第3話 グリコ森永事件

江崎社長宅への録音テープは、取締役も、合同捜査本部の搜査員たちも、首をひねりながら聴くことになった。何故なら、こととき、すでに1時間ほど前、江崎社長は水防倉庫を脱出し、警察に保護されていたからだ。


4月2日、速達郵便で大型茶封筒に入った長文の脅迫状を江崎家に送り付けている。

事件は、まだ終わっていないことを知らせる文面であった。


勝久 え 

これは けいさつ え みせるな

やくそく やぶって にげおったな


脅迫状の後半部分は、カネの受け渡しについての指示だった。


4月8日 ごご7じに おまえのうちの

14 XXX え  TELする

金は 運てん手の 加藤にもたせて  甲子えん学えん 東のきつさ店

マミ—641〇、で またせとけ

(略)

このこと 相だんして ええのは 女房と母親だけや

大久保も 金子も 藤江も ダメや

けいさつ え いうに きまつとる

そしたら おまえら 6人は 1年も いきていられへん

金 もろうたら おまえら6人 ゆるしたる もう2どと なにもせえへん

金だすなら  4月5日か 7日の まい日と よみうりと あさひの

人 こうこく え

下のこうこくを のせろ

金の うけわたしに てちがいあったら

15日の日ように おなじことくりかえす

(以下略)(1984年4月2日・西宮郵便局 管内から投函)


いのちが おしければ 金を よおいしろ

死にたければ けいさつえ れんらくしろ

こやで ポラロイド 5まいうつしてる

なかには はだかの はづかしいのもあるで

フォ—カス やったら 500万で かうやろ

いっしよに おくったテ—ブも 高ううれるやろ

写しんだい テープだいも いれて

おとしまえの 金は おまえのかぞく

一人1000万 6人で6000万や  1000万づつ ぬののふくろにいれて

よおいしろ 

おばやしの聖心やにがわの学こう とは、江崎社長(当時)の長女が通っていた小林聖心女子学院小学校と 長男が通っていた仁川学院小学校のことである。

子供たちをも標的とすると伝えることで、江崎家の人々の恐怖心をよりいっそう煽ろうとしたのだ。また、いっしょに おくったテー プ とは、水防倉庫で江崎社長の声を録音した二度目のカセットテープのことだ。このほかロート製薬の目薬容器に入れた、濃塩酸も同封していて、そこにはこう書かれていた。

めぐすり の いれもん え 

いれてあるのは 塩さんや 

10円だまに かけてみ ようとける


すぐさまマスコミ宛てに次の挑戦状を書き上げ、午後には大阪中央郵便局管内のポストから投函した。


けいさつ の あほども え

おまえらあほか

人数 たくさん おって なにしてるねん

プロ やつたら わしら つかまえてみ

ハンデ— ありすぎやから ヒントおしえたる

江崎の みうちに ナカマは おらん

西宮けいさつには ナカマは おらん

水ぼう組あいに ナカマはおらん

つこうた車は グレ—や

たべもんは ダイエ—で こうた

まだ おしえて ほしければ 新ぶんでたのめ

これだけ おしえて もろて つかまえれん かったら

おまえらぜい金ドロボ—や

県けいの本部長でもさろたろか(1984年4月7日以時〜大阪中央郵便)


夫人と母親たけに相談すれば、カネで家族の安全が守れるなら早く払ってしまい、疫病神のかい人21面相と縁を切りたいと考えるはず、と読んでのことだ。

指定した求人広告は、「金髪モデル募集」というものだったが、おなじことくりかえす、と、1週間後の日曜日に裏取引のやり直しを予告していることである。

キツネ目の男やかい人21面相は、はじめから喫茶店「マミー」に出かけていくつもりはなく、警察が張り付いているかどうかをチェックする下見として設定していたのである。

警察が張り付いていれば、当日に、さらなる脅しをかけ、警察が張り付いていなければ、 仕切り直しの日時と場所を連絡するつもりだった。そのため江崎家が、カネを払うつもりで 「マミー」に行ったものの、何の接触がなくても戸惑わないよう親切にやり直しを予告していたのである。

大阪府警はこのとき、「金髪モデル募集」の求人広告を出させなかった。犯人はカネが欲しくて、人質を失ったあとも身代金を要求してきているのだから、カネの受け渡し現場に現われるはずと読んだ。そこで簡単に逮捕できると考えていたのだ。

この判断は、それまで捕らえてきた粗暴犯を念頭に置いたもので、いかにも楽観的だった。キツネ目の男やかい人21面相の用心深さに想像が及ばず、 その能力を見くびっていたことを如実に物語っている。



 金 もろたら おたがいに えんぎれや(以下略)


大久保会長と金子常務に宛てたものは、裏取引に応じなければ、さらに犯行を激化させると予告していた。

大久保会長は、社業のみならず江崎家を支えてきた忠実な番頭であった。

そして金子は、常務取締役で社長室長だった。金子は、社内序列でナンバー・スリーの地位にあった。このふたりに対し、 指定の新聞広告を出し、カネを払う意思を示さなければ、青酸ソーダ入り「アーモンドチョコレート」をスーパーに置いて回ると脅したのである。



大久保 金子

ええかげん に 金をだせ

塩さんの ふろ よおいした

社長 (略) の じゅんにいれたる

(略) おとなは いきたままや

いばらき市 の 野宮の あけぼの橋の下に 

すこし えんさん を おいた 

あし でも つけてみ

(略)

江崎 え 

そんなに 死にたいか 死にたければ 死なせてやる

塩さんの ふろ よおいした

もう1ど さろうて ふろに つけたる

顔あらうだけでは すまん

けいさつ の うごきは なんでもしってる

けいさつに ナカマが おるんや

8日(注「マミー」の当日)は 

あほども が あほなことしておつた

あほどもの あいてできるか 

おまえは かんたんには 殺さへん

わしらを なん回も うらぎりおった

ゆっくりくるしめて 殺したろうとおもってる

けいさつなんか あてに するな

あいつら あほばかりや

せかい中どこえにげても むだや

どうしても 死にたくなければ 金をだせ

わしらを うらぎったから 金は 2ばいに する

社長だけの せきにんやないから 社長は 6000万

会社は6000万 つかいふるしの 1万円さっで よおいしろ


警察は、濃塩酸の発見を公表した。

翌17日の新聞各紙は、「えんさん きけん」「江崎勝久」と書かれたポリタンク発見のニュースを一斉に報じている。ここでもまた、キツネ目の男とかい人21面相が仕掛けた神経戦が功を奏し、報道によって江崎家の人々は精神的に追い詰められていくことになる。



会杜も つぶしたる 

コンチマシン を マイトでばくは する

青さんいりの ア—モンドチョコレ—卜 よおいした

ス—パーに おいて まわったる 

はよう 新聞 こうこく だせ(以下略)


「コンチマシン」とは、コンチングマシンのことだ。チョコレ—卜の原料となるカカオを練り上げる機械である。一般には知られていないこの特殊な加工機械の名称をあえて書き込んだのは、チョコレートの製造工程に詳しい者がいることを匂わせ、


青さんいりの アーモンドチョココレート 20こ

……スーパー え

おいて まわったる


との脅し文句に、より信憑性を寺たせる狙いがあったのだろう。

青酸ソーダは、猛毒で、〇・15〜〇・2グラム程度で人を死に追いやることができる。

グリコの看板商品であるアーモンドチョコレートに青酸ソーダを入れられ、市場にばら撒かれたのでは経営は大打撃を受ける。

また、拉致されたときの恐怖を思い出させようと、茨木市の安威川にかかっている曙橋の左 岸橋脚台に、濃度30パーセントの濃塩酸3 - 4リットルを入れた20リットル用の青酸ソーダ入りのポリタンクを置いている。

この場所は、江崎社長が監禁されていた水防倉庫から2キロほど北の川沿いにあたる。




「ダンヒル」の店内で待機していた加藤運転手に、午後7時半過ぎ、グリコの藤江取締役から 連絡が入った。その少し前、かい人21面相から藤江宅に電話があり、はきはきした口調の女の声を録音したテープが電話口から流され、こう指示があった。


名神高速を85キロで吹田サービスエリアへ走れ、京阪レストランの左側のタバコの自販機の 上に手紙がある。手紙の通りしろ


この女性の年齢は、当時35歳前後と推定され、現在なら70代前半ということになる。 、


すぐかえれ

愛犬タローも

まっている

妹より


裏取引に応じると見せかけ、犯人を現場におびき出す作戦が立てられた。

この広告掲載から2日後の4月21日、藤沢和己監査役の自宅に3通目の脅迫状が届いている。



勝久 え

よお けつ心した

この うらとりひきは けいさつにも マスコミにも

ゆわへんから かならず 金 もってこい

運てん手の 加藤にも なにもせえへん 心ぱいするな

(略)

加藤には 白かアイボリイの レインコ—卜を きせて

白か アイボリイの カローラで こい

藤江のうち え

4月24日 火よう日 ごご7じ30分  TELする

(略)

加藤は 豊中市上 島津の レストランダンヒルで 

TEL 金もって まっとれ

加藤は ちっこいじを よめるように じゅんび しておけ

10日したら  〇・1グラム

いれたのを 8こ

東京 ふくおか の あいだの 店 え おく

また10日したら 〇・2グラム いれたのを 10こ

北海道 おきなわ の あいだの 店え おく

グリコをたべて はか場えいこう



名古屋と岡山のあいだのコンビニなどにまずは、青酸ソーダ入りグリコ製品をばら撒き、その10日後には東京—福岡間の店に、さらにその10日後には北海道から沖縄まで、日本全土を対象に致死量の青酸ソーダ入りグリコ製品をばら撒くとの通告であった。

このショッキングな内容を新聞でどう扱うか、各社悩んだ末、最終的に紙面掲載に踏み切っている。NHKの未解決事件ファイル『グリコ・森永事件』によれば、編集局内で次のような侃々諤々々の議論があった。

『社会部をはじめ編集局で議論があった』

『挑戦状をそのまま新聞に載せるのは、犯人の思うツボやないか』

『しかし、公表しない訳にはいかへんで』


緊張と怯えから金縛りにあっていて、まったく動けなくなっていたのだ。


ダイエーの 社長  え 

グリコの せい品 うらんで よかったのう

あとでわかるで

もうすぐ8こ おかなならん

わしら こまっとるんや  どこいっても

グリコ あらへん

はよ店 え おいてほしい はじめに おいた ス—パーか デバ—卜は

わしらの ゆうとおりせえへんと グリコとおなじめにあう

グリコでも つぷせるんや

おまえの とこなんか マイト1〇〇本 つこたら きえてまうで

原田社長に届けさせた脅迫状には、少しでも自分を大きく見せようと、キツネ目の男やかい人21面相は知たかぶりの経営数字もあげていた。


グリコ の あほども え

おまえら 商売人か

商売人は そんせえへん

けいさつの ゆうこときいて なんか ええこと あったか

わしらの ゆうこときいておれば 6000万ですんだんや

あと一年はんで グリコはつぶれる

うらぎりおったら つぶす ゆうたやろ

青さんソ—ダは なんぼでもある

つぎの バレンタインのまえは 青さんカリ つこうたる

きょ年は アイスだけで 冷夏だけで 億へった

青さんやったら 1〇〇億より もっと へるで

8こ のうち

5こ サービスしたる

ほかのス—パ— え 

おまえのとこから れんらくしとけ



いやでもこれだけ脅せば、グリコは裏取引に応じてくるとの自信があったのだろう。キツネ目の男やかい人21面相は、裏取引をこれまでのようにグリコに伝えるのではなく、関連会社を経由させる方法に切り替えたのだ。

グリコに、直接、脅迫状を送れば、必ず警察がチェックし、応じたくても応じられないと考えてのことだ。



原田 え

これを グリコの 社長か 常む え わたせ

TELは けいさつが 盗ちょうしとるから あかん

ゆうびんは けいさつが 見おるからあかん

おまえがもっていけ






大手スーパーのダイエー、ジャスコ、ニチイ、イトーヨーカドーなどが、即日、グリコ製品

の販売中止を決めた。

「関西、中部地方で相次いだグリコ製品販売中止の動きは十一日、関東地方にも飛び火し、スーパーやデパートの一部が同製品の店頭からの引き揚げを決めた。これらの動きを反映して東京証券取引所では、グリコ株に売り注文が殺到、グリコ製品をめぐるパニック状態は、急速に広がっている」(『読売新聞』1984年5月11日付夕刊)

事件前700円台だった株価は、485円まで暴落。ストップ安となった。

 これが、『グリコ・森永事件』の株価操作説の起因である。


裏取引で数千万は稼いだろうが、数億という訳にはいかない。犯行自体は計画通りうまく運んでいるにもかかわらず、いまだ大金を手にできない焦りがかい人21面相にはあっただろう。だからこそ、


いままで わしも 金つこう とる

罰金 はろたら いびるの やめて

まえより うれるように  したる


と、犯行計画の準備のため費やしてきたカネを回収できない苛立ちと、本末転倒な妥協案を書いていたのである。


その焦りを理解できず、脅迫状の文面に振り回され、「長岡香料がグリコの大口取引先であることは、社内でも限られた部署しか把握していなかった上、長岡香料研究室の直通番号も公表されている訳ではない」と、捜査幹部が記者たちにレクチャーしていた。いわば、しょせん、キツネ目の男やかい人21面相の敵ではなかった。

「グリコは捨てる」

かい人21面相はそう判断した。そこで、ターゲットを丸大食品にかえた。だが、うまくいかず次のターゲットに森永製菓とハウス食品とする。

前述した国鉄(現・JR)での大捕物で〝キツネ目の男〟が現れ、逃げられ、結果だけかくと、ハウス食品の恐喝で、大津サービスエリアの高速道路での大捕物も、逃げられた。

かくして、この『グリコ・森永事件』は未解決事件になった。






200億 の 金も 人けんひで のうなってまう

ナカマは やくそくどおり つぶしてまえ ゆうとる

そやけど わしらは ゆるしてやってもええ おもっとる

いままで わしらも 金つこうとる 

罰金 はらったら いびるのやめて まえよりうれるように したる

(略)

罰金2億4000万 6000万はだせ(以下略)



元捜査幹部によれば、グリコ側は平身低頭でこう謝罪したという。

「実は、警察に内緒で裏取引をやろうとしたけれど失敗した。我々では、とても無理だとわかった。以後は、警察のご指示通りなんでも従います」


ロッテリア茨木店が、彼らにとって様子見の予行演習とすれば、次が本番であり、勝負をかけて犯人はカネを受け取りに来るはずだ。

グリコが裏取引を続けるものと、かい人21面相は思い込んでいる以上、大阪府警はこのヤマで犯人を逮捕すべく、入念な捜査網を敷いた。

しかし、キツネ目の男やリーダー格の頭が物凄く切れる男や、ビデオに映った巨人の野球帽のパンチパーマの男やかい人21面相は、デート中のアベックを襲い、元・自衛隊員の男性に大金を取りに行かせたことで、間一髪で逃げ延びていた。

このあと、かい人21面相らは、グリコからカネを取ることを諦めている。

グリコを脅し続け、 再度、裏取引に誘い出したとしても、またどんな罠が仕掛けられているともわからない。これ以上深追いして、万一、逮捕でもされれば世間の晒し者となり、自分たちだけでなく親兄弟までもが住み慣れた家にも住めなくなる。その恐怖が、グリコを捨てさせたのだ。こうきっぱりと決断できるところが、かい人21面相の男らの強みでもあった。

だが、これまで時間と労力とカネをかけ、準備してきた犯行計画まで捨てるわけにはいかない。グリコに代わって他の菓子メーカーや食品メーカーからカネを取るため、男らは、いかにも裏取引でグリコがカネを払ったかのように見せかけようと、人々の誤解を誘う仕掛けを打った。

 とにかく、犯人グループが企業から一円もせしめなかった……等と言うわけはない。

裏取引で、数千万円単位にしろ、全部で、一億か二億円か奪ったにそういない。

 目標金額の十三億円にはほど遠いが、所詮はワルである。

 犯行後に、〝キツネ目の男〟や〝コンビニの防犯カメラの巨人軍の野球帽の男〟をいくら捜査しても見つからなかったのも、何か裏があるような気がするのだ。

 本当に、犯行後も、日本国内にいたのか? 〝キツネ目の男〟は粛清されなかったのか?


 はやく、はんにんがたいほされて またグリコのおかしがたべたいです


ともこちゃん ありがとう グリコは  がんばります


6月24日の全国紙に掲戰された広告


グリコへの終結宣言は、6月24日の日曜日の朝刊各紙に掲載されたグリコの新聞広告を 見たキツネ目の男が、その日のうちに書き上げたものだった。

「ーともこちやん、ありがとう。グリコは、がんばります」とのキヤツチコピーとともに 「小学校二年のともこちゃん」から送られてきたハガキを使った広告は、新聞紙面の半分近くを占める全7段のもので、子供らしいたどたどしい文字の応援文が載っている。

「わたしは『グリコ』のおかしが、大すきです。でもはんにんが どくをいれた という ので おかしがかえなくなってとってもさみしいです。だからはん人がつかまって はやく『グリコ』のおかしがたべたいです」


開催される定時株主総会に向け、犯人には屈しないとのメッセージだった。

朝日新聞大阪本社の社会部記者も裏取引を疑い、グリコ広告部長の布川裕保を取材している。このとき、布川は不快感もあらわにこう述べた。

「あの広告は掲載日の一カ月前から準備していた。葉書の主は実在しているし、掲載について本人と家族の了解も得ています。なにかの合図?とんでもない、だれがそんなことをいってるんですか!」

新聞広告と終結宣言に加え、もうひとつ予期せぬ出来事が加わったことで、裏取引ががぜん 信憑性を帯びることになった。

グリコの株主総会に、松下電器(現・パナソニック)の創業者でグリコの非常勤取締役でも あった松下幸之肪(当時89歳)が、高齢をおして出席したのである。

関西財界に絶大な影響力を保有する幸之助が出席したことの意味を、多くの企業経営者は、グリコのことでもうこれ以上騒ぐな、幕引きにしろとのメッセ—ジではないかと勘ぐった。

「すでに裏取引はおこなわれていて、これが表に出たら大変なことになる。だから関西財界を抑えるため、睨みをきかせるために出席したんだと言われていましたね。とかく裏取引の噂が絶えなかったですから」

松下幸之助とグリコの創業者江崎利一とは、戦前から親交があり、ともに無一文から事業を興した者として「文無し会」と名付けた懇親会を定期的に開いていた。幸之助は、江崎勝久社長の実質的な後見人でもあり、大学卒業後の江崎社長を2年間、松下電器で預かっている。執拗にグリコを攻撃していた犯人だけに、この元副社長は裏取引がなければ終結宣言など出ないと心底信じているようだった。

「僕は、個人的には勝久君と仲良くずっと業界で仕事してるのでね。こんなことはうっかり言えませんよ。裏取引をやったのは、会長の大久保武夫さんだったと……。彼の名前が出ていたんですよ。勝久君は社長でもまだ若いし、水防倉庫に持っていかれ、あんな目に遭っているから、とてもそんな気力はない。この問題で、話をつけられるのは大久保さんしかいないというわけですよ」

事件のあと、かい人21面相に脅迫された菓子メーカーや食品メーカーの経営陣は、要求されたカネをさっさと払ったほうが被害は少ないと思いながらも、そんなことをして裏取引がバレた日には企業として存続できなくなる。

この葛藤の中で悩み抜き抜き、裏取引をあくまで拒否する企業と、裏取引に応じカネを払う企業とに分かれていったのである。

 グリコからカネを取ることを諦めたかい人21面相は、次のターゲットに丸大食品を選んだ。そして、前述したような列車内・駅構内での大捕物があり、そして、最大の山場である高速道路の大津サービスエリアなどでの大捕物があるのである。

 そのときの標準は、ハウス食品であった。

 それまで、犯人グループかい人21面相は深くに潜ってしまい、姿を見せなくなっていた。




新たな標的となった丸大食品のことを大阪府警は、新聞記者や放送記者に知られないよう 「保秘」を徹底させた。警察が捜査していることがわかれば犯人は出てこなくなる。

だが、情報管理を厳重に徹底していても、漏れるのが大阪府警だったと、警察庁の元幹部は語っている。

「一度、近畿管区警察局の2府4県の警察本部で、捜査情報をマスコミが察知するまで何日持つか、訓練をやれと言ってやらしたことがある。大阪府警は一日も持たなかった。あとの警察本部は3日間漏れなかったというんですが、とにかく大阪は漏れるのが早かった。グリコ森永事件の対策室を密かに府警に設置したときも、1時間後には各社から問い合わせがあったほどですから」

およそ一ヶ月後には、保秘を厳命したはずの丸大食品の捜査は、朝日新聞にその一部が 抜けていた。かい人21面相は、グリコへの終結宣言を出した1984年6月25日以降、水面下で、丸大食品を恐喝し出した。

終結宣言など大嘘であった。





うちのまえ に 

会社の 運てん手の のった 白のカローラ またせとけ

6月28日 もくよう日  ごご8じに

TEする TELしとったら 山田です ゆえ

手紙あるとこ おしえたる

きいたら すぐ うごけ

手紙みたら すぐ ゆうとおりにしろ

太田は 白のブレザ—きてこい

太田には なんもせえへん

ひとりで きめられへんかったら 小森や 百済や 高野と そおだんせ

ゆうこときかへんかったら グリコと おなじめにあうで

(略)

ハムでも ソ—セ—ジでも 注しやき

つこたら せいさんいれられる

つかまえとったときの 勝久の こえきかしたる

金だす あいずに 6月26日と 27日の

每日と サンケイの きんき地域版の こおこくだせ

パ—卜ぼしゅう せんでんはんばい員

35さいまで の けんこうな 女せい 

じきゅう500円

こおつうひ 全がくしきゅう 丸大食品 人じぶまで


「裏取引の日時は正確で、現金持参人への犯人の指示もおおむね合っている。ただ、犯人が裏取引を持ちかけたのはグリコじゃなく丸大食品だった。肝心の企業名が間違っていたので、ぜんぜん引きがなくて、他社の後追いもなかった。ひとこと、丸大食品と書いていれば、大きな反響を呼んだ特ダネでしたよ。だけどわがほうとしては、あれだけ保秘を徹底していたのに、なんで、こいつらわかったんだろうと、ギクッとしながらも訝しんだものです」

「江崎勝久」の名前でキツネ目の男やかい人21面相が、丸大食品の羽賀孝社長に送り付けた脅迫状にはこう 書かれていた。


羽賀 え

わしら の ことは しっとるやろな

おまえの とこ グリコの さいなんで

えろう もおけおったな もうけた分 すこし わしら え まわせ

わしらの おかげで もおけたんや

わしらに 金ださんと きぶんわるいやろ

つかいふるしの 1万円さつで

5000万 1000万づつまとめて 白のバツグにいれて

日よしだいの 太田のうちでまて






   犯行の果て


 食いもんの かいしゃ いびるのもうやめや… 突然の終結宣言であったが、大嘘であった。グリコの次は、丸大食品であった。だが、京都行きの国鉄(現・JR)の列車内・京都駅構内の大捕り物の「心理戦」で、〝キツネ目の男〟やかい人21面相らは警察を翻弄し、手玉に取られた警察は、敗れた。

 そして、犯人グループの標的は、森永製菓に移った。

 だが、これも最初は丸大食品のときと同じように、警察だけのトップシークレット(超極秘)であったのである。

 そんななかで、大阪府警・刑事部長の鈴木邦芳課長を、毎日新聞のエースが訪ねてきた。

 毎日新聞・府警キャップの津野恭誉(やすたか)である。

 NHKのドラマでは、俳優の鶴見慎吾さんが演じておられた。

「津野さんが、わたしのところに来られるのは珍しいですね?」

 鈴木は正直な感想を述べた。

 だが、津野は餌に食いつかない。

「単刀直入に言います。犯人グループの森永製菓への脅迫状を載せます」

「〝森永〟? まだグリコの犯人の動きはないが……」

「シラを切っても無駄ですよ。こちらは社会部のキャップの合意も得ています」

「しかし……それは……」

「この森永製菓への事件を報じなければ、我々はこれ(首切りの手を片手で作って)ですからね」

「……クビになるのはわたしの方だよ」

「! ……ありがとうございます」

 一九八四年九月二十日。

 グリコの犯人グループが、グリコから丸大食品、そしてターゲットを森永製菓に移した、というこの『森永事件』の大スクープが毎日新聞の夕刊の第一面に踊った。

 グリコへの終結宣言以来、鳴りを潜めていた犯人グループが、表面化で、丸大食品を、そして、森永製菓にターゲットを移して、恐喝していた事実は、センセーショナルに報道された。そこでもまた、大量生産・大量消費の時代の牙が向けられた瞬間でもあった。

 マスコミはこぞって森永製菓に殺到……だが、森永製菓の交渉担当の男は、知らぬ存ぜぬ、を繰り返した。グリコの事件では、損失が百億円以上になった。

 だけど、森永製菓は裏取引には応じない。

 森永製菓は、すぐに警察に届けた。

 しかし、この報道によって、警察と森永製菓は裏でつながっている、と犯人グループにばれてしまったのである。

「毎日新聞の記事は本当なんですか?!」

「商品の撤去は??」

「……わが社に脅迫状が届いたという事実はありませんッ!」

「グリコの経済的損失は数百億円以上と言われていますが……犯人グループに言いたいことはありますか?」

「お引き取りください!」

「しかし、毎日新聞の記事では、森永製菓が次のターゲットとなった、と書いてありますよ!」

「社長の会見は?」

「本当のところはどうなんです?!」

まさにメディア・スクラムである。

 それを、遠くで見ていた加藤譲は苛立った。

 ……くそう。こんなもん報道して何になんねん! 犯人グループが、喜ぶだけやろ!


「よっさん。何で、森永製菓のことバラしたんねん?」

 加藤は、府警の屋上で、吉山利嗣に詰め寄った。

「なんで、て? なに眠たいことぬかしとんねん。新聞記者は書くのが仕事やろ?」

「確かに、森永製菓のことはうちにも情報があがってきた。でも、今回は警察の捜査に協力して書かないと決めたんや。よっさんらのスクープは犯人グループの思う壺やでえ」

「〝それでも書く〟のがジャーナリストやろ?」

「だが、毎日の記事で、警察と森永製菓が裏でつながっとると、犯人グループにバレてしもうた。よっさんは怖くないか? これに怒った犯人グループの犯行が、エスカレートせえへんと確証できるんか?」

「何寝ぼけたこと抜かしとるねん。これは報道の自由じゃ、ぼけ。捕まえんのは警察の仕事や。警察が無能やから、犯人が捕まらんだけやろ? 真実を書けんなら、記者を辞めや」

 すると、加藤の部下がきた。

「大変です。加藤さん!」

 それは〝保秘課長〟と揶揄されていた平野雄幸(ゆうこう)大阪府警捜査一課課長と、鈴木邦芳刑事部長が、「毎日の記事は大嘘で、誤報である」と発言したからだ。

「毎日新聞の記事はすべて大嘘で、誤報の類いである」

 言い切った。

「ホンマでっか? 嘘やと、誓えますよね?」

「課長は捜査ではなく、情報操作を楽しんでいるんと違いまっか?」

 だが、毎日は過去に「犯人グループのひとり逮捕」の誤報をやらかしているし……。

 だが、加藤や捜査一課の辻正義の心配が現実になった。

 犯人グループから、マスコミ宛てに挑戦文と、青酸ソーダ+江崎社長の声のテープが送り付けられ、防犯カメラに例の巨人軍の野球帽の男が映り、『毒入り きけん 食べたら しぬ で』のメモつきの毒入りの森永製菓の菓子がコンビニやスーパーでみつかったからだ。

 マスコミは激怒した。

 集団で、鈴木邦芳刑事部長に詰め寄った。

「ひどいやないでっか?!」

「嘘じゃないですかあ!」

「『知らない』とか『言えない』とかいうならわかりますよ。でも、部長ははっきり『嘘や』いうたやないでっか! マスコミをミスリードするなんて酷いじゃないですかあ!」

「……申し訳ないと思っている。だが、上層部からはマスコミの連中を撒かなければ捜査はできない。嘘をついてもいいから、マスコミを抑えろ、との指示があったのだ」

「……はあ?」

「わたしの立場も理解してくれ。君たちだって犯人逮捕を望んでいるんだろう?」

「………」

 警察は捜査をうまく動かしたいからマスコミに嘘をつく。すると、犯人グループが挑戦状や脅迫状で、マスコミに真実を伝える。こんなことが日常化すれば、マスコミと警察の関係は、益々、悪くなる。これは、最低や。あかんがな。加藤は顔面蒼白になる。

「俺は、ホンマは恐ろしい。犯人グループがこれからどんな悪辣なことを仕掛けてくるか。……グリコの経済的損失は数百億円以上……森永も同じようになるやろ。それが、たった一握りの数の犯人グループ(かい人21面相)によってなされるんやでえ」

 〝夜回り〟での辻正義捜査課長は、加藤に本音を吐露した。

 その恐怖は、やがて、国民にふりかかることになる。

 犯人グループ(かい人21面相)が、大阪近郊のスーパーやコンビニの店頭に、毒入りの菓子を秘密裏に、置いて回り、国民を人質にとったのだ。

 『毒入り きけん 食べたら しぬ で』……このメモが貼ってある森永製菓の菓子が、何個も発見される。さらに、犯人グループは、警察やマスコミに猛毒のサンプルを送り付けてきた。挑戦状や脅迫状に同封されていたのはこの青酸ソーダと、江崎社長の肉声テープ。

最近、模倣犯が出てきたから、と、〝本物〟を示すものであった。

 当然のように、店頭から森永製菓の菓子がすべて撤去された。

 グリコと同じように、森永製菓の経済的損失は数百億円以上になる。

 まさに、大企業を狙った、国民を人質にとった劇場型犯罪で、あった。

 報道したいマスコミと、それを、猜疑心と不信感から抵抗する警察……この不安定な異常な状態こそ、犯人グループが望んだことである。


「お疲れですね。鈴木刑事部長」

 加藤が夕暮れの部長室の、開いたドア越しに、声をかけた。

「ああ、加藤くん。この事件は、捜査とは違うところで疲れる事件だからね」

「森永……のこと。あれでよかったんですか? 嘘までつかれて」

「すべては捜査を円滑にすすめるためだよ。マスコミが報道を自制してくれなければ、益々、捜査がやりづらくなる。加藤君……報道をやめてもらう訳にはいかんかね?」

「それは、警察に、『捜査をするな』といううんと同じですがな」

「……それはそうか。まいったねえ」

「〝まいら〟ないでください。マスコミは真実を報道するだけ。犯人グループを逮捕できるのは警察組織だけですから」

「そう……だねえ。そうだねえ」

 鈴木部長は独り言のように繰り返した。

 ……鈴木部長はごっつう疲れとんなあ。ホンマに大丈夫なんか? この事件……

 加藤は不安に駆られた。

 

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