか、父親はアキトにアンを「アン」と呼ぶよう言い聞かせ、アンにはアキトのことを「アキト様」と呼ぶよう設定していた。


「いいかい、アキト。アンドロイドは人間のためにあるんだ。だから一般的に、人間の方がアンドロイドよりも立場は上なんだ。人間のほうがえらいんだよ」


「だれが、そんなことをきめたの? どうしてそんなことがきまったの?」


「あっはっは。お前は本当に面白い奴だなあ。あっはっはっはっは」


 父親は笑うばかりで、アキトの質問に答えなかった。

 アキトはいまひとつ納得できなかったが、父親の言う通りにした。

 彼にとって呼び方や呼ばれ方はどうでもいいことだった。

 その頃のアキトは、あることでアンに不満を感じていたからだ。

 それは、アンが一度も笑顔を見せてくれないことだった。


 いつだってアンには表情がなく、声にも感情が感じられない。

 アキトが笑わせようとしたり驚かせようとしたりしても、文字通り機械的な反応がかえってくるだけだ。

 そうなるよう父親がアンのプログラムを設定しているのだが、当時のアキトには知る由もないことだった。


 アキトが小学校入学を控えた、とある春の日のこと。

 アキトはアンにどうして笑わないのかをたずねた。

 プログラム云々についてはアキトに話さないよう設定されていたため、アンは少し思考をめぐらせてから答えた。


「私はアンドロイドです。人間とはちがい、心を持っていません。ですので、笑うこともありません」


「じゃあ、どうしてあんどろいどには、こころがないの?」


「アンドロイドが機械だからです。機械に心は存在しません」


「どうしてきかいには、こころがないの?」


「それは……、それは、そういうものだからです」


 アキトの単純な質問に、アンのAIは適切な答えを導き出せなかった。

 アンが困っていると感じたアキトは、ちがう質問をすることにした。


「にんげんには、こころがあるんでしょ?」


「はい」


「ぼくはにんげんだから、ぼくにもこころはあるんだよね?」


「はい。アキト様は人間ですので、心が存在します」


「じゃあ、ぼくのこころは、ぼくのどこにあるの?」


「それは……」


 アンは言葉を詰まらせる。

 彼女のAIは答えを求め、思考の迷宮を光の速さで駆け巡った。

 べつにアキトはアンを困らせたいわけではない。

 ただ、純粋に、知りたいだけなのだ。


 心がどこにあるのかを。


 心のありかがわかれば、アンの心を見つけられるとアキトは思ったのだ。


「心は、アキト様があると思う場所にあります。頭の中とか、胸の奥とか……」


 アンはアキトの頭をそっとなで、鼓動を感じるように彼の胸に手をあてた。

 アキトは顔をほころばせ、アンの手に自分の手を重ねた。


「じゃあ、アンにもこころはあるよ。ぼくはアンにこころがあるって、おもってるから。だからアンにもこころはあるよ。ぼくとおなじだよ」


 アンは何も答えない。今の彼の言葉がうまく処理できなかったのだろう。

 アキトはアンに抱きつき、彼女のぬくもりと柔らかさを感じた。

 人体の感触や人肌の温度を再現したつくりものにすぎないが、アキトにとっては人間のそれと何も変わらない。

 アンの体からはほのかな香水の匂いがした。

 青空の下の花園を思わせる、優しい匂いだ。


 この時、アキトは幼いながらも確信していた。


 アンには心がある。


 自分と同じように、心があるのだと。


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