ガラシャ 細川ガラシャ物語

長尾景虎

第1話 ガラシャ 細川ガラシャ物語

小説

 ガラシャ

  細川ガラシャ物語


            ~細川ガラシャ夫人の生涯とその時代~

                     今だからこそ、細川ガラシャ


                 total-produced& PRESENTED written by

                  NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎


     this novel is a dramatic interpretation

     of events and characters based on public

     sources and an in complete historical record.

     some scenes and events are presented as

     composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


       ガラシャ   あらすじ

 細川珠が生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。父・光秀は越前朝倉義景の家臣だった。そして、やがて織田信長の家来に。桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとる信長。そして、秀吉は墨俣一夜城築城をつくる。光秀は先をこされる。

そして、さらに奇跡がやってくる。足利将軍が光秀の策により信長の手元に転がりこんできたのだ。信長は将軍を率いて上洛、しかし将軍はロボットみたいなものだった。

将軍は怒り、諸大名に信長を討つように密かに書状を送る。信長は、妹・お市を嫁にやり義兄弟同然だった浅井らにうらぎられ、武田信玄などの脅威で、信長は一時危機に。

しかし、機転で浅井朝倉連合に勝利、武田信玄の病死という奇跡が重なり、信長は天下統一「天下布武」を手中におさめようとする。彼は鬼のような精神で、寺や仏像を焼き討ちに。

足利将軍も追放する。しかし、それに不満をもったのは家臣・明智光秀だった。光秀は謀反を決意する。そして、中国・九州攻めのため秀吉と合流しようとわずか百の手勢で京へ向かう信長。しかし、本能寺で光秀に攻撃され、本能寺は炎上、織田信長は自害、すべてが炎につつまれる。

秀吉は光秀を討つ。逆臣の娘となった珠は、夫・細川忠興の命令により、珠を山中に幽閉。秀吉が天下を獲ると戻されるが、珠はキリスト教へ。秀吉が死ぬと珠は天下取りを目指す家康に対抗する石田三成の策で人質になるのを拒み、自害。38歳であった。




 第一章 光秀と珠






         1 光秀の娘



         越前の春



「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。

 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。

 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては、旧勢力は一掃されたのだという。

 そして、こんな時代に、明智珠は生まれた。

 その頃、信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶せんにし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰には火打ち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりエッチなこともしたりしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。

 かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。

 一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、信長の父・信秀が死んだ。

 尾張(愛知県)の農道を信長の一団が行軍していた。

 周りはほとんど田んぼや山々である。その奇妙な行進を村人たちは物見遊山でみていた。「うつけ(阿呆)! うつけ! うつけ!」童子たちが嘲笑する。

 織田信長は美濃(岐阜県)の斎藤道三と会うために行進していた。

 信長のお共の者は八百人くらいだ。ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかった。浪人中だった光秀は泥に汚れながらそれを見ていた。唖然としていた。

「あれが…信長さまか。まさにうつけじゃ」呟いた。

 光秀はにやにやして馬上の若者を見た。

 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。

 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。光秀は圧倒された。

「噂どおりのうつけ者じゃ」光秀は笑った。

 道三にあいにいくのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。鉄砲の力を知っておる。あなどれない。

「うつけ! うつけ! うつけ!」村人たちが嘲笑する。

 馬上の柴田勝家(権六)もそれを見て笑った。

 なんだ、あの男は…。信長は、光秀がのちに自分の命を狙うなどこのとき想像もしていなかったであろう。




 竹中笹丸(のちの竹中半兵衛)は美濃国(現在の岐阜県)上田で生まれた。美濃国上田(みのこく・うえだ)では、竹中半兵衛や斉藤竜興がわんぱくに育っていた。

美濃上田の田んぼではのちの竹中半兵衛の竹中笹丸と弟の笹七がドジョウ取りをフンドシ姿でやっていた。当時、五歳かそこらである。

「兄上~っ」笹七はもうあきたとばかりに畦道にすわって文句を言う。

笹丸は「あと少し。ドジョウは母上の病気によいのじゃ」

とドジョウすくいの籠をかまえて粘り強い。畑の川辺ではおんなたちが歌をうたいながら洗濯をしている。笹丸・笹七の父親である竹中九郎惚右衛門は、

「笹丸! 笹七~!」と笑顔で声をかけて近づいた。「ドジョウすくいか? よしわしも!」

しばらく親子はドジョウをとった。「そっといけよ。おーっ!」

親子は泥だらけになった。

九郎惚右衛門は手ぬぐいで息子の顔を拭いた。「笹丸はいい面(つら)になりそうだ」

「侍の面か?」

「いい面が侍の面かどうかはわからんぞ。田を耕す百姓も商人もみんないい面をしておる。そういう意味ではみんないい面じゃ」

そうか、とばかりに幼い笹丸(のちの竹中半兵衛)や弟の笹七は頷く。

そんな時、畦道を孔雀のような羽根の旗指物をした伝令の侍が馬で駆け抜けた。

「何かあったのやもしれんなあ。」

竹中九郎惚右衛門は不安になった。

 美濃の国主・斎藤のちの斎藤道三は中部の平定のために行軍していた。

たぐいまれな軍事の才で美濃管領として関西を束ねるという使命に燃えていた。軍の行進で、白馬にまたがる斎藤道三。旗印や斎藤家の家紋などがたなびく。

一時関西の山奥で布陣をはり、幔幕のなかで休憩した。

山崎景綱は酒樽から酒をすくって呑んで、

「武田信玄め! またしても関西に出てきおって!」と文句。

後藤晴家は「松平(徳川)と織田と手を結び、ぬけぬけと関西をあらしまわってるわ!」

北条崇高は「それにしても織田め! 我らが正々堂々と堕とした城をまた寝返らせるとは」

吉江宗乃丞は「この山さえなければ、関西平定などたやすいものよ」と苦い顔をする。

斎藤道三は「山に邪心はない。邪心あるものは必ず滅びよう。われらは美濃管領としてこの関西を釈迦牟尼(しゃかむに)に恥じないすばらしき義の国とすることじゃ。義の心を掲げ、その役目をまっとうするのみ!」という。

そこに孔雀のような羽根の旗指物をした伝令の男がきた。平伏する。

「いかがした?」

伝令は焦って、

「竹中半兵衛さまのお父上・岩戸城主・竹中政景さま上田で溺死!」という。

「何と?!」

道三は驚いた。

竹中家は斎藤家とは旧知の仲だった。

岩戸城下は混乱の渦である。

竹中政景は斎藤道三の実の妹・梅姫(出家して仙梅院)の旦那であり、その子供はのちの軍師・竹中半兵衛となる十歳の童子のみ。

幼い頃の半兵衛には誰もついてはこない。

もう岩戸城や城下は騒乱の渦である。竹中九郎惚右衛門の家で九郎右衛門の妹のお紺が幼い甥っ子たちに、「笹丸、笹七! 家の中に入るのです。戦になるやも知れない。いいですね? 出てはなりませんよ!」といい家に急いだ。

笹丸(のちの半兵衛)だけは「戦かあ」と、にやりとする。

騒然の岩戸城下である。

そこに馬にのって斎藤道三がやっていた。

「射るな! 射るな!」九郎惚右衛門は足軽達が道三公に矢を射るのを止めさせた。

だが、少しの矢は放たれた。だが、さすがはマムシの道三管領さまだ。刀で矢をはじいた。

笹丸は山道の近くでそれを観て、「あれがマムシの道三管領(のちの斎藤道三)さまか。」と感心した。その道三は怪物のようだが大勢の雑兵たちを刀で一刀両断にした。

そして蹴り上げると雑兵たちくずれ、前にたおれた。みねうちだった。

他の雑兵たちは驚愕して腰を抜かすぐらいに騒乱する。

「道をあけよ! われは美濃管領・斎藤道三! 竹中政景の弔いに参った!」という。

黒い鎧にマントすがたの斎藤道三はまさにマムシの道三管領さまである。

雑兵は道を開けざる得ない。


「なんとおいたわしや。しかし、妹よ、心配するな。妹よ、おまえにはこの道三がついておる」竹中政景の遺体をみた道三は仙梅院を励ました。

息子の半兵衛も哀しい顔で遺体をみていた。

斎藤道三はガマの油売りからの成り上がり者の為に、妻も跡取りの子供もいたが忠誠をちかう家臣や重臣に恵まれなかった。よって道三の息子義龍は父・道三を殺し、奸臣のいう「義龍さまは斎藤道三の子供ではなく、前守護代・土岐家のお子」という嘘を信じた。

だが、道三の子とはいえ斎藤義龍は弱すぎた。竹中半兵衛を軍師としたが遅すぎた。

のちに竹中半兵衛は尾張の織田信長に、というより、その家来衆の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の軍師となり、斎藤家は滅ぼされる。

竹中半兵衛と明智光秀は、織田信長に嫁いだ斎藤道三の娘・お濃(帰蝶)とは幼馴染みの仲であった。初恋めいたことでもあったのだ。

竹中半兵衛と道三は山麓から領地をみた。

「わしのことを戦の天才、まむし、美濃のマムシの道三管領というものもいる。尊敬するものもいる。だが、神ではない。わしとてひとりの生身の人間……。哀しいときや辛いときや泣きたいときもある。じゃが、民のために民のための国をつくる覚悟がある!いいか、半兵衛。民をいつくしむ民のための政が肝要じゃ! わしとともに釈迦牟尼に恥じぬいい国をともにつくろうではないか!」

道三は目を細めた。「お主はその頭脳を生かし、軍師となれ!」

軍略で有名な半兵衛(のちの竹中半兵衛)は無言で頷く。まさに、圧巻である。

 義龍の子・龍興とその小姓の少年達は学び舎である美濃の雲龍庵(うんりゅうあん)で学ぶこととなった。教えるのは僧侶長の北方全宗と坊主達である。

だが、龍興は無口で表情もなく、なんとも困った性格であった。

口が重く、人間関係をつくるのが苦手であった。

仙梅院や兄の道三は遠くで見ていた。

やはり、龍興は誰ともうちとけずひとりっきりで暗い顔をしていた。

仙梅院は「龍興はあのように口が重く、他の小姓達もいちはやく龍興の意思を汲もうと必死なのですが。これは困ったことです」

北方全宗は無言「………。」

斎藤道三は「妹よ、おまえは龍興の“北斗の七星”をいっているのかな?」ときく。

「北斗の七星……。」

仙梅院は頷いた。

北の夜空に炯々と輝く北斗の北神の星…。それを守るように輝く北斗の七星……

仙梅院は龍興にたてついたある少年を考えた。

間違いない。あれぞ龍興の北斗の七星であろう。そして我が子、半兵衛だ。

 さっそく仙梅院は笹丸(半兵衛)を小姓に、という話をすすめた。

当然、上田の岩戸城の勘定奉行にすぎない竹中九郎惚右衛門は大喜びだった。

「いいか。笹丸! お前を斎藤道三さまのお孫で嫡男の龍興さまの小姓に…というありがたい話がきた。これからは、お主は龍興さまの小姓じゃ。わしなんぞは上田の岩戸城の勘定奉行がせいぜいだったが、お前は斎藤家の家老にさえなれるやも知れん。いい話であろう?」

「笹丸さまを小姓に? 五歳で小姓に、などきいたこともありません。」

九郎右衛門の妹のお紺は戸惑った顔をした。

「辛抱じゃ。これは斎藤様の妹、わが女房からのありがたい話なんじゃ」

だが、笹丸は反発した。

「そんなものにはならん。わしは父上と同じ岩戸城の勘定奉行になるのじゃ。ならん」

「なんじゃと?!」

「そんなものにはならん!」

……馬鹿者! 父親の竹中九郎惚右衛門は息子の笹丸を納屋に閉じ込めた。

「そこでよっく考えてみよ!」

「父上―! 母上―! うええぇん」笹丸は泣く。「よい子になるからだしてくだされ。小姓なんかになりとうはない。うえええぇん。いい子になるから。家に居たいんじゃ。うえええぇん。うええぇん」

夜中になっても閉じ込めて、笹丸は泣き続けた。

ふとんに横になっていた九郎惚右衛門はお紺に言った。「ならん」

「様子をみるだけにございます」

「ならん」

お紺はその夜、泣き続けた。そして、覚悟を決めた。

 その朝に笹丸を納屋からだしたお紺は言った。

「笹丸。……何故に紅葉はあんなに鮮やかなのかわかりますか?」

「…叔母上。」

「紅葉が赤く鮮やかなのは御屋形である大樹の身代わりとなってああやって赤や黄色に色づき身代わりで散っていくのです。来たるべき厳しい冬に備えて身代わりで散っていく…」

「…身代わり?」

「お前はもう母の子ではない。この美濃の子となりなさい。紅葉のような家臣となるのですよ。」

「いやじゃ! いやじゃ! うええぇん。」

「もう決めたことなのです!」

叔母甥は泣きながら抱擁した。「もう決めた…こと…なのですよ」

「…叔母上……」「…笹丸」

こうして叔母甥は離れた。

 竹中笹丸(のちの竹中半兵衛)は雲龍庵に出奔した。

上座に仙梅院や斎藤道三や龍興(道三の孫)や斎藤義龍(道三の子)がいて、横座に小姓の少年たちがいる。

わずか五歳の笹丸はやってきて、

平伏して「我は竹中九郎惚右衛門政景の一子、竹中笹丸でございます。この度は龍興さまの小姓となるべく誠心誠意………」言葉が続かない。苦い顔の笹丸…

北方全宗は「言葉が続かないのは他のものの言葉を鵜呑みにして語ろうとするからじゃ。まだ出ぬか? そなたの本当の言葉が……?」

すると笹丸は無言から一転して不敵なまでの言葉を発した。

「わしは……わしはこんなところきとうはなかった!」

斎藤道三は笑った。「わはははっ。面白い」笹丸に近づき頬をひねった。「気に入った!」

……大河ドラマの架空のシーンの引用改筆だが、そのまま引用した。

これが龍興の北斗の七星であろう。

さすがは斎藤道三である。さすがは道三公の妹君である。

半兵衛の才覚を見抜いた。

だが、笹丸は幼すぎる。まだ五歳でしかない。

……母恋しの気持ちは抑えきれない。

紙の母親の肖像画を見て「…母上」と泣いていると龍興が声をかけた。

「…母御にあいたいのか?」

「あわせてくれるのか? 帰ってもいいのか?」

「……」

「これ! 無礼であろう! 帰れるわけなかろう!」先輩の小姓の少年が笹丸を諫める。

またも龍興は無口である。

その深夜、笹丸は雲龍庵から姿を消した。気づいたのは龍興のみ。他の小姓少年達は眠っていた。笹丸はふとんにいなかった。

すぐに龍興は和尚の部屋のふすま越しに「笹丸がおりません。…もしや里親の元に帰ったのかと。どうすればよろしいでしょうか?」と問う。

北方全宗はふとんのまま、

「それを決めるのはわしではありませんな。龍興殿が笹丸をどうしたいか…でしょうな。」

「笹丸! 笹丸―!」

龍興はひとり蓑姿で雪深い山道を降りた。寒い冬の日の深夜だった。

笹丸はやはり、親の家のところにいた。

雪深いため藁葺き屋根のところまで雪がつもっている。月明かりで薄暗いが雪があるので見通しが良い。親は笹丸を家に入れなかった。家の前の雪に孤独に座っていた。

「笹丸! 帰るのじゃ」

笹丸は蓑姿で藁の長靴姿で落ち込んでいた。「もう疲れて歩けん」

「じゃあ、おんぶしてやろう。この龍興の背中にのれ、笹丸」

おんぶして龍興は笹丸とともに雪道を戻っていく。

「笹丸。……わしはあまり語らぬ。そんなわしをみんなが困った顔をしてみている。だが、笹丸、そなたにならわしは話せる。そなたがきてくれてわしはほんにうれしかったのじゃ。」

「…龍興さま。うえええぇん」

「泣くな、笹丸…」

「涙が止まらないのじゃ。うええぇん」

「笹丸は泣き虫じゃ。いつまでもわしのそばにいよ!」

「うええぇん」

 こうして永遠の主従関係が出来ていく。

雪道での龍興(のちの斉藤龍興)と笹丸(のちの竹中半兵衛)の主従関係が、である。

 月日は流れ、織田と斎藤の密談の寺あとに明智光秀青年と細川藤孝青年がいた。

織田方の状勢を探る目的であった。

「ここかあ。一度来てみたかったのじゃ」

「あそこが、斎藤道三さまが織田信長とあった寺……織田方は軍をふたつにわけて“きつつき作戦”で我らが斎藤道三公の軍を裏と表で挟み撃ちにしようとした…」

「しかし、道三公はそれを見抜き、夜明け前に行軍……濃い霧が晴れると織田信長は前面に斎藤家の旗を見て驚く。御屋形さまは一騎で織田信長と会談にいどみ、信長のうつけを諫めたそうな。…まさに御屋形さまは釈迦牟尼の化身!」

織田方の状勢を探った明智左馬助十兵衛(のちの明智光秀)と細川藤孝青年は天正元年(1573)、一路美濃の稲葉山城に馬で戻っていった。

稲葉山城では斎藤道三と息子の斉藤義龍(義竜改め)と軍師・竹中半兵衛と越前福井から庇護をもとめてきた足利将軍(足利義昭)らが軍議を開いていた。「どうであった?光秀。」

「はっ! 織田方はなにやら不穏な様子。もしやあのうつけになにやらあったのかも」

「うつけ殿(信長)が」

「はっ! なればわれらが斎藤は京に上るべきでございまする!」

「何故じゃ?」

「今なら織田方は不穏なまま。この気に上洛せねばもったいなくございまする! 足利将軍さまを掲げての上洛なれば上等でございまする!」

「それは光秀の意見か? それとも義龍の意見か?」道三はきいた。

「……それは…当然、義龍さまのご意見でござる!」

「そうか」道三は頭巾をしていた。出家したのだ。「ならば竹中半兵衛の意見は?」

「わたしは尾張にいくべきかと。尾張の城主織田信長さまからの援軍要請もございます。信長さまは足利将軍さまを歓迎すると。光秀さま細川さまも同伴で尾張にいくべきかと。しかし、そこから更に西に上洛するには義がございません」

「よういうた、半兵衛。わしも同じ意見じゃ。娘のお濃(帰蝶)も信長に嫁がせるしのう」

道三は男前で知恵深い半兵衛に賛同した。

義龍ともうひとりの子・お松は無口で何も言わない。感情がないかのようなひとだった。

 あとで、個室で義龍に光秀は謝った。

「申し訳ありません。またしても半兵衛さまにうまいところをもっていかれた」

「…別に……どうでもよい。」

「ですが、悔しいではありませんか。殿は半兵衛さまの女子の人気や顔や能の見事な舞いなどや学問・見識すべて半兵衛さまのほうが上でございまする。されど殿には……」

「……されど……殿には…?」

「………思い当たりませぬ」

「貴様! 光秀!」

 義龍は光秀を叱った。

この数年後、武田信玄が亡くなり、織田の勢力が増大していく。織田信長は足利将軍家をまつり上洛したのち、将軍家を追放、天下人のひとりとして天下に知られるようになるのだった。永遠の仕従関係というのは嘘で、義竜の謀略により斎藤道三が死ぬと、明智光秀と細川藤孝は、斎藤(土岐)義竜を見限った。恋仲であったお濃(帰蝶)をたより、光秀と細川は足利将軍さま(足利義昭)をつれて、尾張の織田信長にくだったのである。

そんな織田信長にあうべく竹中半兵衛は忍びのおんな初音とともに船で尾張清洲城に向かった。

道三の娘・お濃(帰蝶)が竜興に「…兄上さまはあのような家臣をもつとご苦労が絶えませんね」という。だが、義竜は「いいや。わしに出来んことをあやつがやってくれると思えばなんともない」というのみである。「それより……お濃。光秀のことはいいのか?」

「十兵衛光秀のこと……でございまするか?」

「ああ。お前は利口者・(竹中)半兵衛より、律儀者・明智左馬助十兵衛(光秀)が好きなのであろう?」

「わらわが……十兵衛を?」

「そうだ。わしには隠し事はなしじゃぞ。」

「われは……光秀さまより、うつけに嫁ぐのでございましょう?」

「政略結婚な。それでもいいのか? ときいておる。」

「それが戦国のならいとあれば……」

「織田のうつけのどこがいい?」

「そのうつけ殿こそ父上が見込んだお方です」

「ほう。そうか?」竜興は苦笑した。

織田信長は竹中半兵衛に一向一揆衆や本願寺を攻めるという。

半兵衛は「人に義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。

「ならば獣でけっこう! わしは天下太平の世を得られるなら鬼にでも魂をくれてやる。腐った世の中を根っこから変えたいのよ!」

「しかし、坊主を討ち仏像に火をかけるなど罰当たりです!」

「坊主ではない。武装した僧侶だ。女を抱き、銭金を集めて悪さするものでも坊主なら許されるのか?わしは腐った世の中をひっくりかえしてすべてつくりかえる! そのための織田信長の天下じゃ」

半兵衛は慟哭して何も言えない。恐ろしい…はじめて感じた感覚だった。

だが、織田信長は斎藤道三と足利将軍さまと同盟を結びたい、と金箔の洛中洛外図(おおきな屏風絵)を道三におくってきた。

だが、それこそ金の装束をまとった挑戦状であった。

「おお! 京は天まで金色か」

「…おい。まて光秀。これをみろ」

「どうした細川殿」

「これは輿で、これは御所じゃ。京洛で輿にのれるのはそうとうの位の高いひと…これは道三公が許された毛氈鞍蔽(もうせんくらおおい)…まさか!」

「もはや京には将軍家はいない。これは…織田信長が道三公への挑戦状! くるならこい!ということか!?」

光秀はすぐに道三に知らせた。

「光秀も気づいたか」同席の半兵衛も同意した。「あの屏風が挑戦状だと」

斎藤道三は不敵に笑った。

「面白い! なればあの屏風は金箔の挑戦状! 受けて立つぞ、織田信長!」

 だが、桶狭間の戦いで織田軍が今川義元軍を殲滅すると織田の勢力が美濃までせまってきた。斎藤道三が生きているうちは稲葉山城で織田軍を打負かすが、その道三公も死ぬと斎藤家はどうしようもないところまで追い込まれる。

…光秀よ、そなたこそわしの義の心の旗を継ぐものである。

斎藤道三は息子の斉藤義竜に、謀略で討たれた。

道三が死んでしまえば、明智光秀も細川藤孝も、竹中半兵衛も、斉藤義竜などに従わない。

明智と細川は足利将軍をつれて尾張の織田信長をたより、くだった。

天下人・織田信長への憧れとお濃(帰蝶)への恋心めいた気持ちもあった。

竹中半兵衛は稲葉山城の占領、という軍略をみせたのち、尾張の信長の家来衆の木下藤吉郎(のちの秀吉)に仕官した。

こうして誰でも知る“尾張の織田信長の家臣・明智光秀”が誕生する。

『本能寺の変(1582年)』での裏切りまで、そして山崎の合戦(天王山・1582年)までのあわい歴史絵図である。

光秀は恩師・斎藤道三の最期を看取ってから信長のもとに馳せ参じた。

「御屋形さまー! 誰か薬師を! 誰か!」

「お前様。ん? 光秀……お主を呼んでいるようじゃ」仙梅院は泣きながら呼ぶ。

光秀は一礼して病床の謙信の口元に耳をそばだてた。

「……義!…」

「…はっ?!」

そういうと美濃のマムシの道三と恐れられた斎藤道三はあの世の人となった。

葬儀のあと、美濃の斎藤家は家督争いの乱が勃発する。

織田信長の軍勢が美濃稲葉山城に迫る中での、悶着、で、あった。

尾張の織田信長にくだり、将軍と同伴で、織田家に仕官した明智光秀は、当然ながらこの小説の主人公・細川ガラシャ(明智珠・たま)の父親である。

ガラシャ(珠)は父親の親友の細川藤孝の息子・忠興と結婚、細川珠または細川ガラシャとして、歴史上に登場することとなる。

光秀の娘・珠こそ悲劇の女性・細川ガラシャなのである。




  歴史は勝者の視点によって描かれる。よって明智光秀やその娘・珠(のちの細川ガラシャ)は日陰者である。

 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。本やドラマ、映画とオンパレードだ。しかし、光秀やガラシャの本など数える程しかない。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。

 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。

 光秀は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。信長の才能を見抜き、支えたのもまた光秀の眼力だった。

 光秀が越前(福井県)で朝倉義景の家臣だった頃、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。  のちの主人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。

 信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。

 この戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。

 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大阪城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。

 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。

 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。

 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。

 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。

 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。

 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。

 信長の生きた時代は下剋上の時代であった。



 細川ガラシャこと珠(玉)もしくは莪羅箸は永禄6年(1563年)から、慶長5年7月17日(1600年8月25日)までの人生である。(正式には明智珠(玉)・明智ガラシャ)

 明智光秀の三女で、細川忠興の正室。緯(いみな)は「たま(珠、玉)」または玉子。キリスト教徒として有名である。子に於長(おちょう、1579年生まれ、前野景定室)、忠隆(1580年生まれ)、興秋(1584年生まれ)、忠利(1586年生まれ)、多羅(たら・1588年生まれ、秋葉一通室)などがいる。

 明治時代にキリスト教徒らが彼女を賛えて『細川ガラシャ』と呼ぶようになったらしいが、前近代日本では夫婦別姓で、北条政子、日野富子らの例を照らせば「細川」姓で呼ぶのは明らかな間違いで、「明智珠」と呼ぶのがふさわしいという。

 とにかく、永禄6年(1563年)、越前福井の春、珠は明智光秀と妻の煕子の間に三女として(四女という説もあるがこの場合、長女と次女は養女であり、実質次女)に生まれた。大変な美人な赤子だったという。

 そんな珠も、活発になり、美人ではあったが、元気な子であった。

 父親の明智光秀は、親友の細川藤孝とともに浪人中のところを越前福井藩主・朝倉義景に拾われたばかりだった。またこの頃、将軍後見の足利義秋(義昭)も越前にいた。

 光秀はのちに足利将軍をたてて、織田信長に仕官することになるがそれは後述する。


 5歳のときだった。明智珠は屋敷から家出した。

 昼間の河辺で、どじょうを泥から取って、鍋で食べていた秀吉(浪人中で各地を転々としていた。この頃は日吉丸という)に、珠が声をかけた。珠はすらりとした体躯であり、服は家出のためか汚れていた。

「そのどじょうを……少しわけてはくださりませぬか?」珠は頭をさげた。

「あん?」日吉は”なんじゃい?”という顔をしたが、やがてにやりとして「いいとも」といった。「食べい、食べい」

 珠は頭を深々とさげ、「ありがたいことです」といった。そして続けた。「昨夜から何も食べておりません。ありがたいことです」

 珠は秀吉の猿顔を見て「こわい」と泣きそうになった。

「あ! これはすまんすまん!」秀吉は川の水で顔の泥を落とした。

「どうだ? これで怖くなかろう?」

「はい!」珠はにやりと笑った。

「あなたさまは侍?」珠が秀吉にきいた。

「只の百姓の息子だ。まぁ、いずれは大きな城持ち大名になってみせる。城持ち大名よ」と壮大な夢を語った。秀吉は泥だらけ垢だらけで、夢を語った。

 珠は笑わなかった。冗談ではなく本気だとわかったからだ。

「城持ち大名? それはいいですわ」

「人間はのう…」秀吉は言葉を切った。どじょうをほうばった。

「人間というものは努力と知恵と幸運でどんなものにもなれるのよ。ちがうか?」

「………その通りかも…しれませぬ」

 珠は感心し、静かに頷いた。この男はただものじゃない。彼女は、秀吉の中のなにかを発見した。ただのハッタリ男ではない。光るものがある。

 この男は……ただものじゃない。

「わたしは珠と申します」

「わしは日吉(秀吉)、日吉丸じゃい……しかし、皆はわしのことを、猿、猿、と嘲笑する。へん! ってんだ」

 秀吉は無理に笑った。その顔は猿そのものであった。

「それは?」珠は秀吉のもつものに目をとめ、「それは鉄砲?」といった。興味津々であった。珠は目をぎらぎらさせた。

「さよう。南蛮鉄砲……種子島だ」秀吉は包み袋を開け、中の鉄砲を取り出してみせた。「これからは、鉄砲の時代になるぞ、なぁ? 珠」

「さようでござるか」

 珠は大きく頷き、白い歯を見せてほわっと笑った。






           2 立志



 珠(ガラシャ)は実家にもどった。

 光秀の屋敷は茅葺き屋根の粗末な木造の荒子城で、大変汚いところだ。百姓だか、武門だか、よくわからない。さらに悪いことには狭い。家には父・光秀がいた。このずんぐりとした中年男と珠は仲が良い。

 光秀は粥をがつがつ食べた。

「煕子、水、水」光秀が当然のようにいった。

「はい、ただいま」煕子が桶の水を汲もうとすると、光秀は「珠、何処にいっておった?」ときいた。それは激怒の顔ではなかった。優しい父親の顔だった。

「日吉さまに会いました……城持ち大名になられるそうです」

 珠がいうと、光秀は「ほう。誰ぞれか知らないがそんなことを…わしもな珠、夢はもっと大きいぞ」と夢を語った。

「どんな夢?」珠が不思議そうな顔できいた。

「わしは天下の城持ち大名よ! 天下さまよ! 百万石よ!」

 光秀は目をぎらぎらさせていった。にやりとした。すると一同は大爆笑して、光秀を嘲笑した。「馬鹿だねぇ」「百万石の天下の城持ち大名?! 娘たちの乳母ももてないほどの貧乏浪人がですか? あははは」

 光秀は「笑うな! 天下をとって城持ち大名になるのじゃ! わしは!」と激しく怒った。しかし、一同はにやにや笑うだけだった。……百万石の城持ち大名?! あははは。馬鹿なことを。



 珠は父親とともに城にいくため、午後の田んぼ道を歩いた。誰もいなかったが、光秀は珠だけに聞こえる声でいった。

 光秀は「いいか? 珠。世の中コツコツ努力して仕事したものが勝つんじゃぞ」と諭した。珠は「はい!」といった。

「わしは天下人さまに…必ず大きな城持ち大名になる!」

 珠は頷いた。「もしかしたら、そちは大名の奥方になれるかもしれん」

「……大名?」珠は真剣な顔になって尋ねた。ふたりは足をとめた。

「おうとも」光秀はにやにやした。珠もにやにやして「わたしは必ず城持ち大名の奥方になる!」と強くいった。この明智光秀や細川ガラシャ程「ドラマティックな人生」も珍しい。ふたりとも悲劇的な最期であるためいつも歴史家や文人の「注目の的」になる。だが、それはえてして「敗軍の将」「悲劇的最期の自決をしたキリシタン女」というものだ。

「そして……」珠は続けた。「そして…天下人の奥方に!」

「天下人の奥方?! それはいい」

 ふたりは笑った。




第二章 天下布武





        秀吉 墨俣一夜城



         タヌキ家康



 奇跡を織田信長は起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。

 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。

 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。

 既存価値からの脱却も信長はさらに、おこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟住家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに天才・織田信長であった。阿修羅の如き。天才。



 今川からの伝令が松平元康(のちの徳川家康)のもとに届いた。

「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。

「馬鹿を申すな!」と元康は声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。

しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。

 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。

 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」

 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。

「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」

 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。

「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。

「事実にござりました!」その報告をきくと、元康はガクリとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。

 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。

 部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。

 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」

 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。

 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。

 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。

「さようでござる」

「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」

 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。

「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。

 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。

 元康は、同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。

「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!

 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。

「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。「まだ平定にはいたらぬ」

 道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がぴしっと強固な壁のように一致団結してしまった。

信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。

「殿! ここは辛抱どきです」前田(又左衛門)利家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。

 しかし、信長は反論しなかった。又左衛門の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。 くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。

 利昌が死ぬと、長男・利久は荒子城をおわれ、かわりに利家が荒子城主となった。信長がきめたのだ。利久は反発したが、御屋形の命令ではしかたない。妻・つねと幼い慶次郎を連れて、荒子を出た。家臣・奥村家福も利久とともに浪人となった。まつが、秀吉殿は四千の兵をもったとか…というと、利家は「又兵衛は一騎当千だ」といったという。



         尾三同盟



 永禄五年(一五六二)正月のこと、松平元康は清洲城にやってきた。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。

 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河の今川屋敷にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。

「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」

 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。

「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。

「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。

 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。

 織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。

 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。

「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」

「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。

 また、信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。

 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃ルートを直線ルートへとかえていた。




       サル



 織田家に猿(木下藤吉郎)が入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。

「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなったりすれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。

 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。

 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。

「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。

 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。

「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」

 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」

 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。

 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!

 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!

 ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、

「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。

 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。

「なにっ?!」

 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。

 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。

「なぜ上にあがらない?」

 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。

 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。

 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。

 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。

 こんなエピソードがある。

 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。

 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。

「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。

 また、こんなエピソードもある。戦場にでるとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。

 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」

 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。

 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。

 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、

「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。

「木下藤吉郎の部隊でござりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。




         浜松城築城



 家康は息子を信長のところへ参謁させた。

「信長公にはごきげんうるわしゅう」家康と幼少の息子・信康は平伏した。上座の織田信長は、にやりと笑って「家康殿、よくきたのう」といった。

「ははっ」

「ところで家康殿…」信長は続けた。「貴殿の若君とわしの娘・徳姫(まだ幼少)の結婚に反対かな?」

「いいえ」家康は首をふった。「とんでもござりませぬ。ありがたきことと思いまする」「さようか?」

 信長は笑った。「まぁ、まだ幼い夫婦で、まるで”ままごと”のようじゃが、これで織田家と松平家は親戚関係じゃ、のう? 家康殿」

「ははっ」家康は平伏した。

 その頃、家康の居城・浜松城築城が完成していた。ある日、信長から三匹の鯉が届いた。家康は感涙した。一匹が織田、二匹目が松平、三匹目がそれぞれの子たちという意味であった。家康はまだ若くて、信長を信じていた。そして、このような配慮も出来るのが信長様である、と感激した。しかし、事件が起こる。家臣がその鯉を刺身にして食べた、というものだ。家康は激怒し「なぜ、鯉を食べた?! 切腹せよ!」と暴れた。

 すると、家臣の石川数正が諫めた。

「殿! 鯉ごとき何です」

「なにっ?!」

「鯉などいずれは死ぬもの。すべての生き物は死にまする。鯉も腐らぬうちに、新鮮なうちに食べてもらえて本望でしたでしょう」

「しかし…」家康は口をつぐんだ。そしてあえぎあえぎ続けた。「だが…あれ…は…信長公からの……土産じゃぞ?」

「鯉ごときで家臣を切腹させるのは愚行でござる! 殿、もっと賢くなりなされ!」

 家康はそれをきいて、グサッときた。そして、そのまま何もいわずに頷いた。

 なるほどのう……賢く…か…

 まさに家臣のいう通りであった。


                        


         石垣修復



 織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。

 信長はあるとき城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。すると、共をしていた藤吉郎が

「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」

とにやりと猿顔を信長に向けた。

「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。

「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。

 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。

「サル、やってみよ」信長はいった。

サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。

 信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。

 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。

「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。

「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。

 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。

「……わかった。しかし、人質はいないのか?」

「人質はおります」藤吉郎はいった。

「どこに?」

「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。

 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。

信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」

「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。「命を助けるとのお約束であります!」

 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。


         竹中半兵衛



 信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、京極高次という大名の妻となる初、徳川二代目秀忠の妻・お江、である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。


「サル!」

 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。

「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。

「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」

「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でござりましょう」

「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川竜興を裏切ったのだ?」

「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」

「ほう?」

「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川竜興に城を返したといいます」

「気にいった!」信長は膝をぴしやりとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」

「かしこまりました!」

 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。


 汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。

「理由は? 理由はなんでござるか?」

「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」

「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。

 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。

 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。

「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」

 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。

「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。

「かたじけのうござる!」

「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」

「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」

「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」

 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。


         墨俣一夜城



 当面の織田信長の課題は美濃完全攻略、であった。

 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には天然の防柵のように木曾川、長良川などの川が流れている。攻撃にはそこからの拠点が必要である。

 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?

「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」

「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。

「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」

「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」

「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」

「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」

「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」

「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。

「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」

「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」

「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」

 信長は唖然とした。

 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。

「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。

「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。

 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、墨俣一夜城は一夜にして完成した。

「よくやったサル!」

 信長は、清洲城に着いて、秀吉をほめた。

 一同は平伏する。しかし、利家は動揺し、何もいえなかった。あのサルが…。まつは平伏しながら夫の腰をとんとんと叩いた。

”利家殿……まけてはなりませぬ”

 まつの顔はそんなことをいっているような顔だった。

「御屋形様!」利家はあえぎあえぎだが、やっと声を出した。「秀吉は……織田家の宝でごさる!」信長は感心して、「よく申したイヌ!」といった。利家は落胆した。だが、利家は一同に笑顔を見せた。”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔であった。……こんなの…屁でもないさ……


 明智光秀と細川藤孝は、正式に信長の家臣となった。珠、6歳の頃である。

 そして月日は流れ、明智珠(のちの細川ガラシャ)は15歳のみめ麗しき女子となった。それを知った信長は、座で「光秀、そちの娘にみめ麗しき女子がおるそうじゃな?」ときく。光秀は唖然としながら「珠のことに御座りまするか?」と尋ねた。

「その珠を細川の嫡男・忠興の正室とせい」信長は命令した。

「……ははっ!」光秀は平伏する。

 天正6年(1578年)の頃である。こうして光秀の娘・珠は細川忠興に嫁いだ。珠は美女で、忠興とは仲のよい夫婦となった。天正7年(1579年)には長女・於長が、天正8年(1580年)には長男・細川忠隆(のちの長岡休無)の二人が生まれた。

 忠興は麗しく優しい性格の珠を大変可愛がった。家臣も羨む程の仲よし夫婦だったという。そして話しを戻そう。



          焼き討ち





         浅井長政の裏切り




 確執も顕著になってきていた。織田信長と将軍・足利義昭との不仲が鮮明になった。

 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。

 義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。

 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。

「あなたを副将軍にしてもよい」

 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。

 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつかえつかえいった。「では、まろに忠誠を?」

「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。

「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」

 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。

 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!

 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。

 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。

 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。

 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。

 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。

 義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。

 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。

 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。

若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。

「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。

 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。

 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。

 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。

 浅井長政は味方のはずである…………

 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。

 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。

 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。

 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。

 金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。

 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。

 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。

 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!

 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。

「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。

 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。

 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!

 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。

……殿(後軍)を誰にするか……

 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。

「殿は誰がいい?」信長は迷った。

 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。

「サル、殿をつとめよ」

「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。

 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。

「サル、頼むぞ」信長はいった。

「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。

 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。

 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。

「悪党ども、案内いたせ」

 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。

 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。

 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。

 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、

「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。

 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。

「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」

 信長は長政を罵った。

 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。

 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。

 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。

 信長は思った。皆殺しにしてくれる! 

 永禄十二年(1569)正月、信長は正室・吉乃と光秀の妻・ひろ子らと酒を呑んでいた。正月で、皆、心がうかれていた。「御屋形様~っ」急に泥酔したおねがやってきた。「おねか」信長は声をかけた。おねは泥酔したまま平伏し、「御屋形…さ…ま。サルめを…京から呼び戻してくだされ。……あの…サル…都の女子に…次々と…手を…かけ…」

 前田利家は「これこれ、御屋形様に何てことを…」と苦笑しながらおねの肩に手をかけた。おねは「御屋形様……わたしは悔しいのです…サルめが!」

 信長も妻の吉乃も笑った。一同、そんな笑いに包まれた。







         姉川の戦い



 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」

 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、サル」

 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつものお館らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




         焼き討ち



 三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。     



            本能寺の変




         どくろ杯





        三方が原の戦い




    

 武田信玄は、信長にとって最大の驚異であった。

 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。

 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。

 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。

 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。

 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。

 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。

「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。

 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。

 ……これが、三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。

 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。

 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。

 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。

 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。

 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。

信長は手をたたいて喜んだ。「天はわしに味方した。好機到来だ」




         室町幕府滅亡



 信玄の死を将軍・足利義昭は知らなかった。

 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。

 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。

 知らせをきいた信長は激怒した。

「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」

 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。

”落ち武者”のようなザンバラ髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。

「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。

「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。

 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?

「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」

 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。

 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。

「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」

 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。

「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。

 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」

「なんじゃと?! サル」

「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」

 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。

「……わかった」信長はゆっくり頷いた。

 秀吉もこくりと頷いた。

 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。










         どくろ杯




 大軍をすすめ信長は、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。

 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。

 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。

「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。

 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………

 朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。

 そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。

 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。

 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。

「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。

 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。

 しかし、長政は頑固に首を横にふった。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。


 天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。

 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。

「酒の肴を見せる」

信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。

「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」

 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……

 お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。

「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。

「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。         


 忠興の報告をきいた珠は驚愕した。朝倉義景といえば父・明智光秀の元・主人……それを…?! 信長さまは狂っておいでになる。まだ十代の珠は織田信長という男に底知れぬ恐怖を感じた。これはもしや……何か起こらねばよいが…。怒りが人々の怒りが信長さまの身に何か不吉なことを起こすやも知れない。それは珠の勘だった。明確な証拠はない。

 しかし、その信長を討つのがまさか父・明智光秀であるなど珠には想像だにしていなかったことであろう。本能寺の変の数年前の出来事である。

 珠の旦那、細川忠興は千利休の茶席で親友の高山右近と茶をしていた。

 忠興は「右近殿は病気じゃ」と珠にいう。

「…ご病気?」

「ははは、まあ大事ない。キリシタンじゃ」

 珠は「キリシタンとは?」と尋ねた。

 忠興は「世の中にはにわかキリシタンが多いが高山右近殿は本物よ」

 といい笑った。珠もつられて笑った。

 そして、キリスト教に魅せられていく……。




          本能寺の変




         長篠の合戦と安土城





 正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「貴殿の妻と息子のふたりとも殺すように」という書状を送った。

「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!

「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」

「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」

 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」

「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」

 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。

 ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。

 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。

 それは微かな、暗い呟きだった。


 信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。

 そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。

 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。

 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。

 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列ずつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発ずつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。

 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。

「撃て! 放て!」信長はいった。

 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。

 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。

 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。

 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。

 これで東側からの驚異は消えた訳だ。

 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。


 絢爛豪華な安土城を築いた。信長は岐阜から、居城を安土に移したのだ。

 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。

 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……

「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」

「信長さまは人間にござりまする! 人間は神にはなれませぬ!」

 林は必死にとめた。

「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。

 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………

 林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。

「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……

「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。


 天正七年(1579)初夏。秀吉は中国地方の毛利攻めを命じられた。秀吉は喜んだ。しかし、その最中、明智光秀が母を人質として和睦しようとしていた武将を、信長が殺した。当然ながら光秀の母は殺された。「母ごぜ……」光秀は愕然となった。

「信長は鬼じゃ! 信長は鬼じゃ!」歯をぎりぎりいわせながら、利家は信長にいった。「頭を冷やしなはれ、利家殿」千宗易(のちの利休)は利家を諫めた。












         本能寺の変




 明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。

 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」

「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」

 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。

 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」

 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。

「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」

 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。

「あの方が……いなくなれ…ば…」

 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!

「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。

 かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。

 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。

「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」

 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。

「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。

「いえ。めっそうもない」

「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」

「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでござる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」

「ははっ」家康は平伏した。

 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」

「……いいえ」

「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」

 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。


 この年、信長の正室・吉乃が病に倒れ、明日をも知れぬ身体となった。信長はこのとき初めて神に祈った。しかし、吉乃の命は風前の灯であった。信長は吉乃の眠る座敷へと急いでいき、手にもった仏像を彼女に手渡した。しかし、吉乃は抱き抱えられながら、仏像を捨てた。信長は手をさしのべ、自分がそばについていることを思い出させようとした。やさしく彼女を抱きしめた。

「…わらわは信長さまの妻……信長さまが神を信じないのなら…わらわも…」

 吉乃は無理に微笑んだ。彼女の感触こそ、信長の崩壊を防ぐ唯一のものだった。信長は傷つきやすい孤独な心で、吉乃を抱擁した。「吉乃……死ぬな」

 かすかな悲しげな微笑みとともに、信長はささやいた。信長は妻の頭を胸に抱きよせ、彼女の髪に頬を重ねた。吉乃は微笑み、そして死んだ。

 秀吉はすぐに駆けつけた。いっぱいの土産をもって。

「ひさしいのう、秀吉」上座で、信長は秀吉に声をかけた。側には息子の信忠や信雄らがいた。秀吉は「これはすべて吉乃さまへの御土産にござる!」

「サル……母上は…死ん…だ……のだ」信忠は泣きながらいった。

「信忠、秀吉はそんなことは百も承知だ。わしをなぐさめておるのだ」

 信長はいった。すると秀吉は「泣いてもかまわないのです、御屋形様!」といった。

「鬼が泣いても……笑われるだけじゃ」信長は涙目で呟いた。


 珠の父・明智光秀は不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。

「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」

「は? ……羽柴殿の?」

 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。

 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。

「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」

 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。

 しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。

 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!


 元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。

 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。

 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………

 かれは完全に油断していた。


 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。

「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」

 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。

 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。

 ……時は今、雨がしたしる五月かな…

 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。

 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。

 ……信長を討ち、わしが天下をとる!

 光秀は頭を激しくふった。


「敵は本能寺にあり!」

 明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」

 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。

「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。

「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」

「何っ?」

「…殿…すべて包囲されておりまする」

「是非に及ばず」信長はいった。

 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。

 享年四十九、壮絶な最期であった。 





  最終章 ガラシャの死




         天下を獲る






         中国大返しと山崎・牋ケ岳




信長は”本能寺の変”で、死んだ。

 その朝、家康や千宗易はバッとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。

 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。

 珠はその報をきくと「まことに御座いまするか?! 父上が信長さまを…??」

 細川忠興は何といっていいかわからなかった。

 明智光秀はご承知の通り、秀吉にこの後、天王山で敗れ滅ぶのだが、その前に珠の立場は細川家でも危うくなっていた。なにせ『逆臣の娘』である。

 その為、家臣たちからは「奥方さまの首を羽柴(秀吉)殿の元へ」という声がきかれた。しかし、本能寺のとき「加勢してほしい」という願いを断った細川忠興ではあるが、珠は愛しい。そこで、忠興は珠と離縁する気にはなれず、天正十二年(1584年)、珠二十二歳のときに彼女を丹後(京都)味土野(現・京都府京丹後市弥栄町)に幽閉隔離した。「許せ! 珠!」忠興は下唇を噛み締めながら、涙声でいった。

「いえ」珠は気丈だった。「殿! わらわの首を秀吉殿に差し出して下され!」

「それはならん! ならん!」

「忠興さま……私を殺して首を秀吉殿へ…」

「馬鹿を申すな! そちは謀反者の娘だろうが……わしはそなたを愛しておるのだ。しかし……この後は秀吉殿の天下となろう。光秀殿には義がない。負ける。それまで辛抱しろ」こうして珠は味土野山中に幽閉された。彼女を支えたのは、父・光秀が珠の結婚のために仕えさせた小侍従や細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘、洗礼名マリア)や絹ら待女たちであった。ボロ屋敷で幽閉された珠にいとは「奥方さま、つろうはありませぬか?」ときくと珠は気丈に「何ともありやせん。殺されなかっただけでもましじゃ」といった。

 そんなとき、光秀の首が取られたと知る。珠は自害しようとして、いとに止められた。

「いけませぬ、奥方さま! 死ぬのは逃げることです……生きていれば希望があります!」 ふたりは泣き崩れた。

 話しを少し戻す。

本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。

 天正十年(一五八二)五月、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。

 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。そして、今度の高松城攻め、である。

 秀吉軍は二万あまりであった。

 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。

 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。

 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。

 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。

 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。

「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」

「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。

 時代は急速に動く。

 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……

 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。

 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利将軍様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…


 秀吉は驚愕した。

「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」

 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。

「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉はジダンダを踏んだ。

「よし! 今日中に姫路城に撤兵しよう…」

 黒田官兵衛は「このまま撤兵すれば吉川、小早川らが信長公の死を知って追撃してくるでしょう。わが軍も動揺するし、裏切るものもでるかも知れません。ここは天下を獲るかとらぬかの重大な”天の時”……わたくしに策があります」と策を授けた。

 官兵衛の策によって、毛利側と和議を結ぶことになった。幸、まだ毛利側は信長の死を知らない。四日未明、安国寺恵瓊を呼んで新しい和議の内容を提示。毛利側は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五ケ国をゆずりわたし、そのかわり高松城の水をひいて城兵五千人を助ける。     という内容である。恵瓊は、その足で毛利側の陣にはよらず、船で人工湖の城に入城、清水宗治を説得した。宗治は恵瓊の腹芸とは知らずに承諾。

 恵瓊はその足で、小早川隆景、吉川元春の陣へ、かれらは信長の死を知らないから署名して和睦。四日午後、無人の城に兵を少しいれて警戒。五日、小早川隆景、吉川元春の軍が撤兵、それを見届けてから、六日、二万の兵を秀吉は大急ぎで撤兵させた。世にいう”中国大返し”である。その兵はわずか一日で姫路城に帰陣したという。

 その頃、毛利方は信長の死を知るが、あとの祭……。毛利方は歯ぎしりして悔しがった。騙しやがって、あのサルめ! だが、小早川隆景も吉川元春も秀吉軍を追撃しなかった。 このことも秀吉の幸運、といえるだろう。

 特筆すべきなのは二万あまりの秀吉軍は温存されたということだ。まったく無傷で、兵士は野戦などで戦うこともなかった。三木城、鳥取城、高松城攻めもすべて、調略、軍略であった。兵士たちは退屈な日々を送ったという。

 姫路城に帰陣してから、「信長公の弔い合戦をする」と秀吉は宣言した。そして、兵士たちを二日間休ませたうえで銭と食料を与えた。

 本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。明智光秀が落ち武者になって遁走する途中、百姓たちの竹槍で刺されて死んだのは有名なエピソードである。

 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。光秀の妻・ひろ子も自害して果てた。かくして、天下の行方は”清洲会議”へともちこまれた。

 故・信長の居城・清洲城に家臣たちが集まっていた。天正十年六月のことである。

 織田家の跡目は誰にするか……。長男の信忠は本能寺の変のとき光秀に殺されている。   残るは、次男・信雄、三男・信孝か?

 しかし、秀吉はここでも策をめぐらす。信忠の嫡男・三法師(わずかに三才)を後継者にし、自分がそのサポートをする、というのだ。幼い子供に政は無理、これは信長にかわって自分が天下に号令を発する、という意味なのである。

 秀吉は赤子の三法師を抱いて、にやりとした。

「謀ったな……秀吉…」柴田勝家は歯ぎしりした。しかし、まだ子供とはいえ、信忠の嫡男なら織田家の跡目としては申し分ない。しかし、勝家は我慢がならなかった。

 ……サルめ! 草履とりから急に出世してのぼせあがっている。許せん! わしはあんなやつの下で働く気はもうとうないわ!

 秀吉は信長の妹・お市をもてごめにしようとした。お市は反発し、柴田勝家の元へはしった。彼女は勝家がまえから好きだったので、意気投合し、再婚した。浅井長政との遺児・茶々、初、江も一緒にである。

 そして、琵琶湖の近くでついに、柴田勝家と羽柴秀吉は激突する。世にいう牋ケ岳の合戦である。そして、ここでも秀吉は勝った。勝家は炎上する城の天守閣で、妻のお市と娘たちに逃げるようにいった。

しかし、お市は「冥途までお共いたします」と勝家とともに死ぬ覚悟だ、と伝えた。

「わらわはサルのてごめにはなりたくありませぬ。お供します」

「市……娘たちは助けてくれようぞ。あのサルめは子供までは殺さぬからのう」

 ふたりは笑って自害した。娘たちは秀吉にひきとられていった。

 農民たちは戦を楽しんでいたという。牋ケ岳の合戦のときも、農民たちは弁当片手で戦をまるでスポーツのように観戦していたのだという。

また、合戦のあとは庶民の貴重な稼ぎ場となった。死傷者や敗者の武具・着衣を奪えることができたからだ。また、敗者の武将をとらえれば多額の賞金までもらえる。

そのため、合戦のあとはかならず農民の落人狩りがおこなわれた。天王山から坂本城にもどる途中で竹やりで刺された明智光秀らは、庶民の強欲の犠牲者であるという。


「信長公のあとつぎだと天下に宣言するため安土城よりでっかい大阪城を築こうぞ」

 秀吉は大阪に城を築城しはじめた。

 秀吉が天下を取ったとき、秀吉は忠興を城に呼んだ。

「忠興……光秀の娘を生かして山中に幽閉しておるそうじゃのう?」

「……いえ。そのような…」

「忠興!」

「すぐに嫁と復縁せよ。わしはそんにゃ器の小ちゃい男じゃないでぇ」

 秀吉は珍しく、情けをかけた。幽閉から二年後、珠は屋敷へ戻った。

この頃、奥州(東北)の伊達、徳川、北条氏が三国同盟を結んでいた。その数、十万、秀吉軍は十七万であったという。大阪城の大工事をやっている最中に、信長の次男の信雄が家康と連合してせめてきた。

「わしは信長の子じゃ、大阪城にはわしが住むべきじゃ!」信雄はいった。

 家康は「そうですとも」と頷いた。

 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。

 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。  そして、小牧長久手の合戦である。

この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。

池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。

この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。

 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。

 秀吉はその年、出来たばかりの大阪城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。

すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。

 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。

 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。

 徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

 家康の使者・石川数正が秀吉の大阪城にきた。

 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」と、にこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」

「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。」

家康は「そうですとも」と頷いた。

 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。

 徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。 

前田利家は秀吉により、北陸をまかされ、加賀百万石の大大名となった。その途中、千代保という女中と寝て、利家には外子が生まれた。その子が三代目加賀藩主となったという。徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 只、秀吉嫌いの越中の佐々成政は秀吉と対峙した。冬だったが、家康の元にいって秀吉を討ってもらおうと、雪山を越える”さらさら越え”を行った。途中、妻のはるが雪崩で死んだ。(佐々成政はその後、九州で自害している)

 成政の秀吉征伐に家康はくびを縦にふらなかった。

 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

 家康の使者・石川数正が秀吉の大阪城にきた。

 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」とにこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」

「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。そのために…」



「………義兄弟?」

 居城で、家康はもどった石川に尋ねた。「秀吉公がそう申されたのか?」

「ははっ。つきましては秀吉殿の妹君を殿の妻にと…申されました」

「妹君?」家康は茫然とした。「秀吉公の…?」

「はっ。朝日の方。年は四十三でござる」

「それは…」家康は続けた。「年増じゃのう」

「連れ添った夫と離縁して、嫁ぐそうでござりまする」

 家康の家臣たちは反対した。秀吉の妹などいらぬ! というのである。しかし、石川数正だけは冷静で、「受けたほうがよろしいかと存ずる」とがんといった。

 家康は遠くを見るような目をして、口をとじた。何にせよ、家康が何を考えているのかは、誰にもわからなかった。



          関白・秀吉



 羽柴秀吉の天下となるや、天正十二年(1584年)3月、珠を幽閉先から細川家の大阪屋敷に戻した。しかし、夫・忠興には側室が大勢いて子もいた。この頃、珠と忠興との間に興秋が生まれたが、珠は『逆臣の娘』としてオリの中に入れられた。珠は鬱病となり、カトリックの教えに浸透されていく。

 天正十四年(1586年)には忠利(幼名・光千代)が珠と忠興の間に生まれた。しかし、珠は産後の肥立ちも悪く、またノイローゼ気味であったという。

 不幸なことに光千代は虚弱で、母の珠は心配でいつも寄り添っていたという。


 頼朝や足利義満のような源氏の子孫では秀吉はないので征夷大将軍とはなれなかった。将軍でなければ幕府は築けない。しかし、そこで秀吉は一計を案ずる。まず、天皇から関白の位をもらい、独裁政府をつくるのだ。関白・豊臣秀吉の誕生である。

 秀吉は元同役の前田利家を五大老に加えた。五大老とは大臣クラスのことで、前田利家、徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らである。それと五奉行、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家である。そして、それを実現させるためには家康をまるめこまなければならない。

 秀吉はここでも一計を講じた。


「おふくろさまを……家康の人質にですと?」石田三成は仰天して上座の秀吉に尋ねた。 秀吉は頷き「そうじや。家康とは和睦したぁがぜよ。おっ母を渡せば、家康とて人間……わしの気持ちがわかるはずじゃ」といった。

 秀吉は自分の母・大政所(なか)を家康の人質に出すというのだ。

「しかし、家康がおふくろさまを殺して…また戦をしかけてきたらどうなさりまする?」「そんときは…」秀吉は暗い顔をして「そんときよ」

  かくして、秀吉の母・大政所(なか)は人質として家康の居城・岡崎城にきた。大変なババァを人質にしたものだ……家康は苦笑してしまった。しかし、秀吉は自分の母でさえも、家康のために人質に出すとは…。

 家康は何ともいえない感情にとらわれた。

 なかはにこにこと笑って、家康と握手した。そこに四十三歳の年増の朝日の方も到着し、なかと朝日の方は抱き合った。抱擁だ。家康はいたみいった。大政所と朝日の方、なかと朝日の方、母と娘………。

 これは秀吉と和睦するしかない。家康は決心した。

 家康は十月二十日、上洛した。もう夜だった。

 徳川家康は座敷で辛抱強く待った。座敷は蝋燭のほのかな明りでオレンジ色だ。秀吉はやがて上機嫌でやってきた。「家康殿、よくぞまいられた!」

「関白殿にはごきげんよろしゅう」

 秀吉はにこりと笑って「堅い挨拶なぞなしじゃ、家康殿」といい、饅頭を渡して「これでも食ってくだされ。腹が減ってるにゃら、おまんまも用意するでぇが」

「いいえ。関白殿、おかまいなく」

「家康殿、悪いんじゃが、わしを立ててはくれまいか?」

 秀吉は続けた。「わしのつくる政府の五奉行のひとりになってほしいのじゃ」

「……秀吉殿の家来になれと?」

「いや、形式だけ。形だけじゃで」

 家康は平伏し、「わかりもうした。この家康、関白・豊臣秀吉公の下で働きまする」

「そうか? かたじけない、家康殿!」

「関白殿にはもうそのような陣羽織りは着せません。関白殿にかわって戦は私が指揮し、関白殿はゆっくりと後方で休んでわれらを見守ってくだされ」

 家康は下手にでて、平伏した。秀吉は感激し、そして、次の日の大名たちとの会議でもわしに平伏する演技をしてくれ、と頼んだ。そして、家康はみごとに演技をした。

 こうして、徳川家康は秀吉の”形式”だけの家来と、なったのである。       


話を戻す。

秀吉は公家の菊亭晴季に”征夷大将軍”の位をもらいたいと朝廷に頼み込んだが、百姓上がりの秀吉はなれなかった。そのかわりとして”豊臣”の名を授かり『豊臣秀吉(とよとみのひでよし)』となった。征夷大将軍にはなれなかったが関白職を授かり、やがては長じて太閤殿下とまでなった。寧々を悩ませたのは秀吉の”女癖の悪さ”である。

秀吉は絶倫で、愛人を何百人も囲う。しかし、”種なし”の秀吉には子供が出来ない。

そんな中で寧々の心を傷つけたのが茶々のちの淀君への秀吉の溺愛である。

……憧れたお市の方さまの娘だからか。仕方なし。しかし、本当に殿下の子供なのか?

秀吉は狂っていく。最初の茶々との子供・鶴松が死ぬと朝鮮出兵・唐入りを決意し、攻めた。また子供が茶々との間に出来る。のちの秀頼で、ある。

だが、秀吉は幼い秀頼を残して死んでしまう。

こうなれば後は天下を治められるのは徳川家康しかいない。

『関ヶ原の合戦』も寧々は傍観した。幼い秀頼や淀君では駄目だ。天下はまた乱れ乱世に逆戻り、である。

寧々は出家し、髪をおろし、高台院と称して高台寺に隠遁した。

話を戻す。






         夢のまた夢

        





        天下統一



 天下統一作戦は秀吉の命令で始まった。

 秀吉は牙をむきだしにして、各個撃破の戦を開始する。天正十二年三月、紀州に出兵して、根来寺・雑賀衆を制圧した。六月には四国に出兵し、長曽我部を屈服させ、引き続き、北陸に出兵し、佐々成政を降ろす。秀吉は抵抗勢力の抹殺を行った。

 そして、秀吉は十二万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴松。男の子だった。

 秀吉は大変な喜びようで、妻の寧々(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。

 あとは関東の北条と奥州の伊達だけが敵である。

 そんなとき、伊達政宗は六月になって”秀吉軍には勝てない”と悟り、白無垢で秀吉の元に現れた。まだ政宗は若かったが、判断は正しかった。トゥ レート、ではあったが、判断は正しかった。あとは関東の北条だけが敵である。

 秀吉は三十万の兵を率いて関東にむかった。

「寒いのう」秀吉は小田原城の近くの城でいった。家康は「そうですな、閣下」と下手にでた。まさに狸である。

「小田原城内の兵糧にも限りがあろう。兵糧攻めじゃ」秀吉はわらった。

 三月十九日、開戦。四月六日には小田原城を包囲し、秀吉は”兵糧攻め”を開始した。船に敵の子女を乗せて、小田原城にたてこもる北条氏たちにみせた。北条氏側は上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めたときのことを思いだしていた。上杉は一ケ月で兵糧が尽き、撤退した。秀吉もそうなるに違いない。北条氏政は思った。

しかし、秀吉の兵糧は尽きない。加藤や久鬼の水軍が海上から兵糧をどんどん運んでくる。二十万石(二十五万人の兵を一ケ月もたせる)が次々と船でやってくる。

「わははは」秀吉は陣でわらった。「日本中の軍勢を敵にまわしてはさすがの北条も勝ち目なしじゃ!」

 秀吉はまた奇策を考える。一夜城である。六月二十八日、小田原城の近くの石岡山に一夜城をつくった。山の木に隠れてつくっていた城を、木を伐採して北条氏たちにみせたのだ。忽然と、城が現れ、北条氏たちはこのとき唖然とし、格闘を諦めようと決意した。もともと勝ち目はない。日本中の軍勢を敵にまわしているのだ。

 天正十八年七月五日、北条氏政は切腹し、息子の氏直は切腹をまぬがれた。こうして、北条氏は滅亡した。

「家康殿、此度は小田原攻めに協力かたじけない。お礼として今の領地のかわりに旧北条氏の領地だった関東を与えよう。さぁ、遠慮はいらぬぞ」

 秀吉はにやりとした。

 家康はしぶしぶ受け入れた。今、関東は都会ではあるが、この頃は、草が生い茂る一面の湿地帯で、”田舎”であった。家康はそれを知りながらも受け入れた。家康は関東を江戸と称して開拓にあたった。大都会・江戸(東京)をつくるのに邁進した。

「ふん、家康を関東の田舎におっぱらってやったぞ。京都と大阪はがっちり守っていかねばのう」秀吉は高笑いをした。これで………天下を獲れる。そう思うと、胸がうち震えた。 天下人じゃ! 天下人じゃ!  秀吉は興奮した。

話を戻す。

 これは秀吉と和睦するしかない。家康は決心した。

 家康は十月二十日、上洛した。もう夜だった。

 徳川家康は座敷で辛抱強く待った。座敷は蝋燭のほのかな明りでオレンジ色だ。秀吉はやがて上機嫌でやってきた。「家康殿、よくぞまいられた!」

「関白殿にはごきげんよろしゅう」

 秀吉はにこりと笑って「堅い挨拶なぞなしじゃ、家康殿」といい、饅頭を渡して「これでも食ってくだされ。腹が減ってるにゃら、おまんまも用意するでぇが」

「いいえ。関白殿、おかまいなく」

「家康殿、悪いんじゃが、わしを立ててはくれまいか?」

 秀吉は続けた。「わしのつくる政府の五奉行のひとりになってほしいのじゃ」

「……秀吉殿の家来になれと?」

「いや、形式だけ。形だけじゃで」

 家康は平伏し、「わかりもうした。この家康、関白・豊臣秀吉公の下で働きまする」

「そうか? かたじけない、家康殿!」

「関白殿にはもうそのような陣羽織りは着せません。関白殿にかわって戦は私が指揮し、関白殿はゆっくりと後方で休んでわれらを見守ってくだされ」

 家康は下手にでて、平伏した。秀吉は感激し、そして、次の日の大名たちとの会議でもわしに平伏する演技をしてくれ、と頼んだ。そして、家康はみごとに演技をした。

 こうして、徳川家康は秀吉の”形式”だけの家来となったのである。

 おねは「猿と狸の化かしあい」と陰で笑った。それをきいていた利家が、「猿は化けぬでしょう」と笑うと、おね(北政所)は「いえ。あの猿は化けますのよ」とからから笑った。なんにせよ、秀吉は天下人となった。

この物語『細川ガラシャ』の小説ではとんでもない悪役に設定するべきである。そして明智光秀がいいひとになる(小説上の設定)。これはドラマ化舞台化映像化での条件である。



          唐入り



 大和と河内、紀州の一部をふくめ百万石の大名と小一郎秀長がなると、神社仏閣からいろいろ文句がではじめた。しかし、一年もたたないうちに抗議がなくなった。秀吉は不思議に思い「小一郎、大和はどうかな?」と尋ねると「うるさくてこまっている」という。「具体的にはどうしておるのじゃ?」ときくと「金でござるよ」といったという。

 これは今でこそ珍しくないが、領土の代わりに銭を渡して納得させた訳だ。「新しい領土は与えられないけれども、そのかわり銭をやる」……ということだ。米や土地ではなく、銭、これは新しいアイデアだったに違いない。

 しかし、そんな小一郎秀長は死んでしまった。病気で早死にしたのだ。

 秀吉はそんな弟の亡骸にふっして「小一郎! おまえがいなければ豊臣家はどうなるのじゃ?」と泣いたという。小一郎は秀吉のために銭をたんまりと残した。矢銭である。

 しかし、秀吉は暴走していく。”良き弟”を亡くしたために……

「家康や大名たちをしたがわせるためには、豊臣の戦力を拡大することだ。それには矢銭(軍資金)をしっかりためこむことだ。まず農民からきびしく年貢米を取り立てよう」

 太閤となった秀吉は、一五八二年から太閤検地で農民から厳しく年貢を取り立てた。次に、農村に住んでいた武士を城下町に集合させ、身分をはっきりとわけた。

「次は、農民が一揆をおこせないように武器をとりあげることじゃ」秀吉はいった。「一向一揆や土一揆にはまいったからのう。信長公も刀狩をやられたがこの秀吉はもっと大掛かりな刀狩をやるぞ!」

 京都や奈良の大仏よりもでっかい大仏をつくる、そんな理由で秀吉は刀狩を行った。農民や僧侶から刀をとり、反乱をおこせなくした。

「年貢にはかぎりがある。商業をおこしてお金をがっぽりもうけるのじゃ。信長公のまねをして、市場の税や座という組合をなくそう! いままでは大名の領地によって違った銭が流通しているが、全国に通用する銭をつくろうぞ!」

 秀吉は経済政策をうった。大名用の天正菱大判をつくった。商工業がさかんになった。秀吉は、貿易は自由にしなかった。主君よりも神をとうとぶキリスト教を弾圧した。キリスト教を禁止し、貿易だけできるようにしたのだ。

 そんなおり、息子の鶴松が死んだ。まだ赤子だった。

 秀吉はショックをうけた。何ともいわなかった。当然だろう。世界の終わりがきたときになにがいえるだろう。全身の血管の血が氷になり、心臓が石のようにずしっと垂れ下がったような気分だった。

 北政所(寧々)は眉をひそめたが、また秀吉のほうを見た。秀吉はその場で凍りつき、一瞬目をとじた。秀吉は急に「そうじゃ、唐入りじゃ! 唐入りじゃ! 鶴丸は死んで唐入りをわしに命じたのじゃ」とぶつぶついいはじめた。もう全国を平定して、大名たちに与える領地はない。開拓されていない東北北部と蝦夷(北海道)くらいだ。そうだ! 明国だ。朝鮮を平定し、明まで攻め入り大陸の領地をとるのだ!

 北政所はなぐられたかのようにすくみあがり、唇をきゅっと結び、秀吉が四方八方から受けているであろう圧力について考えた。秀吉は圧力釜に長いこと入りすぎていたためすべてのものがこぼれて、とんでもないことになっている。もう誰も秀吉をとめられなかった。「信長公以上の天下人となるのだ」秀吉は念仏のようにいった。


 家康と秀吉は会談した。

 家康は五十歳になり、秀吉は六十代であった。家康は朝鮮・中国出兵に反対しなかった。というより、これで豊臣家の軍費がかさみ、徳川方有利となる。朝鮮や明国など屈服できる訳はない。これで、勝てる……家康は、顔はポーカー・フェイスだったが内心しめしめと思ったことだろう。バカなことを……

 秀吉と家康は京を発して九州の名護屋城へ入った。

 秀吉の朝鮮戦争はバカげたことであった。それ自体が、あまり意味があるとは思えないし、秀吉の情報不足は大変なものだった。秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心についてまったく情報をもっていなかったのだ。家康は腹の底でしめしめと笑った。

 加藤清正と小西行長が先発隊としていき、文禄元年(一五九二年)六月から十一月ぐらいまでの最初の六ケ月は実にうまくいき、京城、平譲を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はずっといけると思った。しかし、この六ケ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。    で、十二月、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲どころか大砲まで装備していたそうで、日本軍はたちまち負けてしまったのだという。

 秀吉は、朝鮮を属国にして明国を攻める足場にしたいと考えていた。つまり、明と朝鮮との関係に関しても無知だったのだ。

 小西行長と宗義智はそれを知っていたため必死にとめようとしたのだ。家康も知っていた。朝鮮や大陸での戦がいかに難しいか、を。本来なら二人の王子を捕虜にした時点で、その王子たちを立てて傀儡政権をつくって内部分裂をおこさせるのが普通であろう。しかし、秀吉はそれさえしなかった。若き日、あれだけ謀略の限りで勝利していた秀吉ではあったが、晩年はすっかりボケたようだ。

 やはり”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という西洋の格言通りなのである。天下人となった秀吉は頭がまわらなくなった。

「なんたることじゃ!」日本軍不利の報に、秀吉は名護屋城の前線基地でジダンダをふんだ。「太閤殿下、そう焦らずとも……まだ先がござりまする」家康はなだめた。

(もっと苦しめ、秀吉のもっている銭がなくなるまで……戦させよう)

 家康は自分の謀略に心の底でにやりとした。

 しかし、狸ぶりも見せ「私を朝鮮攻めの前線へ!」と真剣に秀吉にいった。ふくみ笑いを隠し通して。石田三成も黙ってはいない。「いや! おやじさま、この三成を前線へ!」「よくぞ申した!」秀吉は感涙した。

 すっかり老いぼれた大政所(なか)は、名護屋城を訪ねてきた。なかは秀吉の顔をみると飛びかかり、「これ! 秀吉!」と怒鳴った。家臣たちは唖然とした。

「なんじゃい? おっかあ」

 なかは「朝鮮のひとがおみゃあになにをした?! 朝鮮や明国を攻めるなどと……このバチ当たりめ!」と怒鳴った。

 秀吉はうんざりぎみに「おっかあには関係ねぇごとじゃで」と首をふった。

「おみゃあはこのかあちゃんを魔王のかあちゃんにしたいんか?! 朝鮮を攻める、明国を攻める、何にもしとらんものたちを殺すのは魔王のすることじゃ!」

(魔王とは…)

 家康は思わず笑いそうになったが、必死に堪えた。

 秀吉は逃げた。なかはそれを追った。すると座敷には家康と前田利家しかいなくなった。「魔王だそうですな」家康はにやりとした。利家は笑わなかった。

 細川ガラシャこと珠の旦那・細川忠興は愛人を8人も囲った。それで「ゼウス様は姦通を禁じておりまする!」と反発した。

「バテレンの話はするな!」細川忠興は怒鳴った。

 珠は清原いととともに侍女に化けて宣教所にいった……しかし、”覆面”だったために洗礼も信仰も出来なかった。秀吉は、自分の女好きや女集めに反対するキリスト教を禁じた。「わしの女好きが悪いってごどぎゃあ?!」

 天正十五年(1587年)、夫の細川忠興が九州へ出陣し、珠は意を決してカトリックの教えをききにバテレンの教会へ行った。教会では復活祭の説教の最中で、珠は修道士にいろいろな質問をした。そののちこのコスメ修道士は感嘆して、

「これほどまでに明晰でかつ果敢な判断が出来る日本の女性にあったことはない」と話したという。教会から戻った珠は、大阪に滞在していたイエズス会のグレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受けた(檻に入れられていたため、侍女を使わせて洗礼を間接的に受けた)。洗礼名がガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵み)である。「わたくしめは幽閉中で外出できない為、侍女より洗礼賜りました」珠は微笑んだ。しかし、秀吉はその後、キリスト教を弾圧していくことになる………

 珠は細川屋敷に礼拝堂まで造る。そして、清野いととともにゼウスに祈った。そのあまりの狂乱に忠興は激怒して、珠の侍女の耳と鼻を斬って捨てたという。

「やめてください~っ、お御屋形さま~っ!」

 ガラシャは泣いて嘆願した。









          母の死とやや




 大政所(なか)が死んだ。北政所(寧々)に見守られての死だった。

 秀吉は名護屋城であせっていた。うまいこと朝鮮戦争がいかない。そこに文が届く。またしても淀(茶々)が身籠もったというのだ。これをきいて、関白となっていた秀次は狂い、家臣や女たちを次々殺した。殺生関白とよばれ、この頭の悪いのぼせあがりは秀吉の命令によって切腹させられる。秀次は泣きながら切腹した。

 朝鮮の使者がきて、両国は和平した。文禄六年(一五九八年)お拾い(のちの秀頼)が産まれた。秀吉にとってたったひとりの世継ぎである。秀吉は小躍りしてうれしがった。「でかしたぞ! 淀!」秀吉はひとりで叫んだ。

 明国からの使者がきた。「豊臣秀吉公を日本国の王とみとめる」と宣言した。

 当然だろう。いや、わしはもうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか!

「ふざけるな! わしをなめるな!」秀吉は怒った。

 戦前の日本では、これは秀吉が”天皇が日本国の王なのにそれを明国が認めなかったこと”に腹を立てた……などと教えていたらしい。が、それはちがう。秀吉にとって天皇など”帽子飾り”にすぎない。もうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか、と思って激怒しただけだ。それで、和睦はナシとなり、家康の思惑通り、秀吉は暴走していく。出陣。秀吉は大陸に十二万の兵をおくった。

 そんなおり、秀吉は春、”お花見会”を開いた。秀吉は家臣や大名たちとひさしぶりのなごやかな日を過ごした。桜は満開で、どこまでもしんと綺麗であった。

 秀吉は家康とふたりきりになったとき、いった。

「わしが死んだら朝鮮から手をひいて、秀頼を天下人に奉り上げてくだされ」

 家康は「わかりもうした」と下手にでた。秀吉が死ぬのは時間の問題だった。家康は心の底でふくみ笑いをしていたに違いない。

 だが、どこまでも桜はきれいであった。


 細川家でも秀吉がキリスト教を弾圧し始めた頃に、侍女たちがキリスト教に帰依したことを調べられた。この事実を知った忠興は激怒して、侍女たちの鼻を刀で削いで、屋敷から追い払ったという。珠は幸にも発覚を免れたが、そんな夫に嫌気がさし、「夫と離婚して西国へ行きたい」と修道士たちに悩みを打ち明けた。

 だが、修道士たちは「誘惑に負けてはなりません」「困難に打ち勝ってこそ徳は磨かれる」と珠(ガラシャ)を説得した。ガラシャは感銘を受け、それまで気位が高く怒りやすかった性格が、忍耐強く謙虚な性格へとかわったという。


    


          夢のまた夢




 秀吉は伏見城で病に倒れた。

 秀吉は空虚な落ち込んだ気分だった。朝鮮のことはあるが、世継ぎはできた。気分がよくていいはずなのに、病による熱と痛みがひどくかれを憂欝にさせていた。秀吉の死はまもなくだった。家康たちは大広間で会議中だった。石田三成らと長束、小西が激突しようと口ゲンカをしていた。家康は「よさぬか!」と抗議した。自分の武装した兵士たちにより回りを囲み「騒ぐでない!」といった。冷酷な声だった。家康の目は危険な輝きをもっていた。「ここより誰も一歩たりとも出てはならん!」

 そして、慶長三年(一五九八年)八月十八日、秀吉は「秀頼を頼む…秀頼を頼む…」と苦しい息のままいい、涙を流しながら息をひきとった。前田利家は涙を流した。が、家康は悲しげな演技をするだけだった。


「徳川だの豊臣だのといってばかりでは天下は治められない。今の豊臣には誰もついてはこない。豊臣恩顧だの世迷い言じゃ。現に豊臣恩顧の大名衆はすべて徳川方。そのような豊臣にしてしまった。されど豊臣は百万石から六十五万石になっても一大名でも豊臣が残るならよいではありませんか?滅ぶよりマシです」

高台院(寧々)はいうが、秀頼や淀君は反発した。

「自分には子供がいないからと!あなたさまをこれ限り豊臣のひとだとは思いません!」

「この秀頼、豊臣秀吉の御曹司として徳川と戦いまする!」

……確かに、例え一大名になっても……とは子供がいないからかも知れぬ。

高台院の停戦工作は失敗した。

高台院は淀君と秀頼が籠城した大坂城が炎上している炎を遠くからみる。

涙を流し合掌し黙祷した。真夜中なのに煌煌と明るい炎の明かり……

「お前様。許して下され。私の力がおよばずとうとう豊臣がこんなことに……」

すると秀吉の亡霊が言った。

「おかか!これでええではないがじゃでえ。豊臣は一代でも役を果たした。それでええ。天下を徳川に渡した。おかかの役目もおわったのじゃ。おかか、ごくろうじゃった!」

「お前様……」

「わしのおかかになり苦労させたのう」

「いいえ。……わたしはお前様のおかかになったこと後悔はありません。またお前様の女房になりとうございまする。できれば戦のない世で……」

「はははは。まっておるぞ、おかか」

亡霊は消えた。

「…お前様?」

高台院(寧々)は再び涙を流し合掌した。「お前さま。……豊臣はお前様と私だけのものでした。」

高台院(寧々)は再び合掌して涙し、やがて、その場を歩き去った。

豊臣家の滅亡……そして永遠の豊臣…。すべては夢の中。夢の又夢。

こうして秀吉と寧々の物語は、おわった。


 ……露といで、露と消えにしわが身かな、なにわの夢も夢のまた夢……


  こうして、波乱の風雲児・豊臣秀吉は死んだ。

 享年・六十三歳。秀頼がわずか六歳のことで、あった。






天下人 徳川家康







         関ケ原合戦

        





          石田三成




  秀吉が死んだあと、五大老の筆頭で二百五十万石の巨大大名である家康は、秀吉が豊臣家を守るために決めておいた掟をやぶり、何事もひとりで決めていた。

 当然、豊臣家恩顧の大名たちに不満が生まれていた。

 しかし、時代はもう徳川だ、とするどい見方をする大名も多かった。

 家康は大阪城に入って、秀吉の子・秀頼とあった。守り役は前田利家である。前田利家は加賀百万石の大名で、秀吉の無二の親友でもあった。

「わしが秀頼さま、ひいては豊臣家を守る」前田利家そういって憚らなかった。

 しかし、そんな利家も病死した。

 家康にとっては煩いやつがいなくなって、ラッキーに思っただろう。

「このままでは豊臣家は危ない。家康さえいなくなれば…」

 石田三成は家康の暗殺を企てた。が、失敗した。慶長九年九月、秀吉の葬儀が行われた。これを機に、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだした。

 だが、それに気付いたのか、石田三成は夜陰に乗じて船で逃げていた。

 三成は複雑な心境だったに違いない。秀吉の生きているうちは我が物顔でなんでもやってきたのに、秀吉が死ねば、自分は暗殺の対象にまでなってしまう。

 かれはリターン・マッチを誓った。「豊臣家に恩のある大名を集めて、家康と一戦交える!」とにかく、かれはそのことで頭がいっぱいだった。

 石田三成の政治目標は、太閤の死で先行きが不安となった豊臣政権の護待と安泰、発展を計ることであったという。そのためには太閤の政権を破壊する危険のある家康を殺すことだった。家康さえ殺せば、諸大名はなびく。幼主・秀頼をトップに、三成が宰相となって天下に号令する。戦略としては正しかった。近江佐波山二〇万石の下級大名の三成が、上杉や毛利、島津という大大名を美濃の山奥・関ケ原まで出兵させるのに成功したからだ。 上杉らは西側が勝つと思ったから出兵したのだ。結局は負けたが、石田三成の企てだけは正しかった。まず大義名分を掲げ、有力なスポンサーを確保し、有名な大物を旗頭にすえる……まさに企てとしては正確である。

 しかし、しょせん石田三成など近江佐波山二〇万石の下級大名に過ぎない。家康のような知謀や軍事力がない。だから負けたのだ。

 さて、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだして、それに気付き逃げた三成は、なぜか家康のところへ助けを求めにきた。なぜだろう? よく分からない。

「三成殿、腹は空いておらぬか?」家康は上座で、石田三成を労った。

「いいえ」三成は続けた。「ひとつおききしたいことがござる」

「なにかのう?」

「家康殿は……豊臣家を何とこころえるのか?」

「……三成殿」家康はかれを諭した。「何事もせいてはことをしそんじまするぞ。三成殿、まずは頭を冷やし、佐波山に帰参してそれから考えてはいかがか?」

 石田三成は何もいわなかった。只、無言のまま下唇を噛むのだった。





         秀頼と淀




 九月九日、家康は大阪城に入城した。

「よくまいられた、家康殿」

 幼少の秀頼とともに上座にすわった淀殿は笑った。淀殿(茶々)は秀吉の側室として秀頼を産んで権威をもっていた。元々、彼女の父は信長にやぶれた北近江の浅井長政で、母は信長の妹・お市の方である。牋ケ岳の戦いで義父・柴田勝家と母・お市が自害して、はや数十年が経っていた。淀殿とて、目尻の皺までは隠せない。

 しかし家康は、淀殿の端正な美顔をながめ、そして男心をそそらずにはおけない愛らしい豊満な身体をながめた。なぜこれほどの美女が秀吉なんぞに……。家康はもう六十代だったが、絶倫だった。

 この淀殿もてごめにしたい……家康は彼女との夜のことを考えた。

 しかし、口では次のようにいった。

「世の中は物騒であります。しかし、ご安心くだされ。この家康、この大阪城にあって秀頼さまをお守り申す」

「よくぞ、よくぞ申された、家康殿!」淀殿は感激した。

 家康の演技を見抜けなかったのである。


 近江・佐波山城では石田三成の妻・お袖が「殿……家康と戦って下され!」とかれにせまっているところだった。三成は決心した。

「わが命、豊臣家に捧げようぞ! あのにっくき家康を討つ!」

 太閤亡きあとの豊臣家は内ゲバだらけだった。石田三成たちと加藤、福島、浅野らの抗争は激化していた。家康が逃げ込んできた石田三成を殺さなかったのも、かれの策略を読んだからだ。もし三成を殺せば、豊臣家の内ゲバはピタッとおさまってしまう。

 三成だけが死んでも、増田、長束、前田玄以、大谷吉継、小西行長などの官僚は生き残ってしまう。できるだけ内ゲバを長引かせ、崩壊に導く。そのためにあえてリスクを覚悟で、家康は石田三成を野に放ったのである。

 まことに狸としかいいようがない。




         関ケ原合戦とガラシャの死




          

「三成め、会津(福島県)の上杉景勝と手を組んだらしい」

 家康は伏見城の上座で、いった。それにたいして家臣の鳥居元忠が「それで上杉が戦の準備をして、挑戦状をよこしたのですな」と頷いた。

 上杉景勝は上杉謙信の甥(謙信の姉の子、謙信は結婚もせず子ももうけようとはしなかった)で、越後(新潟県)より領地を会津に転封されていた。

「上杉との戦いに出陣する前にこの伏見城によったのは、じつはその方に話しておきたいことがあったからじゃ」

「ははっ」元忠は平伏した。

「わしが関東へ向かって出陣すれば三成は秀頼の名において、この伏見城を攻めるであろう」

「そうなればわが徳川は正々堂々と豊臣と戦える名目ができまするな」

「しかし……主力を率いての今度の出陣だ。この城にはいくらも兵は残せぬのだ」

 元忠は頷いた。強くいった。「ご心配にはおよびません。この鳥居元忠、徳川家のためなら堂々と戦ってごらんにいれます!」

「よくもうした!」家康は感激で、目がしらに涙がうっすらうかんだ。

 徳川家康に軍による上杉征伐は慶長五年(一六〇〇年)四月におこなわれた。

 こうして、家康軍は伏見城にわずかな兵だけ残し、会津に向けて出陣した。しかし、家康は軍をゆっくりゆっくりすすませ、なかなか上杉を攻撃しようとはしなかった。

「殿、上杉を早く討ちましょう!」家臣が催促した。

「まて、せいてはことをしそんじる」

 家康はどこまでも冷静だった。

 そこに早馬の伝令が届く。

「殿、三成は四万の軍勢で伏見城を攻め落としました」

「三成め、やりおったか!」

「元忠殿はよく戦い、自害して果てました」

「元忠…が」家康は暗くいった。

 家臣のものが「すぐに引き返し、豊臣の軍を打ち破りましょう!」といった。すると家康は右手をあげて掌で制し、「この中には秀吉公の恩を受けた武将もおられよう。その大名の方は大阪へ帰って、三成に味方してもこの家康決してうらみはせぬ」

 陣の一同はしんとなった。

「この福島正則、秀吉公の恩を受けたとはいえ、三成ごときめの味方などできません」

 正則がいうと、続けて鎧姿の大名たちは「われらに指図しようなどかたはら痛いわ」といった。「この黒田長政、あんなやつに天下をとられては腹の虫がおさまらん」

 家康は意を決した。

 そして「元忠、おぬしの死を無駄にはせぬぞ。……よし! 出陣じゃ! 西方にむけて出陣! 三成の首をとるぞ!」と全軍に激を飛ばした。

 こうして、西へむかって進む家康軍(東軍)は、福島正則を先頭とて、以下、黒田長政、細川忠興、池田輝政など総勢十万五千であった。

 三成は慶長5年(1600年)の関ケ原合戦前に大阪大名屋敷を次々と包囲した。狙いは諸大名の妻子を人質に取ることである。七月十六日、細川屋敷にも三成の手勢千が包囲していた。珠を人質にして細川忠興を味方に引き込もうとしたのだ。ガラシャはそれを拒絶した。家臣が「奥方さま、命が危のうござりまする!」という。

「かまわぬ! わらわが脅しに屈して人質となればやはり明智の娘よ、臆病者よ、と細川家を嘲け笑う者もでよう! わらわはいかぬ!」

 翌日、細川家屋敷を取り囲んでいた千の手勢は実力行使に出ようとした。

「奥方さま! いかがしましょう?」

「わたしは人質になる訳にはまいりませぬ。自害します。そちたちは逃げよ!」

 女中たちが「わらわたちも奥方さまのお供をします!」というが、珠は断った。

「ゼウス様は命を大切にせよ! …と教えてくださっている。命はわらわひとりで十分じゃ……そちたちは逃げるのです!」

「お……奥方さま!」清原いとら一同は泣き崩れた。

 ガラシャは目をつぶり、深く深呼吸をすると「屋敷に火を放つのです!」という。

 そして、家老の小笠原秀清(少斎)を呼んだ。

「小笠原。侍女たちや家臣たちは逃がしたか?」

「はっ! 奥方さまは…?」

「われはキリスト教徒ゆえ自害はならない。その槍で早くこの胸を突いておくれ!」

「…しかし…奥方さま!」

「はよう! 小笠原、自害しては極楽浄土に行けぬのじゃ! 細川家の為に早よう!」

 小笠原はすべてを察した。そして「御免!」というと槍で、合掌して正座しているガラシャの胸を突いた。すべてが炎に包まれる。細川ガラシャ死去、享年三十八歳……

 辞世の句……『ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」…

 こうして、波乱の人生を遂げた細川ガラシャは逝った。

 その館の火は石田三成に『人質計画』を中止させることになる。この事が関ケ原の勝敗を早めたといわれているという。「た…珠…珠…!」戦場で報告をきいた忠興は泣いた。 この事件はあのマリー・アントワネットなどに影響を与えたという。

 共に享年三十八歳……運命のふたりであった。

 家康の政治目標は天下統一であった。そのため一六〇〇年になると、石田三成たち豊臣家の官僚たちを一掃する必要があった。また、石田三成たち豊臣家の官僚たちは標的を家康一本にしぼっていた。三成は幼少の秀頼を頭にしているから大義名分もたつ。

 しかし、家康はそんな錦の御旗もない。

 家康は情報戦もやった。関ケ原合戦までに諸大名におくった書状は三ケ月で百八十四通にもなるという。こうして、三成嫌いの福島正則や”風見鶏”伊達政宗たちを虜にした。 つまり、勝ったら褒美の領土をやる……ということだ。

 これは二百万石以上の大大名の家康にしかできないことだ。所詮、三成など二〇万石の小大名にしか過ぎない。

 しかし、西軍には大儀があった。東軍にはうしろめたい影があったという。豊臣系は、北政所(おね)を中心とする尾張閥と、淀と秀頼、三成を中心とした近江閥に分裂した。 毛利家も、恵瓊と吉川・小早川の門閥に割れた。

 福島正則などの東軍の先発隊は、八月十四日、正則の居城である清洲城に入った。一方、伏見城をおとしていた三成の西軍は、八月十日、大垣城に入っていたのだった。家康は三成の動向を江戸で眺め、そして、江戸を出発、九月十四日には赤坂南方の、岡山の本陣にはいったのである。

「家康は佐波山城をおとし、一気に大阪をねらうつもりだな。馬鹿め! よし関ケ原に陣をひいて決戦だ」三成はにやりとした。

 東軍は十万あまりの兵力、西軍は八万五千、東軍優位だった。しかし、合戦に参加したのは東軍七万六千、西軍は三万五千といわれ数のうえで東軍が有利である。

 東軍は、浅野幸長(甲斐府中)、有馬豊次(遠江横須賀)、山内一豊(遠江相良)、堀尾吉晴(遠江浜松)、金森長近(飛騨高山)、池田輝政(三河吉田)、福島正則(尾張清洲)、前田利長(越中一国)、九鬼守隆(志摩鳥羽)、筒井定次(伊勢上野)、細川忠興(丹後宮津)、蜂須賀至鎮(阿波徳島)、生駒一正(讃岐高松)、加藤嘉明(伊予松崎)、藤堂高虎(伊予板島)、黒田長政(備前中津)、寺沢広高(備前唐津)、加藤清正(肥後熊本)。他に伊達や最上義光も参戦発表したが、実際には参戦していないという。

 西軍は、上杉景勝(会津若松)、佐竹、真田、赤座、宇喜多、長曽我部、小早川、島津島……。西軍は「鶴翼の陣」で、のちの世にドイツのメッケル将軍はその図をみて「西軍が勝ったのだろう?」と、にやりとしたという。

 家康は桃配山に陣をしき、石田三成は伊吹山に麓に陣をひいた。慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、朝八時、関ケ原の霧が晴れると同時に戦の幕がきっておとされた。

「東軍の先頭は福島正則なり! 正面の宇喜多軍を討て!」

「攻め反せ!」合戦ははじまった。

宇喜多秀家VS福島正則……

大谷吉継VS藤堂高虎……

石田三成VS細川忠興……

 家康に伝令がくる。「藤堂は大谷の陣へ、織田は小西の陣へ討ち入りました!」

「よし! 田中、黒田、細川の隊は三成の本陣をせめよ!」

 家康はにやりとした。石田三成の元にも伝令がくる。

「本陣の兵力がかなり不足してきました」

 三成は不安な顔を隠し「毛利は何をしておるのじゃ?! 一万五千の兵をもちながら……早く戦を始めるように伝えよ!」

 毛利の元にも伝令がくる。「早く戦をはじめよとの三成様からのことばです!」

 毛利秀元(毛利輝元は大阪城にいた)は「この戦、わしの思いとおりにやる。出過ぎた指図はせぬように三成殿に伝えよ」と不快な顔でいった。

 伝令が去ると、「すこしばかり頭がよくて秀吉公に可愛がられたとはいえ、たかだか二十万石の大名ではないか。加藤清正におわれたときは家康に助けをもとめたほどの腰抜けのくせに…百二十万石の毛利に指図などかたはら痛いわ」と秀元は思った。

 このように豊臣軍の中には三成に反感をもつものが多かったという。

 間もなく昼になるが、戦は一進一退でなかなか勝負がつかない。

「家康を叩き潰せ! 軍勢を家康本陣に向けよ!」

三成は唾を吐きながら叫んだ。「大筒を家康陣に浴びせかけよ!」

「われらには大坂に豊臣秀頼さまと毛利殿がついておるぞ! 負けぬ!」

大砲が炸裂する。

「…三成の小童め! 舐めた真似を…!」

家康も大砲や軍勢をさしむける。「負けんぞ、三成! 戦に負ければさらし首ぞ! 攻めよ! 逆賊石田三成の首をねらえ!」

大砲、大筒、鉄砲の雨あられである……

福島正則は「戦は殺し合いじゃ! 三成!その首を血でかざれ!」などという。

「なにをしておる! もっと毛利に動くようにつたえんかぁ! 馬鹿者!」

「三成如き! 蹴散らせ! 黒田長政、横っ腹にせめかかれ!」

三成は額に汗をしながら我鳴った。

「小早川(秀秋)さまは何をなされているのだ! 数万の兵はまだ動かんのか!」

もう激戦で互いに激突して数時間が経った。

「死にもの狂いでやれ! 戦じゃぞ!」

三成は当たり前のことを、檄を飛ばす。「勝ったら官軍! 負けたら賊軍じゃぞ!」

「三成め! なかなかしぶとい! だが、小早川が我が方に寝返ればわれらの大勝利じゃ!」

家康はにやりとして「三成! 自分の首を血でかざれーっ! おせー!」と檄をとばした。

石田三成方もなかなかに奮闘している。

………これは互角じゃな!?

「何にせよ、これで小早川金吾さまの2万騎が家康陣になだれ込めば西軍の大勝利じゃ!豊臣の勝利をつかみとれ! いけーっ!」

数万もの兵が殺戮の合戦で刃や鉄砲や槍で戦う。

まさに戦争! 戦、である!

次第に西軍の中にも獅子奮迅の働きをする兵たちもでてくる!

「よし! いいぞ! 家康の首を秀頼さまの手土産にせよ!」

三成は檄を飛ばす。

もうすぐ小早川さまが動く。家康め、これでお前の最期じゃ!

「小早川秀秋は何をしておるのじゃ?」三成は焦った。「二万もの兵をもっておるのに」

家康陣でも小早川秀秋のことで軍儀していた。「どうじゃ、秀秋の軍はまだ動かぬか」

「はっ、まだ動きませぬ!」

 家康は策をめぐらせた。「わが東軍にねがえると約束しておきながら臆病風にでもふかれとるのか…よし!」家康は小早川のたてこもる松尾山へ向けて鉄砲を一斉射撃させた。

 わすが二十二歳の小早川秀秋は動揺した。とうとう家康が怒った……とびびった。ふつう鉄砲をうちかけられたらその相手を敵としてうちかかるのが普通であろう。しかし、秀秋は軟弱な男であったため、びくびく震えて、

「……よし……西軍の横ばらへせめかかろう…」あえぎあえぎだが、声を出した。

「殿!」

「大谷の陣へ攻めよ!」小早川秀秋は寝返った。

最初、三成は小早川軍2万騎が動いたとき「これで勝利は豊臣西軍じゃ! 小早川殿が家康陣にせめかかれば大勝利!」と笑った。

だが、違った。

小早川が大谷の陣へ攻めかかり「裏切り」が明らかになると三成は動揺して手足が震えた。「馬鹿な! 小早川金吾は豊臣血族ではないか!?」

思わずそんな言葉がでた。

大谷勢壊滅……宇喜多勢総崩れ……

「殿! この嶋左近、敵をふせぎますゆえ、一事、撤退を!」

「いや……左近!まだ負けぬ!」

「…負けで御座る! 小早川陣が寝返ればもはやこれまで! 毛利も動きませぬ」

「そ…そんな馬鹿な! わしは…豊臣…」

「殿! まずはお命をおつなぎくだされ! おさらばでござる、ごめん!」

石田三成は遁走する以外に道はない。

「…馬鹿な! …馬鹿…な! 左近! 小早川! ば…か…な!」

「殿、こちらへ! …佐和山城へ逃げましょう…!」

家臣が手を引いて、三成たちは遁走する。

脇坂、小川、朽木、赤座の諸隊も家康陣営にねがえった。こうして、西軍は敗走しだした。

 午後四時頃、八時間におよんだ関ケ原合戦はついに家康の率いる東軍の大勝利に終わった。この合戦では二万五千丁もの鉄砲がつかわれたという。その数は世界の鉄砲の三分の一にものぼるという。こうして、家康は勝利した。息子・秀忠の十万の兵は間に合わなかったが、とにかく家康は勝った。

 上杉景勝は会津にいた。上杉は読みあやまった。関ケ原の戦いはもっと長引くとみていたのだ。それから出陣すればよい……しかし、短期で戦はおわってしまう。上杉のさらなる誤算は、合戦が終わると、総大将の毛利輝元が大阪城から出ていったことだという。

大阪で毛利がもっと頑張っていれば、もう少し局面は違っていただろう。しかし、いつの時代もひとは利益より恐怖に弱い。家康が、毛利百二十万石に手をつけないというと、吉川広家という毛利の甥がそれに乗り、毛利自身も大阪城を後にして川口の屋敷に逃げてしまう。こうして、関ケ原のあと、世は確実に徳川の世になった。

 石田三成は遁走した。

「くそう……佐和山に戻って再起を計ぞ!」

 しかし、三成は愕然とする。彼の居城・佐和山城が炎上している……

 やったのは小早川軍だった。

 三成は空腹のあまり生水と生米を食べて下痢になった。百姓たちの住む村に逃げ込んで「すまぬ。しかしわしは家康ともう一度戦ってやぶり、再び豊臣家の世としてみせる」という。

農民たちは感銘を受けたが、隣村の村長が裏切って追っ手がきた。

 三成は農民姿にバケて洞穴に隠れ住んだ。しかし、残念ながらみつかってしまう。

「三成じゃ! 石田三成じゃ!」

 家康は三成を後ろ手に縛り、城内部へとつれてきた。

 黒田は三成に同情した。

「三成殿……戦の勝ち負けもときの運じゃ…」

 三成はがくりと憔悴している。次々と家康側の武将がくる。しかし、小早川秀秋がくると三成は怒昴した。「奸賊、小早川秀秋! 武士の名折れ! 裏切り寝返りは歴史の汚点ぞ! 小早川秀秋! そちが徳川の腐敗の世をつくった俗物なり!」

 小早川秀秋は動揺した。まだ二十二歳の若造である。

 家康は「山中に連れていって首をはねい!」と家臣に命じた。

 黒田長政や福島正則は「……武士らしく切腹を!」と願った。

「……三成は斬首じゃ!」

 家康は頑固にそういって場を去った。

 三成は山中に連れてこられた。喉がかわいた。「水をくれまいか…?」と野武士にいう。「水はない。干し柿ならあるで」

「いや、干し柿は体に毒じゃ」

 三成の言葉に野武士たちは笑った。「この恨み百年…三百年と忘れるな。かならず徳川の世の終りがくる。歴史が語るのよ、歴史がどちらが正しかったか…」「黙れ!」

 石田三成は斬首された。慶長五(一六〇〇)年十月六日……

 享年・四十一歳であった。

 辞世の句は、

 …筑摩江や芦間に灯すかがり火と、ともに消えゆく我が身なりけり…

 石田三成は遁走中に捕らえられ、切腹させられた。享年・四十一歳であった。

 息子の秀忠は遅刻した。

 かれがきたときにはもう合戦はおわっていたのだ。

「秀忠……遅かったではないか」家康はせめた。息子は「申し訳ござりません! 父上!」と平伏した。「まあ、よい……勝ったのだから…もし……わしが負けてたらどうした?」「いいえ」秀忠は首を振り「父上が三成ごときに負ける訳がございませぬ」

「さようか?」家康は笑った。

 まあ、何にせよ勝ったのだ。あとの”目の上のタンコブ”は大阪城の淀殿と秀頼だけだ。  関ケ原の戦後処理で、家康は九〇の大名を廃し、約四四〇万石を没収、減封分をくわえると六七〇万石を手中におさめ、事実上の天下人となった。が、名目上の資格はいわば「将軍代行」であったという。まぁ、さいわいなことに秀吉は征夷大将軍のタイトルがなかったから、「将軍代行」とは少し正確ではない。それが家康にさいわいした。

 家康が征夷大将軍となり、豊臣家をつぶせばいいのだ。家康は策をめぐらせた。   


 細川屋敷が炎に包まれて灰になった後、神父ガネッキ・ソルティ・オルガンティノは屋敷後を訪ねてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を悼み、悲しみ、慶長六年(1601年)にオルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列した。後に珠・ガラシャの遺骨を大阪の崇禅寺に改葬した。

「珠…許せ!」忠興は自分の為に死んだガラシャの死を悼んで涙を流した。

 ガラシャの墓は他にも、京都大徳寺や肥後熊本の秦勝寺など数箇所にあるという。

 細川ガラシャはこうして悲劇的最期をとげた。

 それからの家康の行動は皆様ご存じの通りである。

 ガラシャよ永遠なれ、こういって筆を納めたい。


                            おわり


略歴

年 珠の略歴 忠興の動向 実子の事績 備考

1563年 越前にて出生 京都にて出生 細川京兆家の晴元・氏綱死去

1578年 長岡忠興と結婚 明智珠と結婚

1579年 長女・ちょう誕生 明智光秀、丹波平定

1580年 丹後・宮津城へ転居 父・藤孝が丹後半国を拝領 長男・忠隆誕生

1581年 京都御馬揃えに参加

1582年 味土野に幽閉 父より長岡家督を継承 本能寺の変

1583年 幽閉状態 賤ヶ岳の戦いに参加 次男・興秋誕生

1584年 京・宮津へ転居 小牧・長久手の戦いに参加

1585年 紀州征伐に参加 秀吉が関白就任

1586年 大坂に転居 三男・忠利誕生 天正大地震

1587年 大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る

(離婚を考えるが思い留まる) 九州征伐に参加 次男・興秋が受洗 バテレン追放令発布

1588年 次女・たら誕生

1590年 小田原征伐に参加

1591年 秀次が関白就任、秀吉は太閤に

1592年 晋州城攻防戦に参加 文禄の役

1593年 晋州城攻防戦に参加 文禄の役

1595年 忠興に信仰を告白 屋敷内に小聖堂を造る 次女・たらが受洗 秀次事件

1596年 長女・おちょうが受洗 慶長大地震・サン=フェリペ号事件

1597年 慶長の役開始・二十六聖人の殉教

1598年 三女・萬が誕生 秀吉死去・慶長の役終了

1599年 三成屋敷を襲撃

1600年 大坂・細川屋敷にて死去 関ケ原の戦いに参加。次男・忠隆を廃嫡 三男・忠利が後継ぎとなる

(1601年) 京の教会でガラシャの一周忌を行う

           おわり   

「参考文献」 ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

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ガラシャ 細川ガラシャ物語 長尾景虎 @garyou999

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