第5話
紫苑の花が風に吹かれて揺れている。紫色のその花弁は、太陽の沈みかけた今の時間帯の空をそのまま写し取っているように柔らかく、ゆりかごのようにすべてを受け止めてくれるような気がした。
彼女の手を引いてここに来て30分経った。道中おかしな目で見られたのはきっと、彼が見えない誰かの手を引っ張ているように見えたからだろう。しかし、その時の彼にそんなこと気にしている余裕などなかった。
この真相を彼女に話してよいのかわからなかった。彼女に行きたいところがあるか聞いたのは真相を話せば彼女が成仏することを理解して、せめて最期は好きな場所でという思いからだ。この考えをする方の自分はロマンチストの気があるのだろう。探偵という自分を形作る人格。
一方、彼女が最期の地として選んだこの美しき花園にこの事件の残酷な真実を持ち込み、この真実を告げられたという現実を彼女の最期にしていいのかという思いもあった。こっちの彼はリアリストであり、これが彼の根本の人格である。
「綺麗だな」
事実だった。紫苑の花園もそうだが、その中に消え入りそうなほど静かに佇んでいる彼女は、この世のどんな言葉をもってしても語り切れぬ美しさがあった。
「ねえ」
「なんだい?」
「話して。迷ってるんでしょ? 貴方がたどり着いた事実を、私に話していいものなのかと」
彼女は彼をのぞき込む。彼女の瞳に写っている彼は、先にあげた両方の人格の壁に押しつぶされそうになっていた。臆病者で人の目をうかがう小心者。これも彼の本来の人格の一つだ。
「私、貴方が話してくれた真実なら、どんな残酷なものでも受け入れられるような気がする」
「そうか。なら話そう」
彼は近くにあった柵にもたれかかった。そうでもしないと、緊張で倒れてしまいそうだったから。
「犯人は」
声がかすれた。まだだ。まだ声が出ない。ふとある考えが去来する。そうだ、そうすればいい。この考えを持った瞬間、喉のつまりが取れたと同時に彼の人格のうち二つが殺された。
「プロデューサーだ」
言い切った直後の彼女の表情を、言葉にすることができなかった。見開かれた瞳はすぐに閉じられ、彼女は彼から目を背けて紫苑のほうへ向き直ったからだ。
「アリバイ、あるんじゃないの?」
「……あの蛍の映像、あれは嘘だ。あの映像のように一度に多くの個体が飛ぶのはゲンジボタルという蛍の習性だが、この時期にはもうあそこまでの量のゲンジボタルはのこっていないよ。主に出るのが5月から7月だからな。あとはヘイケボタルという蛍がいて、こいつは一年中見られるけど、一度にああやって飛ぶことはあまりない」
「ヘイケボタルが異常発生したとかそういうのは」
「それもある。だが映像のホタルは4秒間隔で光っていた。ヘイケボタルは明滅周期が0.5秒と短いからな。あの映像の蛍はゲンジボタルだ。そもそもあれが関西で撮られたというのも嘘だろう。蛍は住む場所によって光が明滅する間隔違うんだ。ゲンジボタルの場合、東日本だと4秒、西日本だと2秒、境目付近は3秒。あの映像をこの時期に関西で撮ることは不可能だろう。多分去年あたりに関東のどっかしらで撮ったんだろうな」
彼は推理を話し続ける。
「それからプロデューサーは足を怪我したといっていたが、あの怪我はただのキャンプでできるものじゃない。あれは自分より小さいサイズの靴を長時間履いた痕跡だ。だから足の指の間の皮が爪でめくれ、足の淵に鬱血痕のような痣ができたんだ。現場に一人分の足跡しか残されていないのもそれで納得がいく。プロデューサーはお前を鈍器か何かで殴って気絶させた後、お前の首をロープで圧迫し頸椎を折った。そして同じモデルの靴を履き、お前を担いで公園に向かった。あとはお前が死後に木から落ちたように見せて、自分のつけた足跡を今度は後ろ向きに歩いて行ったんだ」
彼は推論を話し終え、彼女のほうを見る。彼女は紫苑を見たまま微動だにしない。しかし、彼は紫苑にずっと向き直っている彼女の肩が小刻みに震えているのに気が付いた。泣いているのかと思ったが違う。彼女は、笑みをこぼしていた。笑っているのだ。
「なんだ。やっぱりそうだったんだ」
「え?」
彼は彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「なんだか、そんな気はしてたんだ。あんだけ身の回りを警戒していた私が殴られるまで他人を近づけるなんてありえないし。でもそっかーショックだなあ。やっぱりそうなんだ」
「なにか思い当たる動機は?」
「多分、去年の9月の終わりごろくらいかな。プロデューサーがいかつい男の人にお金渡してるの見たからかな。私、物陰の隅からばれないように見ていたつもりだったのに。やっぱり不自然だと思ったんだー。あれだけ反対していた人たちの態度が一瞬で変わるなんておかしいよ。いかに最新の防音設備があってもね」
恐らくその「いかつい男」は裏社会の人間だろう。だからその取引を見られた彼女は消され、その裏社会の人間とかかわりのある誰かが警察上層部に圧力をかけたのだろう。
そして、彼女はそれを頭のどこかでは理解していたものの、その事実を受け入れるのを拒み、彼の前に現れたのだ。彼女が成仏できなかったのは真実を突き止めてほしいからではない。彼女の思っていることが事実だと、信頼していた人物の一人が自分を裏切っていたことを認めさせてほしかったのだ。
「でも、よかった」
「え?」
彼女はようやく彼のほうを向く。その顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたものの、憑き物が落ちたように爽やかな顔で笑っている。そこにはアイドルとしての美しさも気品もカリスマ性もない。でも、とてつもなく綺麗で、どこまでも輝いていた。
「最期にこうしていろいろなことできて。初めて誰かにご飯作ったし、誰かのために掃除もした」
「初めて、好きになった人と街を歩けた」
彼女の体はだんだんと薄くなり始めていた。モルフォチョウの鱗粉のような青白い光が徐々に足元から流れ出していく。今の彼にはそれを止めるすべはなく、ただ彼女が還っていくのを見ていることしかできなかった。
「ねえ、紫苑の花言葉って知ってる?」
「……知らないな。教えて」
彼女は少しいたずらぽく微笑んだ。
「君を忘れない」
彼女が消えていく。その存在が蜃気楼のように泡沫のものであることを証明するように、最初から存在しなかったように消えていく。彼女が消えたら、彼女との日々の中で彼の中に形成されたなにかが消えてしまうような気がした。思い出でも記憶でもない、それよりももっと尊いものだ。だからせめて、彼女が教えてくれた紫苑の花言葉だけは忘れないようにそっと心に刻んだ。
「ああ。彼女、成仏したのね」
ふと、声がした。柔らかくてよく通る声。だが、その声音は対岸の火事を人混みの中から眺めているような、無関心で、冷めたものだった。
「ええ。やはり見えていたのですね」
「まあ、霊感あるからね」
彼の後ろに立った女は煙草の煙を天に向けて吐きながら呟くように言った。その煙はまるで彼女にあげられた線香の煙を思わせる。
でも、目の前の女にそんな純朴な意図は決してないだろう。
「僕は彼女を裏切った。僕が彼女に話したのはあくまで半分、犯行という部分だ。僕は彼女にこの事実を告げるのがひどく……怖かった。それが彼女を、真実を求めていた依頼人を裏切るものだとしてもだ」
彼は目の前の虚空を握る。そこに彼女の冷たい気配は存在せず、夏の生暖かいだけの空気が彼の手の中で破裂した。
「それじゃあ、本当の真相をここで明かし、彼女のもう一つの墓標としましょうか」
「この事件の真の黒幕、西城綾香さん?」
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