第2話 グリコ森永事件

  第一章 拉致と犯人グループ




襲われたカップルたち


警察には少なくとも、グリコ森永事件の捜査では三度は、犯人逮捕の絶好の好機があった。いずれもその絶好の機会をものにできなかったのは、警察組織のスピード感の欠如に原因があった。「地上戦(部隊を動員しての)」ではなく、「空中戦(少数精鋭で動きのある捜査)」 における未熟さである。

事件発生から2力月半後の1984年6月2日が最初のチャンス到来であった。土曜のこの日、かい人21面相は、大阪府警と兵庫県警が敷いた包囲網の中に夜8時45分にはじめて姿を現した。しかし、見事なまでに裏をかかれ、大阪府警察は、無関係の第三者を「誤認逮捕」していたのだ。

身代金目的の誘拐事件の場合、当時の捜査規範では、水も漏らさぬ鉄壁の捜査網を敷いたうえで犯人の指定する現場にカネを持っていく。犯人の指定の時間に遅れても気にせず、その準備のために時間をかけて、むしろ犯人をじらすぐらいがいいとされてきた。

だが、かい人21面相は、あらかじめ指定した時間までに身代金の持参人が現れなければ、 躊躇なくその日のヤマを捨てた。姿を決して現そうとはしなかった。その行動パターンを読み切れず後手に回った。そのうえ、霞が関の警察庁がモニターする「警察庁指定第114号事件」に指定。捜査のことで、ベテラン刑事のカンを生かすことがなくなった。捜査一課のたたきあげの刑事の勘より、キャリア官僚の警察官幹部のコントロール下の、捜査に、なった。階极がものをいう捜査となっていたのである。

これが、振り返れば、ケチのつきはじめだった。かい人21面相は、この日以来、より慎重に行動し、警察の犯人逮捕の秘策はことごとく出し抜かれることになる。ツキはいつも犯人側に味方した。不思議なものである。

男性は、誤認逮捕された。この男性は、デート中にかい人21面相に襲われ、恋人を人質に取られたうえ、焼き肉チェーン店「大同門」摂津店で、グリコの用意した車を受け取ってくるよう命じられていた。江崎勝久社長(自宅での入浴中に拉致された)とともに、直接、かい人21面相と接した数少ない人物である。忘れようにも忘れることもできない。

犯人らの呼吸、汗と匂い、そして何より脅迫状に書き連ねられたあの関西弁。それらが、同じリズムで、文面そのままに語られる声の響きを脳裏に刻み付けることになった。

当時は、大阪府警から連日のように事情聴取を受けた。だが、事件のショックで記憶が部分的に消えていて、襲われたときの状況も、正確にそのすべてを思い起こすことができなか った。

だが、過去の記憶を探るうちに、デート中に襲われた淀川の堤防道路や「大同門」の現場などを訪ね歩くうち、記憶の空白は埋められた。何より犯人らのシィルエット(影)、そしてその一挙手一投足の暴力までが鮮やかに よみがえってきた。この人物、兼続雄則(仮名)が事件に巻き込まれた経緯をたどりながら、 警察とかい人21面相との、「大同門」での知られざる攻防を明らかにしておこう。


兼続雄則(仮名)は1961年生まれで、当時22歳だった。

大阪府の高校を卒業後、陸上自衛隊に入隊した。家を出たいという理由だった。同じ自衛隊出身の俳優、今井雅之似の兼続は、身長165センチ、腕っぷしは強いものの、瘦身タイプである。自衛官としての勤務成績が良かった。それだけでなく、部隊のバレーボ―ル・チームを率いて地区優勝を果たすなど、統率力にも優れていて、隊長表彰を受けたこともある。  

2年の任期満 了時に除隊を願い出たときは、いずれ幹部自衛官に引き上げるからと慰留されている。だが、階級が上がれば上がるほど異動も頻繁となるため、一人っ子の兼続は除隊した。親の面倒を見られなくなるというのがその理由であった。その際、自衛隊の斡旋で大阪市生野区の中堅食品問屋に就職が決まった。

「大同門」にほど近い大阪府中央卸売市場内の営業所(北部営業所) に同社の運送係として勤務した。デート中、かい人21面相に一時的に拉致された恋人の女性も、同じ営業所の後輩社員で、この年の春、地方の高校を卒業して就職したばかりの益山茜(仮名)という18歳であった。ふたりは職場で知り合った。日を置かずして付き合うようになった。きっかけは、彼の次のひと言だった。

「窓開けて運転してるから、右の腕ばかり焼けるんですよ」

トラックにはクーラーがなかったため、運転席側の窓を開けて、夏場はいつも走っていた。一日の配達を終え、事務所に戻ってきた兼続の右腕だけが焼けているのを面白がり、茶目っ気たっぷりな笑顔で茜が語りかけてきたのだ。兼続は、たちまち気持ちを鷲づかみにされた。ドライブに数日後には、誘っている。

当時の職場は、まだ完全週休2日制ではなく、土曜もほとんど出勤していた。が、仕事を終えるとふたりは決まってデートした。

兼続は静かな口調で言った。

「女性のほうが早く仕事終わりますやん。僕らは配達が終わったとしても、営業所に帰ってきてから掃除とかして、だいたい午後5時くらいには上がれてたと思いますよ。それから家に帰って着替えてから、迎えに行くわけですよ」

土曜の勤務を終えていったん帰宅したのち、門真市の会社の寮まで彼女を車で迎えに行って事件に遭遇している。ふたりが付き合っていることは同僚には内緒にしていたため、午 後七時前、寮の近くのいつもの待ち合わせ場所で彼女をピックアップした。

「襲われた土手へは、あちこち回っているなか行くようになったんやと思うわ。若かったし、 おカネをかけたくないとかね。夜の河川敷で、周りに人がいなければ車の中は密室やし、だ からあの土手にはいつも何台も車が停まっていた。あの日は、たしか途中でマクド(マクドナルド)を食べてから行ったんやと思うわ。淀川の土手へ出る道を登ると、すでに車が4台ほどおった。その珞を抜けて、少し走らせてから車を停めて、まあ、ラジオを聴きながら話をしていたわけですよ」



   身柄確保


『淀川百年史』によれば、この土手の名称は淀川左岸堤防道路という。1972年以降、淀川 の「全川に縦貫させる」遊歩道、自転車道の一部として整備されたものだ。兼続が訪れた日も、連れだって自転車を走らせる親子や、ランニングに汗を流す高校生たちが行き来していた。堤防の下に広がる河川敷には、野球場、テニスコート、芝生公園などが設けられている。 

休日には少年野球に興じる子供たちの声や、テニスコートから断続的に沸き起こる歓声 で、河川敷は、終日、賑やかだ。

だが、夜になると一転し、あたりは暗い静寂に包まれる。その静寂に吸い寄せられるように車に乗ったカップルが集まる一種のデートスポットとなっていた。

兼続もまた、毎週のように引き寄せられてきたひとりだった。

堤防道路に出て すぐのところの、大阪府淡水魚試験場(現・環境農林水産総合研究所)の裏手に、彼の記憶では車を停めたつもりだったという。

夜の真っ暗な堤防の上を、助手席の彼女と話しながらの運転だったため、距離感覚が狂っていた。本当はそこからさらに400メートル以上いったところが停車場であった。

「ようこんなとこまで来たもんやな」

と、独り言を、兼続は運転しながらいった。

かい人21面相は、まさにこの道の死角で身を潜め、何も知らないカツブルがやって来るのを待っていたわけだ。

この死角に獲物が来なければ、彼らはこの日のヤマを躊躇なく捨て、そして新たな脅迫状をグリコに送り付け、裏取引のやり直しを持ちかけたはずだ。目先のカネに執着しない淡泊さと、用心深さが、彼らを警察の手から逃れさせてきたのだった。

事件を担当した元捜査幹部が解説するように、「彼らは、カネは欲しいがカネには困っていない連中だった。一方で模倣犯はすべて借金取りに追われていて、警察が張っているのがわかっても、サラ金の返済日がぱっと思い浮かぶと、見境なくカネをめがけて走りだす」。 

だからこそ、簡単に逮捕できたのである。

兼続がかい人21面相に襲われたのは、到着してすぐだった。堤防道路の現場に、である。

「車の窓は、ちょっとしか開いてなかった。ふっと見たら、そこから銃身が突き出ていた。 一年前まで自衛隊で六四式小銃を扱っていたから、銃というのはすぐわかった。最初はどっきりカメラやと思ったね。しかしその銃口がグーッと迫ってきたので、これはまずいと左手で握ったら、強い力で引き抜こうとした。たしかそのときや思うわ、運転席側のドアの窓ガラスが 割れたのは。銃口を握ってないとやられると思うから、握ったまま右手でドアを開けて外へ出たら、目出し帽をかぶったのが3人出てきたわけや。なんじや、こりや、と激しくやりあった」

脅迫状で、かい人21面相は、この日、3億円を白のカローラに積み込み、グリコの社員ふたりで焼き肉レストラン大同門に午後8時半までに運んでくるよう指示していた。

この社員たちには白のブレザーに、白のズボンを着用させ、ひとりは車に乗ったまま駐車場で待機した。もうひとりは(店内に入って)すぐ左の窓際に座り、グリコの取引先である「東食の中村」を名乗るよう詳細な指示があった。

グリコの松島哲夫総務部長が中村役で。彼から車のキーを受け取ると、兼続は、駐車場の白のカローラで待機していた総務部員と入れ替わる形で運転席に乗り込む。店の前の道路へ飛び出し、右折すると、淀川新橋の方向に猛スピードで走っていく。

「犯人や!」

「追え、犯人やど!」

脅迫状に書かれていた筋書き通りの展開に、大阪府警の捜査員の誰もが、この男を犯人グループの一味と思い込んだ。集音マイクがこのカローラには設置されていて、運転席の声を拾っていた。当時の捜査幹部によると、男はうわ言のような言葉を発していたという。

「早よ行かんと危ない。危ないんや。いや、大丈夫や。あすこへ行かなあかん。早よ行こ!」

「捜査報告書」にもこのことは記載されることなかった。いままで秘匿され続けてきた事実のひとつである。


 男が降り、すぐさま後部座席にいた男が運転席に乗り込むや、鳥飼大橋めがけて走り去った。残された男は「大同門」の駐車場を通り抜け、店内に入る。すると、白いブレザーを着た男の前に進みでた。その瞬間、「東食の中村さんですか」と語りかけ、メモを差し出した。


中村  え

上のもんから わしらの ゆうとおりするように

きいてるはずや

(略)

この手紙もってきた もんに 車とキ—と  金とわたせ

おまえら 2人は 30分この店でまて

30分したら 会社え かえれ

あんじようしたる

4分いないに このもんに 白の力口—ラ

わたさへん  かったら  とりひき やめや

      かい人21面相



3億円以外にカローラには、ひとりの捜査員がトランクに潜んでいて、300 メ—トルほど 走ったところで車をエンストさせた。トランク内に引っ張ってあるスイッチのボタンを押すと、エンジンがかからない仕掛けが施されていた。

捜査員二十名が、車で待機し、マルケイ(現金持参人)に接触したマル被(被疑者・犯人)の乗った車を追尾し、裏路地に誘い込み一網打尽にする。路地には別の白いカローラも用意していた。それで、犯人グループのところまで行き、一網打尽にする計画であった。だが、乗り込んだ男は別人であったという。

トランクの中の捜査員への無線が通じなくなっていて、予定よりはやく停車させた。

兼続はこのとき、「なんで、止まるねんや!」と怒鳴っている。そして、苛立ちもあらわにエンジンキーを忙しく何度も回している。再びかかったエンジンは、百メートルほど進んだ。が、またストップした。その次の瞬間、数人の捜査員が飛び出してきて車を取り囲んだ。  

両手で拳銃を構え、なかのひとりは兼続の額に照準を合わせていた。

覆面パトカーで追いかけてきていた捜査員が、助手席のドアを乱暴に開け、エンジンかけろと怒鳴りながら乗り込むと、エンジンは再びかかり、左前方の脇道に入れと命じた。兼続は、このとき、「彼女、つかまっとんねん」と言ったという。

「大同門」は、幹線道路の大阪高槻線(主要地方道16号線)に面していた。周辺にはパナソニック(旧・松下電器)や久光製薬など大手企業の物流センターのほか、中小零細の鉄工所、アルミ工場などが軒を並べる典型的な工業地区にあった。京都方面と大阪市内を結ぶこの幹線道路の交通量は、一日2万台を当時から超えていた。

幹線道路での逮捕は危険を伴ううえ、かい人21面相がどこかから見ているかもしれないと考え、当時の捜査官は、車を脇道に入れさせたのだ。兼続は車から引きずり降ろされ、手錠をかけられた。午後 8時48分、であった。警察車両に連行される途中、こう叫んでいる。

「あかん、危ないねん。彼女が危ない。早よ行かな、あかんのやって!」

 事情聴取は、屈強な捜査員に両脇を固められたまま、警察車両でとなった。

捜査員がグリコとの関係を質問しても「知らん、俺とちがうって! グリコなんか知らんよ」と繰り返し、事件の経緯を必死で説明した。恋人とデートをしていたら襲われ、車を奪われた。さっき「大同門」まで行った車は自分のもので、彼女がいまも犯人に拘束されている。だったら車のナンバーを言ってみろと、捜査員は声を荒らげた。が、兼続は答えられなかった。3日前に、それまで乗っていたブル—バードをチェイサーに寝屋川の中古車センターで買い替えたばかりだったからだ。

「テメエ、自分の車のナンバーも言えんのか」

「ホンマに知らんねん! 買い換えたばっかやねん!」

「舐めてんのか! お前はグリコ事件の犯人グループのひとりやろう!」

「違うがな。違うんやがな!」

怒鳴る捜査員を制し、右脇を固めていた目の鋭い年配の捜査員が言った。

「目えが、ちがう」

逮捕された犯人が普通、見せるふてぶてしさや、意気消沈ぶりがない。

興奮状態がおさまらず、発する言葉には切迫感があった。しかも顔には殴られた痕があり、10センチ以上も左の前腕は切れ、血で服は染まっていた。腕の傷痕は、いまも残っている。  

大阪府警はこの展開をまったく想定していなかった。捜査幹部は当時をふりかえりこう言った。

「カネの受け渡し場所を変えてくる。そうやって引っぱり回すという思い込みがあった。そっちのほうは相当に手当てしていたが、関係のない第三者が脅され、 犯人に代わってカローラのカネを受け取りにくるという発想はなかった」

 警察はこの日、かい人21面相に裏をかかれたのである。捜査幹部は焦った。

兼続の言っていることに信憑性があると判断した幹部は、すぐさま彼の運転で犯人が指定した淀川の堤防道路に向かわせることにした。ただ兼続が身柄を拘束された時点で、現金を載せていたカローラはすでに別の場所へ移動させられた後だった。これが時間のロスを招いた。そしてそれが、結果的に犯人を取り逃がす結果となる。

急遽、予備で用意していたもう一台の白のカローラを回送させた。

「よし、じゃ、お前ひとり で運転しろ」と兼続を運転席に座らせた。犯人がいる現場に向かう以上、兼続以外の者が運転していたのでは、警察が来たことを知らせるようなものだからだ。カローラの後部座席には外から見えないよう捜査員が乗り込む。あとに乗用車やタクシーを装った覆面車両が続いた。兼続の運転するカローラとともに、これら覆面車両が堤防道路に着く。すると、一般道へ続く道路をふさぐように次々と急停車し、私服の捜査員たちが車から飛び出した。アベックの乗った一台の車がそのときあわてて逃げ出そうとしたため、特殊班の岡田和磨は、運転席側の窓が開いていたからそこから腕を差し入れてハンドルをつかみ、「コラ! 停まれ!」と怒鳴った。

「国道に出たらタクシーあるから、それに乗って妹と弟を連れて家に帰れ。家でお母さんにタ クシー代払ってもらえばいいから。すぐ帰りな」岡田は、家族で張り込んでいて、捜査のため、犯人追跡時に、子供にいいきかせた。

逃げようとした車は、事件とは無関係だった。突然、何台もの車がやって来て、中から殺気だった男たちが飛び出してきたので、言いがかりをつけられ、恐喝されるのでは、と恐ろしくなり、その場を離れようとしただけだった。

「大同門」からこの堤防までは、何のトラブルもなく順調に走れば十五分ほどの距離だった。かい人21面相が、兼続を「大同門」で降ろしたのは午後八時四十五分である。

その際、かい人21面相の覆面ライフルらは「グリコからもらった車でここまで五分で戻ってこい」と命じていた。それで、彼らは、三十分後の午後九時十五分まで堤防道路で待っていた。合同捜査本部の内部記録にこの事実は記されているうえ、かい人21面相が報道機関に送り付けた挑戦状でも認めている。

兼続が運転する警察車両が淀川堤防に到着したのは、残念ながら、午後九時十五分過ぎだった。逃げられていた。まさにそれはタッチの差だったのである。

ちなみに、捜査員の車が「河川敷」にいったとき、急発進で逃げる車があったという。当然ながら、元・大阪府警捜査一課の前和博氏は追尾する。が、交差点を不審車両が赤信号ぎりぎりで突破した。そのあと、覆面パトカーは赤信号で停められ、見失った。

 不審車両は、翌日、近所の寺の駐車場で乗り捨てられているのが発見されたという。




     幻のスクープ

 

話を少しだけ戻す。

 五月十三日………

 青酸ソーダ入りの菓子をばらまく。たった一通の脅迫文だけで、全国の店頭からグリコの商品はすべて撤去され、グリコの株価は大暴落。初の『劇場型犯罪』で、マスコミの報道は過熱し、国民はパニックのようになっていた。

 ………たった一通の脅迫文だけで、この有様か。わてらの社会はなんて脆いんや。

 大阪府警察の記者クラブの読売ボックスで新聞を広げていた加藤は、おおきく溜息をついた。

「なんや? 〝事件の加藤〟が、元気ないのう。加藤が落ち込むなんざ。珍しのう?」

 大阪府警察記者クラブの毎日新聞の吉山利嗣が、訪ねてきた。

 坊主頭に、無精ひげの背の高い,痩身の背広の男である。

吉井は確かに不思議な印象を与える人物だった。年は加藤と同じくらいに見えた。すらりと細い体に、がっちりした肩や首がクールな力強さを感じさせた。短い髪、きつそうな眉、ちょっと見には吉井の着ている背広がぴったりと似合いそうなあざやかな男だった。が、瞳だけは違った。吉井のまなざしは妙に鋭く、何か重大なことを知っているようだった。

瞳だけが老成しているような。

「なんちゅう顔しとんねん? 大阪でこんなごっつうおもろい事件おきてんのに。これから、まだまだおもろくなるでえ。楽しみやな」

「ハンター吉山の登場か。ここは読売のボックスやで。なんの用できたんや?」

「えろう、冷たいやんけ。加藤が元気がないいうのをきいたから励ましにきたんやないけ」

「……そりゃどうも。だが、グリコの犯人まだ捕まらんでえ」

「それがどうしたんや? 別にええやん。犯人が捕まろうが捕まらんだろうが。書けば、新聞は売れるんやし」

「よっさんはどう思う?」

「なにがや?」

「俺らマスコミがグリコの事件を必要以上に煽ってるんと思わんか? グリコの経営危機の一端は俺らにも責任があるんと違うんか?」

「なに青臭いこというてるねん。マスコミは報道する、書くのが仕事やろ? なら、青酸ソーダのことを報道せんでもええいうんか? それでどこかでガキ死んでみい。責任問題やぞ」

「……それはそうやけど」

「俺らが警告して、国民が警戒する。それが俺らの役目やないかい。そんなことで悩んどったんかい。あほくさ。マスコミは報道してナンボや。嫌なら指くわえて書かなければええ。せやけど、加藤もやっぱ書くんやろ? なら同じ穴のムジナやで。俺は絶対にこの事件の犯人の逮捕のスクープを抜いたる。他の誰でもない。俺がやるんや!」

「それは、俺だって誰よりもはやく抜く覚悟や」

「それみい」

「せやけど。グリコがここまで追い詰められてんのに。マスコミには何の罪もないゆうんか? 警察を批判するだけでええんか?」

「あほらし。それは警察の仕事やろ! マスコミがなにびびってんねん!」

 報道の意義を考える加藤と、ただスクープを追う吉山……ふたりは喧嘩別れするしかないのか? そして、五月三十一日。犯人グループは大阪市内の焼き肉レストラン「大同門」に、白いカローラで三億円をもってこい、と命令文で指示してきた。

 

 勝久  え

 まえと おなじに  3億円  よおい しろ

 6月2日ごご8じ30分  摂津市鳥かい中1 のやき肉大同門で

 白のブレザーと  白のズボンの  45才いじょうの  社いん 2人

 白の  カローラに  金のせて  まて ひとりは店の中で  まて

 ひとりは  車と金の ばん人や 店の中のもんは 東食の中村

 ゆ×う なまえに  しておく  8じまでに 店に はいれ

 れんらくは  長おか香料  道修町の  方え する

8じ30分に  TEL したら  長おか香料の江崎です  ゆえ

手紙あるとこ  おしえたる

江崎も中村も  わしらの  ゆうこと なんでも  きくんやで

ゆうこと   きけば なにも  せえへん

 中村は  できるだけ まどのちかくへ  すわれ

 大同門は  TEL 0726 54 30●●や


かい人21面相


おたがい  これで  おわりに  したいもんやな


大阪府警察のたたき上げのノンキャリ部隊・捜査一課の課長・平野雄幸(ゆうこう)は、檄を飛ばす。

「ええか! 江崎社長の誘拐からもう二か月以上経つ。遺留品がこれだけありながら、警察は犯人グループの尻尾さえつかめない、と国民に無能呼ばわりされとる! もう、あとはないぞ。六月二日は、犯人たちの命日にするんだ。死ぬ気で、この捜査一課特殊班の意地をみせるんや!」

 警察とグリコは本物の三億円を用意した。カメラで撮影し、通し番号をすべて記録し、目に見えない特殊な塗料を札束にブラシでかけてマーキングした。

 辻は、「これで何度目だ? 犯人グループが現金要求してくんのは……」と眉をひそめた。

 平野課長は辻に、「今度こそ逮捕やぞ。マスコミの連中は俺がなんとかする」という。

 そのマスコミ対策が、記者クラブの記者たちを謝恩目的のボーウリング大会に誘うことだった。その間を突いての「大同門」での捕り物劇であったわけだ。

 まさに、警察の威信をかけての大捕り物で、あった。

 だが、前述したように、犯人たちはアベックの男を利用して、警察は必死に対応するも、逃げられた。何故か、ワルにすぎない犯人たちは幸運に恵まれた。

 恋人の女性を人質にとられた若者・兼続雄則(仮名)さんは現行犯逮捕された。が、グリコの事件には全く関係ない。誤認逮捕であった。

 だが、そうとは知らない吉山利嗣記者は、『グリコの犯人ひとり逮捕!』と、スクープを打った。

「よし、スクープや! やったでえ。俺が大スクープや!」

「吉山、ようやった。新聞協会賞ものやでえ!」

 キャップも褒めた。

 だが、すんでのところで、誤認逮捕がわかり、一面は〝記事差し替え〟になった。

「くそったれ、誤認逮捕ってなんやねん!」

 吉山は毎日の記者ボックスで、苛立ち紛れにゴミ箱を蹴飛ばした。

 ……くそっ。なんやねんなあ! 吉山は大阪府警の待合所で、タバコをふかした。

それにしても、こんなおいしい取引なのに、どうして自分の目の前ですべてくずれてしまうのだろう。どうして、吉井の耳の前でばらばらになって倒れてしまうのだろう。

とにかく、誤認逮捕など糞っくらえだ。大嘘や冤罪でジャーナリストのケツを悩ますかわりに、クジラを助けるとか、原発のメルトダウンを追いかけるとかしたらどうなんだ。

「一面差し替え、らしいなあ。よっさん?」

「加藤。なんや。……笑いにきたんか?」

「んなわけあるか。捕まった男は、恋人を人質に取られて仕方なくやったらしいなあ」

「大スクープやと思うたんやけどなあ」

「それでもええほうやで。俺らはその大捕り物があったことさえ知らんかった。〝進退伺い〟もんや」

「もらったと思うたが。犯人おもろいやろなあ。もう、マスコミも警察も、振り回されっぱなしや」

「なんやろね。この事件。捜査一課も、秘密保持に必死や。ボウリング大会だの。俺らをだまして。本当に、〝保秘〟課長やん」

 そのあと、加藤は荒れた。

「なんや、この記事は?! 誰がこんな〝飛ばし記事(事実を確認せず書く記事)〟書けゆうたんねん! もっとちゃんとした記事書かんかい!」

「………毎日に抜かれたからって、僕らに当たるのはやめてくださいよ。加藤さん!」

「誰が、当たってんねん! そんなんちゃう!」

 徳永キャップは深く息を吐き、たばこを灰皿にねじこむ。

「負け犬の遠吠えにしか聞こえへんぞ。加藤! 悔しかったら、誰もがあっと驚くスクープとってこんかい!」

 まあ、もっともな意見である。

 だが、このとき、加藤さんたちは捜査一課の特殊班たちが列車内で、例の〝キツネ目の男〟に遭遇する捜査をしていたことに、気づいていなかった。

 戦後最大の未解決事件『グリコ森永事件』の犯人のひとりとして記憶されるキツネ目の男……捜査員たちはその男に遭遇していた。

 その事実を加藤さんたちが知るのは、これより、随分と、あとのことになる。





  第二章 警察への挑戦 あほども え



   


挑戦状とトリック


 元・兵庫県警捜査一課の開発さんは、大量消費時代のブツの捜査の行き詰まりを、事件が未解決となった敗因にあげる。

「物や車の捜査は、一個・一大でも調べ漏れがあったら駄目だが、こういう時代だとどうしてもたどり付けないものが出てきてしまう。対面販売であれば、もう少し客との会話などをする中で、販売した店も憶えているものだけれど……」

 当時は、対面販売から、スーパーのような大量販売・大量消費時代に変わっていた。

 江崎社長がかぶらされていたスキー帽も、結局、犯人までたどり着けず。同じく江崎社長が着せられていたコートも『戦前の希少商品』とまではわかったがたどり着けず。

 犯人グループがつかったタイプライターも、都内のタイプライター屋から、山下、と名乗る男が購入したようだったが。やはり、マル被(被疑者・犯人)にはたどり着けなかった。

 笑われたくないという躊躇もあった。キツネ目の男や、ビデオに映った巨人軍の野球帽のパンチパーマの男……これらが容疑者のレーンに浮かんだとき、「よかった。これで逮捕できるよね」と、警察は安堵した。だが、未解決事件になった。

 このままではおわれない。何故、事件は未解決におわったのか?

 元・大阪府警捜査一課・前和博氏がようやく目を開いた。

「なんで我々が失敗したのか。それを知るのは犯人だけでっせ。私も聞いてみたい。どこがダメだったんやって。あの事件は楽しかった。刑事としての追跡劇。せやけど、未解決事件になった。今思えば、焼き肉大同門での大捕物が、犯人逮捕の最大のチャンスだったんではないか?」

 グリコ事件の最大の山場の『大同門での大捕物』。そのあとは、丸大食品脅迫での列車で遭遇する例の〝キツネ目の男〟。そして、森永製菓とハウス食品への脅迫での、大津サービスエリアでの大捕物………これがすべてである。

 そして、警察は敗れた。なぜ、敗れたのか?

 結論はまだ少し先になる。

 少し話しを戻す。

電話をかけてきた搜査員による脚色からか、事実関係で不正確なところもあった。だが、いま読み返しても迫力満点の紙面だ。

大阪府警刑事部長の鈴木の公舎にも、顔なじみの毎日の記者・吉山利嗣がやってきた。

「公舎で寝ていたら、呼び鈴を鳴らされてね。出ると、府警担当のサブキャップがいる。その男がいきなり、部長、おめでとうございます。逮捕、おめでとうございますというわけだ。俺がしゃべろうとすると、ああ、もういいです。おめでとうございます。帰りますといって帰っていった」

確かに、男の身柄は拘束したものの、しかしこの時点では釈放されていた。そのことを明かすわけにもいかず、刑事部長の鈴木は複雑な心境だった。で、記者を見送った。すると数時間後、再びサブキャップがやってきて、両腕でXの字をつくりながら「これです。やめました」というと、逃げるように帰っていったという。

この日は土曜日である。すでに日曜日の朝刊の締め切り時刻が過ぎていたため、月曜日の朝刊に出稿する原稿の打ち合わせとなった。

吉山が翌日にはメインの原稿を書き、他の社会部員がサイドスト—リ—や解説記事を書いた。6月4日の朝刊早版は、一面のほぼすべてを使い「グリコ事件」一人逮捕! との大見出しの予定であった。

「グリコ・森永事件犯人グループがさる六月二日夜、グリコから三億円を奪取しようとして未遂に終わった事件で、グループは警察の動きを察知して現金運び役に仕立てた会社員との合流予定場所の堤防下に姿を現さなかった、と見られていたが、十九日までの大阪、兵庫の捜査本部の調べで実は犯人らは会社員から奪った乗用車に乗り予定地に待機していたことが明らかになった。堤防周辺で待ち伏せていた捜査員による通過車両のナンバーチェツクで判明したものだが、当時、会社員が新車のナンバーを覚えていなかったため捜査員らは、目の前を通り過ぎる車に犯人らが乗っているとは思わず、犯人らは悪運強く警察の包囲網から逃れた」(198 4年11月20日付『読売新聞』)

この記事を読んだかい人21面相は、2日後の11月22日、 全国のすいりファンの みなさん え 2 と題した挑戦状を送り付け、またもや警察を嘲笑愚弄した。

11月20日の よみうり みたか

6月2日の  3億円のとき

わしら  ポリ公と あいさつ しとんねん

ポリ公  わしらの あいさつ むし しおったから

わしらも むし したった



当時の捜査幹部は言う。

「買い替えたばかりなので、自分が乗っていたチェイサ—とすれ違っているのに、それが自分の車だとわからなかった。あの時間に、あの場所ですれ違ったチェイサーを、あれが自分の車ですと言ったら一発で捕まえていた。車をぶつけてでも捕まえていたんですがね」

「大同門」の攻防から半年後、読売新聞は、警察の目前を「グリコ犯人」が奪った車で通過したと発表した。

兼続はこのあと、捜査員に伴われ寝屋川署の取調室に入っている。一週間も取り調べを受けた。ふたりの捜査員から、午後11時過ぎから深夜1 時過ぎまで、事情聴取されたのだが、何を聞かれたのかほとんど記憶がない。ただ、同じことを何度も聞かれ苛立ったと言った。

「何度も何度も似たようなことを聞かれて。しかも説明してるのに、一方的にさえぎって 別のことを聞いてくる。なんで話聞いてくれんのやと、かーっとなったのを覚えてる」

取り調べの途中で、眼光の鋭いベテラン捜査員がいったん席を外し、再び取調室に戻って来るとこう言った。

「彼女、死んだで」

兼続は、一瞬にして、頭の中が真っ白になってしまった。身体じゅうの力が一気に抜け椅子 からすべり落ちている。呼吸が苦しくなった。

ベテラン捜査員が口を開いた。

「噓や。生きてるで。大丈夫や」

驚愕と当惑が入り混じった目で兼続は、捜査員を見つめ返していた。

「ああ、よかったと安堵したのだけ覚えてる。なんで噓つくんやとは聞かなんだけど、いまにして思えば、あの人は、最後に試したんだと思うわ。どういう態度に出るのかをね」

もし兼続が本当に犯人の一味であり、かい人21面相に襲われた女の子を 「彼女、死んだで」と言われても、ずいぶん間の抜けた反応になったかも知れない。ようやく自宅に帰ることを許された。

襲われたというのが狂言だとすれば、無反応だっただろう。このあと、取調室を出ると、廊下の先に、犯人に拉致されていた彼女の姿が見えた。彼女もちょうど取調室から出てきたところだった。

兼続の恋人だったこの女性は、頭から布袋をすっぽりかぶせられ1時間ほどかい人21面相に拘束されていたという。解放された時刻は午後9時半過ぎで、場所は拉致された堤防道路から2キロほど北東の京阪本線光善寺駅であった。

この日、かい人21面相は二手に分かれ、ひとりが女性を拘束し、堤防道路から数分走ったところで待機していた。あとのふたりは兼続を「大同門」で降ろすと、再び堤防道路まで戻っていたのである。



当時の捜査員や捜査幹部たちもまた、事件が落とした影に悩まされ、抱える記憶のトラウマ(心的外傷)に悩まされてきた。元中部管区警察局長で、大阪府警刑事部長として現場を指揮した鈴木も、いまだに「大同門」の悪夢にうなされることがある。

「あのときにね、僕らがこういう指示を出しておけばよかったということが、山ほどあるわけです。このとき、こうしてれば捕まえることができたんじやないか。現行犯逮捕できないまでも、容疑者として引っ張れたんじゃないかというポイントがあるわけですよ。そういう反省を、いまだに繰り返している。こういう話をした日の夜は、また夢を見る。大同門での悪夢ですよ」

感情が高ぶったのか鈴木は話しながらも声を詰まらせた。みずからグラスにビールを注ぐと 一気に飲み干し、「ビールでも飲まなきや、この話できない」と続けた。

「夢に見るのは、必ず大同門。俺は、自動車の上空から見てるんだ。ナンバー見ろ! と叫んでる。ようやく追い付いたら、ナンバープレートが真っ白なんだ。そこで決まって目がさめる」

大企業である江崎グリコや森永製菓をねじ伏せ、悲鳴をあげさせ、要求したカネを払わせる必要が犯人にはあった。単に力ネが目的の犯罪とは違った異常さが絶えずつきまとったのは、この犯人達の男の倒錯した邪悪性に起因していたのである。


標的とされた菓子メ—カーや食品メ—カーが一様にかい人21面相に震え上がったのは、 の犯行の手荒さに加え、その執拗さによるものだった。

江崎社長を拉致したあとも、グリコに対しては、本社に放火し、江崎夫人や子供たちまでを殺害すると脅し続けた。また、森永製菓に至っては、青酸ソ—ダを混入させた森永ミルクキャラメルほか8種類18個の森永製品をスーパーやコンビニの店頭に置いて回った。

いっさい販売できなくさせている。国民の食の安全を人質にしたのである。

脅迫状が届いた直後、森永製菓は記者会見を開き、犯人の要求をきっぱり拒否すると宣言したからこそ、森永製菓を目の敵にし、責め苛んだのだ。

かい人21面相に逆らえばどれほど大きな代償を払わされるか。森永で示しておかなければ、この先、企業恐喝という計画が成り立たなくなる。なにより、公然とプライドを潰されたことで、理不尽な怒りを爆発させたのである。



あすの ごご5じまでに  藤江部長の タカツキの うちのまえに おけ

車には 北摂の道路に くわしい会社の 運てん手だけのって おけ

れんらくは 藤江のうちえ 

TELする このことをしらせてええのは  とりひきさきの

銀行の支店長と  会社の運てん手と 金子と  藤江だけや 

けいさつに しらせたら 人質を かならず 殺す

けいさつにも 会社にも 電電公社にも ナカマがいる

ぎやくたん知しても すぐわる  藤江  のうちと 会社は

かんぜんに みはられている

関西の道路ちづと タカツキのちづと  メモ用紙と かくものをよおいすること

現金や 金や 車には ぜったい さいくするな

ワイヤレスマイクも 小がたムセンも むだや 

運てん手に  けいじ  つかったら すぐばれるで

ながびかそうとしても だめや 声ださずに メモだけするんや

金もらったら 科学的な調査して  24じかんしたら 人質をかえす

現金は 新さっを つかうな

         かい人21面相


キツネ目の男の上司のリーダー格の男は、江崎社長の拉致から「大同門」でのあいだだけで、14通の脅迫状と挑戦状を出している。全容を把握しておくことは重要である。

警察との攻防劇に至るまでの74日問のほぼ5日に一通の頻度で書かれた、

その最初の脅迫状がグリコに届いたのは、江崎社長の拉致から約5時間後、3月晋午前1時ごろだった。





    キツネ目の男、登場

 

 六月二十六日。

 犯人からの突然の終結宣言によって、全国的に安堵感が広まった。

 一方で、手がかりすら掴めないでいる警察に世間のいらだちが集中した。送られてきた脅迫状や挑戦状は二十枚以上。江崎社長に着せられたオーバーコートにスキー帽など、これだけの遺留品が残っているにもかかわらず、大阪府警は未だに犯人グループにたどり着けていなかった。ローラー作戦も80万世帯を突破したが、目立った成果はなかった。

 そんな中での、犯人グループからの終息宣言であった。


 全国のファン の みなさん え

 わしら もう  あきてきた

 社長が あたま さげて まわっとる  男が あたま さげとんのや

 ゆるして やっても ええやろ

 ナカマの  うちに 4才の こども いて まい日 グリコ

 ほしい ゆうて ないている わしらも さいきん たべへんけど

 むかしは よう くうた もんや

 こども なかせたら あかん うまい くいもん のうなったら

 わしらも こまる

 江崎グリコ ゆるしたる スーパーも  グリコ うってええ

 青さんいりの チョコレート 18こ は もやしてもうた

 1こは 5月9日に ダイエーイバラキ店え おいた

 どおなったか しらん 1こは べつの 店から 5月18日に

 とりもどした

 日本は むしあつう なってきた ひとしごと  したら

 ヨオロッパえ いくつもりや  チュウリッヒ ロンドン パリ

 の どこかに おる

 けいさつも ようやった  これに こりんと がんばりや

 ホームズ君でも わしらには かてんのや かい人21面相

 よんだら あたま  ようなるで

 けいさつの ヨオロッパ  ツアー

   かい人21面相を  つかまえに ヨオロッパえ  いこう

  たびの  おともに グリコの ポッキー

  わしも  たべてる おいしい グリコ


 かい人21面相


 らい年 1月に  かえってくる


 突然の終結宣言………だが、それは嘘だった。

かい人21面相は、ターゲットを江崎グリコから、丸大食品に移していたのだった。

 そして、犯人グループかい人21面相の指示で、列車に乗り込んだ大阪府警捜査一課特殊班の七人は、あの例の〝キツネ目の男〟に遭遇する。

 だが、その事件の第二幕の開幕を、加藤たちは知る故もなかった。


「なんかあっけないですよねえ」読売の記者クラブボックスで、部下がタバコをふかした。

「散々、犯人グループかい人21面相に俺らも踊らされるだけ踊らされて……急にハシゴを外された気分やわ」

「特殊班の面目丸つぶれやな」

「動いていたのはほとんど特殊班やろ。警察内部で保秘(情報を隠すこと)までして、結局捕まえられんなんてみっともないなあ」

「……辻さん」加藤は辻正義警部のことを思った。で、続けた。「ほんまにおわったんやろか?」

「え? なんやて?」

「この挑戦状は、ホンマに終結宣言やろか?」

「なにゆうてんねんな、加藤さん。あきたからヨオロッパにいくって書いてあるじゃないですかあ?」

「加藤。お前の心をあれだけ動かした事件やから、残念な気持ちはわかる。しかし……世間ではもうおわりや、っていう雰囲気なんやで」

「ですが、〝ひとしごとがおわったら〟……とありますよ? なにより、犯人たちはまだ捕まっていない。こんなのおわりじゃないですがな」

「……考えすぎですよお。加藤さん」

 ……考えすぎ?? そうやろか? だが、まだ犯人グループかい人21面相は、何も手にしてへん。このままおわるような犯人たちやろか?

 加藤譲は眉をひそめた。

加藤は眉をひそめたが、また、電話の方をむいた。その場で、凍り付き、一瞬、目を閉じた。加藤はあわてて振り向いた。鏡に映る加藤の顔は暗く、眼はベーリング海のように冷たかった。「脳みそにギアを入れようという気にはないのか」と怒鳴りつけた。「一度でいいから」徳永は加藤が四方八方から受けている圧力のことを考慮に入れた。加藤が長いこと圧力釜に入り過ぎていたため、釜のバブルが壊れて、あらゆるものがふきこぼれていた。自分はここにいて、限られた金と、限られた時間で、危なっかしく生活をしながら何もかも一人でまとめようと奮闘しているのである。

「なんだよ……今度の……問題は」歯をぎりぎりかみしめながら、物騒な口調で加藤は言った。急に空気をのみ込んだ拍子にのど仏が上下した。

「問題……か?」

「おれの内面の問題ですがな」ようやく答えた。その言葉は胸の奥ふかくから引き出したものだった。加藤はかすかな苦しい微笑を見せた。

一同はしばし沈黙に陥りそれぞれの思いに浸った。

加藤は今、傷つきやすい孤独な心で、素直な本音を吐露した。

「おれは誰と話しているのか、すぐに忘れちまうんや。すんまへん」

かすかな悲しげな微笑とともに加藤はささやいた。

加藤の読みは当たっていた。

 終息宣言が発表される四日前の六月二十二日、丸大食品に脅迫状が送りつけられていたのだ。要求額は五千万円。丸大食品への脅迫状を知るものは大阪府警の特殊班のみ。トップシークレットとして扱われた。ちなみに、何故『グリコ・森永事件』といい、『グリコ・丸大食品事件』と呼ばないか? は、このように捜査が極秘であったことに起因する。

 捜査一課の捜査員・中でも特殊班は、頭にきていた。

「何が終結宣言や。大嘘やないかい! 次は丸大食品やないかい!」

「落ち着け、熊谷。冷静さをかいたら犯人グループかい人21面相の思う壺だぞ」

 辻は、部下を宥めた。

 続けて、「もうそろそろ、会議室を出よう。特殊班だけで、長い時間、会議室つこうたら、怪しまれる」この捜査は、特殊班以外は誰も知らなかった。

 辻と熊谷は、会議室を出たところで、他の警察官の刑事達につめよられた。

「また、〝保秘〟か? 特殊班よお。俺らにも情報をあげろや」

「そうや。お前らが無能なせいで、俺らまで世間に無能扱いうけてんのやぞ!」

「別に、なんも情報を隠したりしてへんでえ……」焦った。

「この。嘘つくなや!」

「このままやったら三億円事件の二の舞やでえ」

「そうや。こんなん情報隠して捜査しとったら、百年経っても犯人は捕まらへんでえ!」

「知らん!」

 辻たちは場を誤魔化し、去った。

 辻さんは、〝夜回り〟で訪ねてきた加藤に居留守をつかう。

「でも、あなた。もう事件はおわったんでしょう?」

「……いいから。おらんて、いうてくれ。もしくはもう寝た、と」

実は、犯人グループは、丸大食品の役員宅に職員を配置せよ、と指示していた。

 役員宅で、警察たちが録音用のテープを配置して、潜んでいた。

 そこに、女性の声でのテープ音声で、電話がかかってくる。

 当時、警察は女性を三十代から四十代の成人女性、として、ハウス食品への脅迫のテープの男児の声を、男児一人、としてカウントしていた。

 だが、NHKの取材での音響研究所で、成人女性とは別に、十代の少女と、ふたりの男児がいた(ひとりは言語障害の男児)ことがわかった。この際は、つまり、十代の少女の録音テープが流されたわけである。

「高槻の西武デパートの三井銀行の南の市バス降り場の観光案内図の裏」

 と指示してきた。観光案内図の裏に貼られた指示書には、

 国てつタカツキ駅に はいれ

 8じ19分の 京都ゆき かく駅てい車に  のれ

       19分のれんかったら 32分や

 青色の  でん車や

 うしろから 2つめの 京都え むかって ひだりがわの

 ○印の ところへ すわるんや (略)

 1メートルしかくの 白い はた みたら バックを

 そとに ほおりだせ


と、書いてあった。大阪府警捜査一課特殊班のうちの七名は、一般客を装い、列車に乗った。

もろん、耳には連絡用のトランシーバーのイヤーフォンがある。

 マルケイ(現金持参人)は、わざと、犯人の指示の裏をかき、先頭車両の左窓際に座らせた。こうすれば、犯人たちはあちこち探しまくるのに列車内を移動する筈である。

 元・捜査員のひとり、松田大海(ひろみ)氏は証言する。

「例の〝キツネ目の男〟が途中で乗ってくるのと前後して、怪しげなインテリ風の背広の男が降りていった。これも、犯人の一味ではなかったか。頭の切れるリーダー格の。だが、二兎は追えない。〝キツネ目の男〟とは別に、座席に座りながら、無線機をいじっている怪しげな男もいた。警察の〝無線〟がつかえんな、と思った」

 昔は、警察の無線もアナログ無線であり、やろうと思えば警察無線も傍受できたのだ。現在はデジタル無線であり、スクランブルもかかっているために傍受は不可能である。

 そして、例の〝キツネ目の男〟は現れた。

 俳優の矢崎滋似の男で、右手に傘、左手に新聞をもち、軽いパーマ頭で、灰色の背広に、カットシャツにネクタイに、眼鏡の奥の眼はつりあがった、まさに〝キツネ目〟。眉が薄く、唇もうすく、とにかく怪しい人間に見えた、という。

 最後尾の車両から、ゆっくりと先頭車両に向けて歩いて行く〝キツネ目〟……

 先頭車両の接続部あたりで、立ち止まると、じっとマルケイ(現金持参人)を睨む。

 途中に、傘の先を、列車の床に、コツン、コツン、とならして歩く。

 他にいるナカマへの暗号か、合図かなにかなのか。

とまったあとに、

「小銭を出して、掌で転がしたり……腕時計を左手から右手にはめかえてみたり。とにかく怪しい雰囲気の男やった」

 元・捜査員のひとり、岡田和磨さんは証言する。

「忍者が、石垣の前で、潜んでいたら怪しいでしょう? 〝キツネ目の男〟も、そんな怪しさがあった。でも、あまりに怪しいので、捜査員も全員、犯人グループかい人21面相の一味のひとりや。思うたけど。ただのレポ役(連絡係)だ、ともおもいはじめた」

 ちなみに、岡田さんが、例の〝キツネ目の男〟の似顔絵を描いた。

 京都駅に着くと、マルケイ(現金持参人)の男(捜査員の一人)に〝キツネ目の男〟は執拗に粘着し始めた。途中に、白い旗が見えたが、見えなかったフリをして、現金入りのバックを投げなかったのだ。執拗に、ついてくる〝キツネ目の男〟……トイレにまで。

 捜査員は「職質(職務質問)したい」と、願うが、反対された。

 捜査員の部長からの指示は、徹底追尾、一網打尽。ただ、怪しいというだけで、職質して、署に連行してもどうしようもない。自分は関係ない。グリコ事件とは関係ない。ただ、駅で歩いていただけ。と、シラを切られればそれ以上、突っ込みようがない。

 現金に手を出さないなら、現行犯逮捕にならない。一網打尽のチャンスを逃し、犯人たちにこちら(捜査関係者・警察)の「手の内を見せる」だけになる。徹底追尾や。

 四方さんはそう証言するが。

 だが、当時、この〝キツネ目の男〟は捜査員全員が、「犯人グループの一味に違いない」と思っていた。だが、職質の許可は、下りなかった。

「おれが酔ったフリして喧嘩ふっかけますから、おれごと、あいつ(キツネ目の男)を逮捕してください!」

「あかん! 捜査本部長の指示に従うんや!」

「……あれは犯人グループかい人21面相の一味に間違いありまへん。このチャンス逃したら、もう二度と捕まえられへんかも!」

「あかん! あかんゆうとるやろ!」

 ……こうして、警察は〝キツネ目の男〟に逃げられた。

 くそっ! 署に戻り、机を苛立ち紛れに叩く。

 捜査員の〝似顔絵のプロ〟岡田和磨さんが〝キツネ目の男〟の似顔絵を描く。

「こいつや!」女刑事が吐き捨てるように言う。

「そうや。こいつや。この〝キツネ目〟ええや!」

 捜査員はいきり立った。

「〝キツネ目の男〟Fox……訳してFや。こいつを徹底追尾や。いいな!」

 こうして、警察VSキツネ目の男+かい人21面相の戦いは、はじまった。






最終章 けいさつの あほども え

    かい人21面相の逃亡




 

   犯行


放送記者でつくる「記者クラブ」との間で、警察への報道協定が結ばれる。そして事件に関するすべての報道は差し止められ、一種の報道管制が敷かれることになる。

この協定は、1960 (昭和35)年の「雅樹ちゃん事件」の反省から生まれたものだった。 小学身代金を要求される2年生の男児の誘拐事件が発生した際、マスコミ各社は激しい取材競争で捜査状況などを逐一報道した。その後、逮捕された犯人が、誘拐から3日目に「雅樹ちゃん」を殺害したのは「新聞の報道で非常に追いつめられた」からと語ったそのため、誘拐事件では「報道を自制する協定」が結ばれることになったのである。

事件発生現場を管轄する兵庫県警は、江崎社長が拉致されたときも、拉致から約7時間後の 3月19日午前3時55分に兵庫県警記者クラブに報道協定の申し入れをおこない、午前4時55分に仮協定が結ばれた。だが、すでにこのときには「江崎社長の拉致」を報じる各紙の朝刊はほぼ刷り上がっていたのである。

朝日新聞は、朝刊一面トップで「グリコ社長を連れ去る」「入浴中、裸のまま」「『10億円出 せ』と脅迫文?」の大見出しを掲げた。毎日新聞や読売新聞も、拉致されたときの状況や犯人の特徴などを詳報した。テレビにしても朝5時からのニュース番組でこの事件を取り上げ日本中が大騒ぎとなった。

報道協定が結ばれながら、なぜ、このような事態を招いたのか。


とりひきは いっさい しない

/いうことだけ きけ

推理小説に出てくるような文面だ。だが、現金三億円円と金100kg という要求額を逸しているうえ、 けいさつ に しらせたら 人質を かならず 殺す という定番の育し文句にしても間の抜けた印象を受ける。

実際のところ、この脅迫状は世間を驚かせ、騒ぎを大きくするための一種の「法螺」であった。前年にはオランダのビール会社ハイネケンの会長とその運転手が誘拐され、身代金23億円を要求する事件が発生していた。これにヒントを得て、日本でも要人誘拐の時代が到来したかのように演出したのである。

だが、キツネ目の男たちの犯行は、単純な誘拐ではなく、巧妙なトリックを組み込み、逮捕のリスクを最小限に抑えた練りに練った計画であった。


藤江さん ですか

藤江のアホ、金子のドアホ お前ら わしを 殺す気か

警察の 動きは 筒抜け や 

藤江の 家におる デカ追い 出せ

犯人に 殺されかけた もう一回、警察を 使うと わしを殺す

金はあきらめる と 犯人は ゆうとる

犯人の ゆうとおりにしろ 警察が手を引いたら 連絡が ある

あるぞ! 藤江 金子 

頼むから 俺の ゆうこと聞いて 犯人のゆうとおりしてくれ。

ほんまに殺されるぞ

警察庁の元幹部によれば、この録音に関しこれまで公表してこなかった事実があるという。

「犯人が江崎社長に読めといって渡した脅迫状の原稿を、どういうわけか節々で中断させているんです。自分たちの声が入らないようメモをかざして、ここで3秒空けろとか、再び読めと指示してるんですね。なぜ、そんな指示をしたかと言えば、テ—プを編集しやすいようにするためでしょう。その後、丸大食品や森永製菓などに犯人が、模倣犯や愉快犯ではない真犯人の証明として江崎社長の肉声テ—プを送りつけていますが、それらはいずれも声の順番を微妙に 入れ替えてありますから」

「マスコミ各社力脅迫状の内容を把握し、勝手に記事にしているとは、報道協定を申し入山 た時点ではわからなかった。気づいたときはすでに遅く、もはや終盤。『協定を申し入れなかったのです」

すでに遅く、もはや記事を差し止めることができず、警察発表を待つことなく、記者たちが脅迫状の内容を把握できたのは、パトカーの警察官が、本部への報告のため警察無線でその全文を読み上げていたことによる。当時の警察はアナログ無線だったため、簡単に、盗聴ができた。警察担当の新聞記者や放送記者たちは、警察無線の盗聴を日課としていた。

彼らはこの脅迫状の全文をリアルタイムで聞いていて、朝刊の締め切り 間際に、記者クラブの各ブースから競うように出稿していたのである。

報道によって、全国の人々が事件を知った。この日の夕方、大騒ぎになっていたが、キツネ目の男は、脅迫状で指定した藤江取締役の家に電話を入れ、江崎社長の肉声が録音されたテープを流している。犯人らは、拉致した江崎社長を水防倉庫に連れ込んだ直後、文面を読ませ、小型カセットテープレコーダーに録音していたのである。




「三十時間はここから動くな。動くと奥さんと娘の命はないぞ」

当初、江崎社長は、その命令を守りじっとしていたが、外で監視している気配がなかった。そのため、手首を何度となく動かし、両手を縛られていたロープを外すと、水防倉庫から自力で脱出した。外は、荒涼とした野原に涸れかかった河川が流れているだけで、監視役の犯人どころか人っ子ひとりいなかった。

「かりに、人質を担保にカネを取るつもりなら、江崎社長の拉致に成功しながら、水防倉庫にひとり残し、すんなり逃がすようなことはしない。徹底した監視下に置くか、殺すのが普通です。じっとしている時間を30時間と切ったのは、わざと逃がすつもりだったということでしょう。最初から逃がすことを予定していたのだから、グリコへの恨みで起こした事件でもない。一般的に事件というのは、難航し捜査幹部が悩むと怨恨説を採用したがる。深読みしたくなるんですね。ですから、幹部が頭を働かすと、ろくなことにならないんです」  

警察庁元幹部のこの見解は、しかし合同捜査本部で共有されることはなかった。

その後も事あるごとに怨恨説が浮上し、犯人像の絞り込みの妨げになっていくのである。

ただ、犯人グループかい人21面相にとって、多少なりとも計算外だったのは、江崎社長が完全なマインドコントロール下にあると高を括っていたことだ。

30時間は水防倉庫でおとなしくしているとの前提で、水防倉庫を後にした約17時間後、拉致から4日目の3月21日午後3時3分、二度目の録音テープを藤江取締役の自宅にかけて電話で流している。江崎社長は予定ではあと半日、水防倉庫でおとなしくしているはずだったからだ。



にげたり  さかろうたり したら おもえも 長女も 殺すいうたやろ

ナカマは みんな はらたてとる

やくそくどおり むすめ殺せ いうもん も おる

おまえを もう1ど うちごと マイトで

 ばくはして 殺せゆうもん も おる

さろうて 塩さんで かおあろうたれ いうもん も おる

みな殺し したれ いうもん も おる

よめはん さろうて いたずらせえ いうもんも おる

鉄ぼうだま ぶちこんだって 殺せ ゆうもん も おる

おばやし の 聖心や にがわの学こう え

おもちや に して 殺したれ いうもん も おる

青さんソ—ダ ばらまいたれ いうもん も おる 

ほかのもんも みんな はらたてとるで

わしひとりが ナカマが あばれるの を とめているんや

もう1どだけ チャンスをやる

こんど わしらを うらぎりおったら おまえら6人は

わしらに 殺されるまで いきるだけや

(略)

いのちと 金と どちらが たいせつや

        かい人21面相


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