第4話 グリコ森永事件

「お疲れさん」

 府警記者クラブ読売ボックスに戻った加藤は、ため息をついた。

「森永のどの工場でも製品の製造がストップ。全国のどの店舗からも森永の製品は全部撤去ですがな。このまま長引けば、下請け工場の倒産とかが出てくるんと違いまっか」

「それでや」キャップがソファに座って煙草をふかす。「とうとう、警察が重い腰を上げたでえ。〝情報開示〟や」

 十月十一日、大阪府警捜査一課会議室……

捜査一課はマスコミを大勢集めて、机の上のラジカセにテープを差し込んだ。

マスコミの録音用のテープレコーダーが、ラジカセの前に並ぶ。

「今回、犯人逮捕のために、江崎グリコ及び森永製菓に対して、現金持参の要求があったときに、現場を指示してきたときの録音した声を公開します」

 鈴木部長はまくしたてた。

「まずは、四月二十四日に、江崎グリコにかかってきた電話です」

 ラジカセのスイッチを押す。


 名神高速道路を 85キロで 吹田のサービスエリアへ走れ……

 自動販売機の上に手紙がある……

 女性の声であった。

「女の声だ!」

「犯人グループの中に、女がおったんか!」

「そして、これが九月十八日に森永にかかってきた声です」


 レストランから1号線を南へ 1500メートル 行ったところにある……

 りっきょうの階段の下の 空き缶の中……


 子供(男児)の声であった。

「今度は、子供の声だ!」

「犯人グループの中には子供もおったんか!」

 マスコミたちから驚きの声が上がる。

 当時、警察もマスコミも、想定として、犯人グループの中には三十代~四十代の女性と、ひとりの男児(子供)と、考えてきた。だが、NHKの取材で、音響研究所で明らかになった事実を書くと、女性は確かに、三十代~四十代の女性がいた。が、もうひとり、別人の女性がいて。それは十代の女子学生とのこと。

 また、男児も、当初は、ひとりの男児だけ。と、思われていた。

 しかし、NHKの取材で、十代以下の男児ひとりと、もうひとり、言語障害の男児がいたことが明らかになった。実は、四人目の子供(男児)もいたらしいが。ここでは話が複雑になるために、触れないでおく。

 女学生と男児は、現在、2020年も過ぎ、数年後のことであれば、現在は三十代から四十代であろうか。犯人グループかい人21面相たちは七十代……言語障害の男児以外は、本当に、事件後も、日本にいたのだろうか?

「これからは情報を隠すようなことはせえへん! 情報はどんどん開示していく予定やから。君たちも、犯人逮捕に協力をしてくれ」鈴木部長は頭を下げる。

 十月十五日。警察はあらたな犯人グループのひとりとみられる映像を公開した。

 例の、巨人軍の野球帽の、短いパンチパーマの男である。

 ……今度こそ警察も本気や! 事件解決に向けて、警察も本気になったんや!

 逮捕に向けて勝負にでるんや。これで、犯人グループの逮捕や!

 加藤は興奮した。拳に力が入る。手のひらをふいた。汗びっしょりや。

 十月二十五日。大阪府警捜査一課の会議室に、鈴木部長らは在阪社会部の部長を集めた。

 ハの字に椅子に座る社会部部長たちに、鈴木邦芳刑事部長らは、頭を深く下げた。

「お願いします。どうか、〝報道協定〟を結んではいただけないでしょうか!」

「報道協定……って。捜査で人命が危ないときの決まりでしょう?」

「マスコミかて、報道の自由が……」

「わかっています。ですが、報道によって我々の行動が犯人たちに見透かされているのも事実。〝報道協定〟を結べば、警察は大規模な捜査態勢を敷き、犯人の現行犯逮捕のチャンスも望めます」

「……国民への情報公開はどうなるんですか!」

「そこをなんとか! 実際、報道によって、警察やマスコミの機密が、犯人グループに駄々洩れしていることは事実です。ここは、犯人逮捕のために、どうか〝報道協定〟をお願いします。どうしても、逮捕せねばならん相手なんです!」

 もっと、頭を下げる警察の幹部たち。

 ……せやけど。

 だが、結局は、マスコミは警察と〝報道協定〟を結んだ。

 吉山利嗣は反発した。

「〝報道協定〟結んだかて、犯人が逮捕できるとは限らんでしょう! なら、うち(毎日新聞)だけでも、報道を! 今なら、〝独り勝ち〟でっせ!」

「あかん! 馬鹿言うな。この事件はおわらせねばならんがじゃ!」

「……くそっ。これじゃあ……報道の自殺だ」

 吉山利嗣が、顔面蒼白になった。

 

「報道協定かあ」

 居酒屋で、夕飯を食いながら、加藤の部下はつぶやくようにいった。

「警察もやっと、頭を下げてきた。これは、警察も勝負かけるってことですよね?」

「まあ、そうだろうなあ。いよいよ、本気で犯人逮捕を狙ろうとる」

「加藤さんはいいんですか? あれだけこの事件を調べ上げてきたのに…」

「俺の記事なんざ、どうでもええよ。それより、やはりここは〝犯人逮捕〟に協力するべきやろ。もう、あんな卑劣な犯人グループは捕まえなきゃいかんがな」

「例の〝野球帽の男〟の映像もばんばんテレビで流れてはりますねえ」

「それだけ、警察も、本気や、いうことやろ」

 ……頼むでえ、辻さん!

 加藤はきっとした眼で、テレビ画面を睨んだ。ホンマ、頼むでえ。犯人を捕まえてくれ!


 十一月七日。

 森永製菓が、九割の減産に追い込まれる中、今度は、ハウス食品に1億円を求める脅迫状が届く。『グリコ・森永事件』の犯人グループだった。

 (略)

 ビデオの男 も テープの声も わしらちゃう

 わしらは つかまらへん

 (略)ハウスのカレー は からいで

  …… かい人21面相


 脅迫状には、ハウス食品の社長をはじめ総務部長や監査室長などの名前とともに、青酸ソーダが混入されたハウス食品の商品と、江崎グリコの社長が誘拐されたときの音声テープが同封されていた。

「ん?! 犯人が指定してきたレストラン………近くに構想道路のインターがあるやないか」

 辻は気づいた。地図をじっと見る。

「ホンマや」

「ホンマですねえ。これは、犯人グループは間違いなく、高速道路を使ってきますね」

「よし! 捜査部隊を編成する! まずは現金持参人(マルケイ)と並行する『身辺警護班』。次に、犯人の指示にいち早く対応して現場の情報を本部にあげる『先行班』。今回は先行班より、さらに先回りして動く『遊撃班』を設けて、犯人との遭遇率を上げる!」

 このとき、捜査一課の特殊班は、高速道路の下道を走る班もつくり、幾重にも包囲網を広げた。………いよいよだ。待っとけよ、〝F(キツネ目の男)〟……必ず逮捕してやる!

 そして、全捜査員が集まる中、会議室で、本部長ははっぱをかけた。

「森永に続いて、今度はハウス食品や! 犯人グループは一億円を要求してきた。今度も、犯人グループは捜査員を徹底的に振り回してくるだろう。だが、要求通りに動き、スピード感をもって対処してほしい! 犯人たちはライフルをもっているらしい。最後は銃撃戦となるやもしれない。いいか。今度こそ、犯人一味の逮捕だ! 気合い入れていけ。人間、いつかは死ぬんや。きばれ、必ず、骨は拾ったる! 犯人グループを一網打尽にするんや!」

 ……はい!

 これでもう言い訳はできへん。必ず、犯人逮捕しかないでえ!


 現金受け渡し前日の合同会議で、大阪府警の鈴木邦芳本部長は「脅迫状では大阪から兵庫までの地図を用意しろとある。そのため犯人は高速道路を使ってくることも想定されるが、高速道路での捜査は我々大阪府警が単独で行う! よって、高速道路の50メートル以内に入らないでもらいたい」と宣言。続いて、

「現金輸送車は大阪を起点とするうえに護衛は大阪府警の車両が固めるため、地元警察の捜査力を必要としないと思われるからです! ……よろしいですか。兵庫県警さん?」

「……うう。まあ。いいでしょう。大阪さんも捜査員を総動員して動くというのですから、今度こそ、犯人逮捕でいけると信じます」

「……」滋賀県警の本部長・山本昌二だけは無言で、くしゃっとした顔をした。

 だが、異議はなし。

 いよいよ、高速道路上での、大阪府警VS.かい人21面相……との戦いである。

 異議はない。異議はない、が。……滋賀県警では、捜査一課の課長・今江明弘が、山本本部長に食って掛かっているところだった。

「我々も現場周辺で張り込むべきです! 万が一、犯人がこっち(滋賀県)の方に入ってきて、大阪がミスでもしたら……」

「わかっとる! 我々の管轄は我々で守らねばならん。よそ者にとやかくいわれる筋合いはない!」

「でしたら……!」

「そやから、大阪には見つからんように、君ら捜査一課を張り込ませる。これは滋賀県警でも、我々と張り込む捜査員しか知らないトップシークレットとして扱ってくれ!」

「………」今江は蒼白な顔で、頷く。「承知致しました」


 一九八四年十一月十四日。

 ハウス食品本社の前で、辻が部下にはっぱをかけた。

 捜査のために、当時、数台しかないデジタルの無線機を用意したのだった。

「デジタル無線機なら盗聴の危険もない。いいか、今度こそ、犯人逮捕、犯人グループの一網打尽やでえ!」


 現金受け渡しのこの日、大阪府警の捜査本部は報道協定のもと、捜査情報を随時開示するという面子をかけた手段に出た。捜査一課の会議室にマスコミの記者をすし詰めにして、随時、捜査情報を伝えるのである。

「18時10分、現金一億円を積んだ現金輸送車がハウス食品本社を出発しました……」

 オオオォォォ-おおっ!

「いよいよ、はじまったか!」

 加藤は興奮気味にいう。すると、吉山が、

「なんやねんな、これは……。報道協定も気に食わんが。こんな形で、捜査状況を一同で聞くとは思わんかった。これじゃあ、仲良しクラブや」

「しゃあないやろ? もう、全国に毒をまくような犯人グループは捕まえにゃあならんがじゃ。犯人逮捕がならなければ、国民の安全もないやろ」

「せやけどなあ」

加藤のみぞおちを占めていた漠然たる不安が驚異的な形を取り始めた。加藤の本能すべてに警告の赤いランプがついていた。「しゃああないやろ……犯人逮捕が先決や」加藤は冷静に答えた。

「犯人逮捕、それだけや!」加藤の中の緊張がどんどん高まって、ついには肩や首にまで及んだが、加藤は冷静な声を保った。

大阪府警がこちらの知りたいことを話してくれるまでは、刑事たちを怒らせても無駄なだけだ。

「ペテンだ!」吉井がわめいた。

吉井は無理やり空気をのみ込んだ。ほとんど呼吸ができなかった。「あのくだらない情報公開を聞いていたかい?」吉井は黙り込んだ。もう続けられなかった。ぜいぜいするほど荒い呼吸をしていた。

「ちゃんと聞いていましたよ」吉井の目をまっすぐ見て鈴木は言った。「あなたは?」



 20時20分。ハウス食品の総務部長宅にかけられたテープの声(男児)が公表された。


 きょうとに向かって 一号せんを2キロ…

 バスてい じょうなんぐうの ベンチの こしかけのうら…


 ベンチの裏の指示書を読み上げる。それは、完全に、捜査の裏をかかれた内容であった。

 高速を、名古屋方面に行け。草津、大津サービスエリア方面へ向かえ。

 〝大阪・兵庫方面の地図を用意しておけ〟、それは嘘だった。いや、そちら方面に顔を向かわせておいて、実は、名古屋や滋賀方面へ……という一種の謀略であった。

 ……騙された! 滋賀方面にはアナログの無線しかない。これでは丸大食品のときの二の舞だっ!

 その頃、極秘で大津サービスエリアに張り込んでいた滋賀県警の捜査員(大野三佐雄さん・元・滋賀県警捜査一課)が、犯人グループに肉薄していた。例の〝F(キツネ目の男)〟らしい男が、ベンチに座り、ベンチの下に何かの紙(指示書?)を張り付けているところだった。元・滋賀県警捜査一課の田口肇(はじめ)さんも目撃したという。

 ……この男。怪し過ぎるでえ! 犯人に間違いない!

 無線で、「犯人らしい男が、指示書と思われるものをベンチの下に貼っています。職質していいでっか?!」

「あかん! 我々、滋賀県警が出ていいのは、大阪府警から支援要請があったときのみだ!」

「……せやけど! 完全に犯人です!」

「あかん! あかんがな!」

 捜査は大阪府警が単独でやる……この取り決めが、犯人たちを助けた。

 いままで、滋賀県警は捜査にタッチしていない、だの、大津サービスエリアから、草津パーキングエリア、そこから進んだ高速道路の白い布の下の道で、警察官が不審車両に職質して、逃げられて、失態を演じたように語られてきた。

 だが、事実は、滋賀県警こそ、誰よりも犯人グループに肉薄していたのだった。

 大阪府警単独捜査ではなく、近隣所轄警察との合同捜査、広域捜査であったなら……

 歴史に、IF(もしも…)は不謹慎だが。もしそうなら、犯人逮捕もあり得た。

だが、犯人グループは夜の暗闇に守られた。

やがて、遊撃班が、大津サービスエリアに到着した。

 男女の捜査員が、覆面パトカーから降りる。

そして、チューリップ帽子に、黒系のジャージにズボン姿の、サングラスの〝F(キツネ目の男)〟が電話ボックスにいるのを発見した。

 電話の受話器をもってはいるが、何も話してはいない。……! 驚き、次の瞬間、

 捜査員(大阪府警捜査一課特殊班の〝遊撃班〟)松田大海(ひろみ)さんは、カップル役の女性捜査員(徳田みどり・婦警)に抱きついた。……NHKのドラマでは女優の田丸麻紀さんが演じた役だ。

「いた。〝F(キツネ目の男)〟や」耳元で囁くようにいう。

「何処ですか?」

「……電話ボックス……見るな!」

「どないします? 職質しますか?」

「そうしたいが。まずは上にきいてみな。だが、これで二回目の現場や。もう、レポ役(連絡係)でもなんでもない。〝F〟は、犯人グループの一人で間違いない」

「なら、見張っときますから……本部に職質の許可をきいてきてください」

「わかった……もうこれが最後の逮捕へのチャンスかも知れへん」

 だが、職質の許可は遂に、おりなかった。

 捜査員の捜査は、〝徹底追尾〟〝一網打尽〟……でしかない。

「あかん! しらばっくれられたらどないする? 捜査は〝徹底追尾〟〝一網打尽〟や! そのために訓練しとったんやろ?! ちゃうか!」

 そうこうしている間に、〝F(キツネ目の男)〟はまたも怪しい動きをする。

 逃げ出して、男性捜査員が追うが、〝F(キツネ目の男)〟は捜査員をまいて、夜の暗闇に消えた。逃げられた! こうして、二度と、〝F(キツネ目の男)〟は大阪府警捜査一課特殊班の前に、姿を現わすことはなかった。

 ……くそっ! 逃げられた!

 だが、まだ犯人グループからの指示がある。

 大津サービスエリアから、草津パーキングエリアから数キロ程行ったフェンスに、白い布が括り付けてある。その下の空き缶の中に、次の指示書がある、という。

〝フェンスを乗り越えようとする不審な男を発見!〟

〝どうします? 逮捕しますか?〟

〝あかん! 大阪さんの支援要請がきてからや〟

〝せやけど。間違いなく犯人です〟

 ……大阪府警は犯人グループに撒かれたんか? はよう、こちら(滋賀県警)を頼ってくれ! わしらはここにおるでえ! 絶望のマントラ。滋賀県警の今江は車内で舌打ちした。

「駄目や。このまま、移動するで。白い布もあるかも知れんが。そのまま直進や。これは滋賀県警のトップシークレットや! 誰にも知られたらあかんのや!」

 広域捜査が実現していれば……大阪府警単独捜査でなければ……

 いまさら遅いが。悔やまれる。

 のちに、晩年の元・大阪府警本部長・四方修さんは、NHKの証言で、

「原則は一網打尽。徹底追尾……ということでした。いくら、怪しい男(〝F(キツネ目の男)〟)がいたからって。職質して任意同行したら、犯人グループにこちらの(警察の)手の内を見せるようなもんやし。指示書にしても、発見したときには、もうすでに別の場所に貼られているわけやし。〝指示書〟を貼ってるのを現行犯で捕まえたらあれやったけど…」

「しかし、滋賀県警の捜査一課の刑事さん(大野三佐雄さん)が貼っている犯人を目撃した、と……」NHKの取材班が尋ねる。と、

「え? それホンマ? それは……嘘やわあ。犯人が〝指示書〟を貼っているのを発見したのに、『大阪府警に悪いから…』とかいって逮捕しないわけないでしょ? 嘘いっちゃいけんですよ。それが事実なら、警察官の、刑事の、怠慢……って話でしょ?」

 どこまで、四方修さんの証言は本当で、どこからが嘘なのか。時の流れが、記憶をあいまいにさせたのか? もはや、過去に戻る方法はない。一秒も過去には戻れない。

捜査班は白い布を発見するが、いくら探しても空き缶はなかった。

 捜査は手詰まりとなった。……捜査会議の開示はあっけなく終わった。

 記者たちは文句を言い、騒ぎ出した。だが、仕方のないことだ。騒いでも後の祭り、だ。

夜の闇が、すべてを包む。そのころ、高速道路の白い布のフェンスの下道に、怪しげな不審車両が一台あった。

 夜中なのに、ライトもつけていない。

 情報を受けていない滋賀警察のパトカーから、制服の警察官二人が懐中電灯を照らして、職質しようと近づいた。

「すいません。ちょっといいですか?」

 すると、その不審車両は、急発進をした。これが、〝F(キツネ目の男)〟が乗った車両であったのだ。だが、情報を何も聞いていないいち警察官が、わかるわけもない。

 不審車両は猛スピードで走り抜ける。パトカーも追うが、追い詰めて、事故を起こされては困る、と、追尾する。が、逃げられた。

 その車両は、翌日に、商店街で乗り捨てられているのが発見された。

 車内には、青酸ソーダや、チューリップ帽、盗聴用の無線機など……まさに、〝F(キツネ目の男)〟か、かい人21面相のもので間違いなかった。車は盗難車であったという。

 寸でのところで、逃げられた。逃走を許した。

 ……警察間の連係ミスとはいえ、こうして、警察は犯人グループに、敗れた。

 だが、警察は敗れたものの、犯人グループはそうとうにビビったに違いない。

 自分たちは、運よく逮捕されなかった。だが、職質で逮捕寸前だった。

 いままでは運が良すぎた。だが、いつまでもやっていたら、すぐに運に見放されて、いずれは、逮捕され、豚箱行き、である。

 もうやめどき、である。

 恐ろしく頭の切れるリーダー格の男はそう判断したに、違いない。

〝F(キツネ目の男)〟も、それに賛成しただろう。

 警察との攻防戦は、刑務所の塀の上をよろよろ歩くようなものだ。

 油断して、バランスを崩したら、真っ逆さまに、塀の中、である。

『グリコ・森永事件』の犯人……その容疑で捕まったら、日本中からバッシングを受け、極悪人、扱いを受ける。もう、日本では暮らせなくなるし、親戚も、家族の人生もおわる。

 一説では、一円も手にしていない、ということだった。

 が、そんなわけはない。

 裏取引で、数千万円単位で、合計一億~二億円くらいは稼いだだろう。株価操作での利益の分も足せば、三億円くらいか。目標額の十三億には、遠く及ばないが。もう、いいだろう。

 こうして、『グリコ・森永事件』の犯人グループは、これを境に、動きをとめ、闇に身を隠すように、存在感を消した。

 犯人グループは、この後、忽然と姿を見せなくなっていく。

 乗り捨てられた白いライトバンは、盗難車と判明。車内には、大量の遺留品があったが、捜査はなかなか進まなかった。当時の鑑識は、現在ほど、レベルの高いものではなく、遺留品も、当時の刑事たちは素手で触り、指紋も汚染されていた。

 まだ、DNA鑑定とか、そういうものもなく、捜査も鑑識も、手詰まり状態、であった。

「……すべての責任はわたくしにございます。どうも、申し訳ございません」

 滋賀県警の本部長の山本昌二さんは頭を深々と、記者やテレビカメラの前で下げた。

 相変わらず、〝報道協定〟も続き、犯人たちから脅迫状も届いていたが。

 遺留品も沢山あったが、捜査の進展はみられなかった。

あの高速道路での大捕り物からは、かい人21面相の動きは、明らかに鈍化した。

 そんな時、〝報道協定〟を結んでいない週刊誌が、まるで〝滋賀県警が犯人を逃がした〟ような記事を書いてしまう。それが、国民に伝わり、滋賀県警は大チョンボをしたようなイメージで、責められることになる。……すべては、誤解、であった。

 だが、そのことを人一倍気にしていた滋賀県警の当時の本部長・山本昌二さんは、自殺なされた。本部長宿舎の庭で、事件を苦に、焼身自殺をしてしまったのだった。

 山本さんはノンキャリ(大卒でなく、キャリア試験を突破していない〝たたき上げ〟)であった。が、人望が厚く、ノンキャリでは異例の大出世の本部長になり、将来は警察庁への出向まで見込まれていた。そんな、〝ノンキャリアの星〟が、自殺してしまったのである。

 葬儀の席で、今江明弘さんは、男泣きに泣いた。

 ……おやじ。山本本部長は、おれのおやじみたいな存在やった。本部長! この仇は必ず、とってやるぞ! 犯人グループを逮捕して、地獄をみせたる! おやじ……おやじっ!

 

「最低や。こんなん最低の結果やでえ」

 加藤は、居酒屋で、吉山利嗣に愚痴をこぼした。

「なんで、山本さんが死ななけりゃならんねん? 悪いのは全部、犯人やろ!」

「ノンキャリアから、たたき上げで、あそこまでになったひとやったからなあ。人望も厚い、誰からも尊敬される〝大人物〟……それだけにプライドが許さへんかったんやろなあ」

「最低や。こんなん……最低やでえ」

 加藤は深酒をする。吉山は付き合うしかない。

 しかも、山本さんの自殺にもビビったのか? 犯人グループから、本当の、〝終結宣言〟とも呼べる書状が届いた。

 五日後、1985年8月12日……


 一年と 五か月も なにしとんねん

 わしら  みたいな 悪

 ほっといたら あかんで

 たたきあげの 山もと 男らしうに

 死によった さいかいに

 わしら こおでん やることに した

 くいもんの  会社

 いびるの もお やめや

 このあと きょおはく するもん  にせもんや

 ゆうしゅうな 警察え

 とどけたら  ええ

 わしら 悪や

 くいもんの 会社 いびるの やめても

 まだ  なんぼでも やること ある

 悪党人生 おもろいで

   かい人21面相


 この事実上の犯人グループからの犯行終結宣言が届いたその夜、東京発大阪行きの日航機123便が、群馬県御巣鷹山の山中に墜落。機内には、ハウス食品の社長も乗っていた。

 ちょうど、犯人たちからの犯行終結宣言を受けて、前社長でもある父親の墓前に報告するために、飛行機に乗ったことによる悲劇であった。

 これを受けて、マスメディアは〝日航機墜落事故〟一色になり、次第に、国民は『グリコ・森永事件』を忘却の彼方へと向かわせ、本当に、それ以降、国民は『グリコ・森永事件』を忘れていった。

「加藤さんは日航機の取材にはいかれないのですか?」

 〝夜回り〟にきた加藤に、辻刑事は尋ねた。

「もう『グリコ・森永事件』は終結して、次は、〝日航機〟やないですか?」

「いや、〝事件の加藤〟〝ミスター・グリコ〟の加藤だからこそ、こうして調べトンのです」

「……?」

「俺はグリコ・森永事件を専属でやってきたみたなもんや。それで犯行の終結宣言まで出されて、調べんでどうするっちゅうねん」

「終結宣言をどう思う?」

「多分、本気やろねえ。犯人グループは、高速道路での攻防戦で、捕まりそうになってそうとう、ビビった筈や。そして、山本部長が自殺した。自殺するなんて思ってもみいへんかったんやろ。もう、ビビりまくって。尻尾を撒いて逃げよったんや」

「……で? もう取材はおわりかい?」

「いや。俺は死ぬまでこの事件を追う。死ぬまでや」

「……そうか。……」

「それで、どうなんや? 捜査の方は」

「正直、お手上げ状態や。上層部を批判するわけじゃないが、当初の見立てに誤りがあった気がする。取引現場での対応に注力するあまり、予想以上の展開に、初動捜査が追いつけなかった」

「捜査統制の問題もあったんやろ?」

「そやな。今でも相変わらず、他の捜査員がなにを調べてはんのかわからへんのや。情報の共有も還流もされてへん。俺たちはまるで、部品の一部のようや……」

「………」

「はなよりも みのおのさとの もみじがり みのひとつだに とれぬけいさつ…や」

「なんやそれ。グリコ犯が俺たちに宛てた脅迫文の一文やないか」

「そや」

「ホンマに、ほんまに、このキツネ目の男が、ホンマに事件に関係しているのかわからんようになってきたなあ。ホンマに、このキツネ目の男は犯人グループのひとりなんか?」

「そんなもん。……逮捕すればわかる話や。その男に、聞けばすぐにでもわかる」

「……そうやなあ」

「はやく、事件を解決させて、この重苦しい『呪縛』から、解放されたい……」

「ホンマ。ホンマやでえ……」

 だが、事件は未解決のままにおわる。

 警察が苦し紛れに出したのが、例の〝F(キツネ目の男)〟の似顔絵だった。

「苦渋の選択だった」元・警察庁捜査一課長・藤原享(すすむ)さん。

警視庁指定広域重要114号『グリコ・森永事件』2000年2月13日、午前0時00分。時効成立……犯人から送られた挑戦状と脅迫状 計144通。投入された捜査員・約130万1000人。寄せられた情報2万8300件。捜査線上に浮かんだグループ130団体。捜査対象12万5000人。犯人が残した遺留品300種・約600点……

 事件は時効を迎えた。しかし、犯した罪の清算に、時効はない。

グリコ犯が警察組織を三振させたのだ。グリコ犯は歓喜の叫びをあげて、宙に飛びはねかれた。勝利! グリコ犯の勝利だ。しかし、滋賀県警の山本本部長が自殺したのを知って、歓喜は消えうせた。

この世で欲しいものなんて一つもないんだ。グリコ犯のリーダーの男はかすれた声でつづけた。ひどい当惑。そして絶望に襲われていた。おれはどこにいけばいい?

結論は出切ってているんだろ! リーダーは腹立たしげにいった。口を尖らせ、ハシバミ色の目に怒りをたたえていた。睨みつけた。小馬鹿にされて引っ込むようなおれじゃない。それでもリーダーには、壁にくっきりと鮮やかに描かれている文字が読めた。君の負けだ、あきらめろ、そう書いてあった。、簡単に降参などするものか! 後何ラウンドだって戦ってやる! ヒーローの役はこなせそうもなかった。

「国民よ、おれを見ろ!」リーダー格の男は頼んだ。おれが欲しいのはカネとあんた方だ。リーダー格の男は立ち上がり二人の部下の方を向いた。喧嘩っぱやく不良の男と、キツネ目の男、野蛮粗野な男たちに母親の女性とその子供……。そうさ!

ゆがんだ笑みを浮かべて続けた。国民やおれにはカネが必要なんだ。リーダー格の男が何かを必要だと認めたのは、これが初めてだった。そして心の中でそれが拒絶されるのも知っていた。強靱な愛が、胸に溢れ、その瞬間、リーダー格の男はその感情に力を得てすべてをあきらめようと決心した。戦いは本当に終わったのだ。

リーダー格の男は劇場型犯罪の最後、国民の災厄を、リーダー格の男はグリコ犯の最高をひきたてた。でも、どちらも悪なのだ。

思い出を持って我々はここを去る。目に涙があふれた。しかし、これで終わりじゃない。負け知らずのグループがまた暴れまくるのだ。すべては終りじゃない。これから始まるのだ。  

未解決事件にして、戦後最大の凶悪事件『グリコ・森永事件』……あれから三十数年。グリコ・森永事件の犯人グループはどこでなにをしているのだろうか。

 何にしても、事件に終わりはない。人間が犯した事件であるならば、いずれは真相が明らかになる筈である。

 それにしても、この戦後最大の事件『グリコ・森永事件』は、我々に、おおきな闇を見せた。いずれは、全真相が明かされるとはいえ、あまりに待たされた。

 もしかしたら、何もないまま、すべてがおわるかもしれない。

 この事件そのものが、もはや、歴史の闇の中、である。

 だが、だからこそ、この事件を偲ぶのも、また、故、としない。


                        小説パート  おわり




ポスト・スクリプト



(このポスト・スクリプトでは、『キツネ目 グリコ・森永事件全真相』岩瀬達哉著作・(講談社)からの引用部分が多々御座います。改めて承諾願います)

『週刊読売』と『サンデー毎日』の編集部に送ったのちの「手記」で、丸大食品との裏取引 について「けいさつ しっとるか わからへん かった」「わしは 5ぶ5ぶ おもおとった」と犯人グループかい人21面相は書いている。

警察に届けないで力ネを払う可能性を50パーセントと踏んでいたのだ。うぬぼれがいささか過ぎる。また、裏取引の当日、自信と読みから、キツネ目の男は意外なほど大胆な行動に出ていた。身代金5000万円を持参した丸大食品の社員を捜査員とは思わず、すぐ後ろを付けて歩いていたのである。大阪府警の6人の捜査員は、その不審な動きを捕捉し、2時間近く尾行していた。

大阪府警は、この日、府警担当の記者たちに察知されないよう、捜査一課の鷹取裕文警部に命じ、各社の記者たちとの懇親会をおこなわせている。鷹取警部は、懇親会に出席した記者によれば、記者クラブにこう持ちかけてきたという。

「たまには、情報交換を兼ねた吞み会をやろうやないか。酒を持って俺の家へ来い。料理はウチのに作らせるからと誘われた。各社の捜査一課担当の記者は、ほとんど来てましたから、安心してみんなへべれけに酔っていた」


かい人の面相との攻防戦、国鉄(現・JR)での戦いを振り返ってみよう。

脅迫状を受け取った丸大食品は、すぐに高槻署に届けている。

府警本部ではなく、本社地域を担当する所轄署に被害届を出したことについて、当時の捜査幹部は苦笑まじりにこう語った。

「丸大は、最初、高槻署の受付に相談に行ってるんですね。すいません、ウチにも脅迫状が来ましたって、高槻署の1階受付で話している。普通、あれだけの大会社なら警察にコネ持ってるはずですから、内緒でご相談が、と、府警本部を訪ねるものです。これには受付の警官が喜んじゃって、ウチにも事件来ましたでと得意になって上司に報告してるんですよ」


列車内では、こんな攻防戦であった。

同じ事を繰り返しているようだが、大事なことなので、確認を込めて繰り返す。

 列車内には、大阪府警捜査一課特殊班の七名+マルケイ(現金持参人・警察刑事)が一般人に扮装して張り込んでいた。みんな、耳に無線のイヤーフォンをしている。

 その捜査員の当時のひとりの、岡田和磨さんは証言する。

「列車内に、無線機をもって、チャンネルを捻っている不審な男がおった。無線で警察無線(アナログ無線)を拾い出して通話内容が聞けるいうやつやった。それで、最初はこいつをマークしてたんや。ところが列車が神足駅(現・長岡京駅)に着くと、わしの前に座っていたインテリ風の中年の男(リーダー格?)が降りて、入れ替わるようにして35歳ぐらいの男が列車に乗り込んできた。横柄な態度で、わしの真ん前の座席にボーンと座るや、あたりをキョロキョロやりだした。そこから斜め向かい方向の、隣の車両には現金持参人がいるわけやし、しかも時折その方向をジーッと見ている。当然 おかしいとなるわな。それでマークする相手をこいつに切り替えたわけや」

柔道二段、剣道四段の猛者の岡田だが、一方で似顔絵を描くのを特技としていた。

描いた似顔絵で犯人がスピード逮捕されたり、身元不明の遺体の親族が名乗りでたりして事件が解決したことが、岡田の似顔絵でたびたびあった。事件解決に貢献したとして、府警刑事部長賞を何度も受けている。

不審者は、俳優の矢崎滋似の男だった。

そして、この男こそ〝F(キツネ目の男)〟であった。

神足駅から乗り込んできたこの男の顔の特徴をつかもうと、岡田は、相手に気づかれないよう神経を集中させた。

「わしとペアを組んだみどり巡査とは、アベックという設定やから、ちゃらちゃらしながら視界の隅でこの男を捉えていた。ほんの2メートルも離れていない距離で、いつまでもちゃらちゃらできへんし、適当なことを言いながら、一度座席を立って乗降ドアの上にあるふ広告を見るふりをしながら、犯人グループかい人21面相の一味の〝キツネ目の男〟を観察して、特徴をつかんでいった。のちに、Fox、〝F(キツネ目の男)〟と、遭遇したのは、我々が一番最初であったと思うやね」

「太田常務の家に犯人から電話が入ったときには、わしら先行班は高槻駅の近くで待幾してた。指示書を置いてある場所は、そこしかないですから。そしたら突然、午後8時35分発の京都行きに乗れと無線が入った。電車に乗れという指示は予想してなかったから、あわてて車を走らせ、駅のロータリーに乗り捨てて列車に飛び乗った。だけど、もうギリギリいっぱいやった。そういう状況ですから、他の捜査員が列車の何両目に乗っているかはわからんかった」

かい人21面相のそれまでの行動パターンから、大阪府警は、次の指示書を置いてある場所へ車で移動するよう指示してくるものと考えていた。先行して現場に向かうのが、その際の、岡田の任務だった。それだけに「電車に乗れ」という指示には、少なから躊躇した。

「あのときわしは、西淀川署から応援で来ていた徳田みどりとペアを組んでいて、急いで切符を買って飛び乗ったのが、先頭から3両目やった。途中、現金持参人は隣の車両にいると無線でわかったが、わしの位置からだとよく見えんかった。しかし座席を変えることなく、その位置どりでアベックを装って座り続けた。どこに犯人が乗っているかもわからんからね」

大阪府警を退職後、岡田は、民間企業に再就職していたが、鍛えぬいた肉体を保持していて、 腕は丸太のように太い。眼光は鋭く、低くよく響く声で続けた。

「列車に乗るなり、不審な男が目に入つた。帽子を目深にかぶって、無線機をガチャガチャし とったから……その男がいじっとったのは、誰かが無線を使うと、その司波数をオートスキームで調べる。これは、警察無線(アナログ無線)を盗聴しとるな、とわかった。同時に、これでは無線がつかえない、ともわかった」



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