第4話
そのアイドル事務所は繁華街の往来から少し離れた閑静な住宅街にあった。彼はここに事務所を立てることに対して地元住民が反対しなかったのだろうかと不思議に思った。警備員室に行き、名前と要件を言ってから中に入る。
「ここ、最新の防音設備がありますからね。反対していた人も応援してくれるようになりましたよ。あ、あと今朝の味噌汁の味どうでした?」
「美味しかったよ。ありがとう」
「……でも、ほんとうによかった」
「何が?」
「化けてたどり着いたのが、貴方のそばで」
相変わらず彼は彼女と会話するときは携帯電話を耳に当てていた。そういえば、と彼はふと思う。もし、この事件の真相が明らかになれば彼女は成仏してこの世から消えてしまうのだろうか? 彼は今この事件の真実に一歩ずつ近づいているという確信がある。もう間もなく、この事件にはケリが付くだろう。だがそれは、もう彼女と過ごす時間が残り短いことを同時に意味している。日めくりカレンダーを捲りたくない時が昔の彼にもあったが、今もその時と同じような気持ちだ。数日間という短い間ではあったが、国民的アイドルの幽霊と一緒に事件解決に奔走したこの経験は、月に行くよりも得難いものだろう。
「でも、解決しないと君は浮かばれないか」
「え? なんですか?」
「いや……なんでもない」
彼女が最初に事務所内のスタジオに行きたいと言い出したので、案内板に従って地下への階段を降りる。最新の防音設備とやらの性能は確かなようで中に入っても音が全くしなかった。
「もしかしたら練習やっていないんじゃ?」
「いや、この時間はいつも練習やってるはず」
階段を一番下まで降りると、奥に扉の隙間から光の漏れる部屋を見つけた。扉の向こうからは腹に響くような重低音が聞こえてくる。
「はい!! そこ!! また振り付け間違えてる!!」
「何回言ったらわかるの!? もうあの子はいないの!! あんたたちがしっかりやらないでどうするの!!」
重い扉を開けた瞬間、耳をつんざくような女性の怒声が耳に飛び込んできた。彼はアイドルの練習というものを初めて見たが、そこは女性がキャッキャウフフしているような男性視点の楽園はなく、ただただ厳しい世界が広がっていた。探偵も十分厳しい業務ではあるが暇がある分まだマシといえるのではないかと彼は思う。
扉を開けた音で何人かがこちらを振り向く。なぜか彼は自分が異物になったような気分になる。いや実際異物ではあるのだが。
そのままただ突っ立っているとずっと怒鳴り続けていた女性がこちらに歩いてきた。その女性の表情は怒鳴った時のまま動いていなかったが彼を見て少し驚いた表情になった。彼もこの女性と会ったことはないが、「あっ」という声が出る。目の前に立つ女性はあの週刊誌の写真集に載っていた人気ナンバー2のアイドルにして彼女の唯一の親友、西城綾香だ。
「あの、なにか?」
「いえ、ちょっと櫻井マキさんのことでお話が……」
「わかりました。ちょっと休憩しようか」
綾香は後ろで彼をいぶかしげな眼で見てくるアイドルたちに声をかけ、彼にスタジオのテーブルを勧めた。
「それで、何の御用なんですか?」
テーブルの反対に座った綾香の表情は鋭い。こちらが何者なのかをじっくり吟味しているようだった。
「実は綾香さんの事件を捜査している探偵です。いろいろお話が聞ければと思いまして」
探偵といった瞬間、綾香の態度が急激に軟化するのが肌で分かった。見えない壁が取り払われたように彼と綾香の心理的な距離が近くなる。
「ああ、探偵さんですか」
「まず、あなたとマキさんのご関係は?」
「同じグループに属している親友でありライバルです。私も彼女とは楽しい時間を過ごしました。なんというか彼女といると安心するのです。だからこそ、彼女を追い詰めた週刊誌記者を許せません。すでにプロデューサーと相談して訴訟の手続きに入っています」
最初に彼を警戒していたのは、綾香が彼を記者だと思っていたからだろう。
「ふむ。それで彼女を恨んでたものは?」
「山程います。というか正直ほかのグループからは恨まれて当然ですね。恨みつらみがこの世界の常ですから。彼女レベルのカリスマ性はほかのグループからすれば相当邪魔なものだったでしょうね」
綾香はスマホの写真フォルダを開き、懐かしむようにスクロールしていく。見せてもらうと綾香の写真のほとんどは彼女と写ったものや彼女単体のものがほとんどを占めている。
二人でテーマパークに行った写真や喫茶店でご飯を食べている写真を見て、彼は水魚の交わりという言葉を思い出した。綾香は顔つきは鋭いが大人ぽくどんなものでも包容してしまうようなおおらかさがある。反対に彼女は少し子供ぽいところがあるものの、人を惹きつける一輪の花のような天性のカリスマ性を持ち合わせている。カリスマというものはどんな者をも引き付け、思い通りにしてしまう魔性の力だが、無意識に恨みを買いやすいという負の側面も同時に持ち合わせている。きっと彼女は綾香の友人を慈しむような包容力に助けられたことが幾度もあったらだろうし、綾香のほうも彼女のカリスマ性によって、神がそうであれといったような救いの境地に導かれることがあっただろう。
ふと後ろを見ると、彼女は顔を背け、肩を震わせていた。
「綾香……消さないでいてくれたんだ……」
「この写真はSNSなどには……」
「もちろん上げてないです。彼女、プライベートを表に出すのすごく嫌がってましたから」
綾香の懐かしむようなその笑顔は、少し寂しそうに歪んでいた。
彼女のプロデューサーは恰幅の良い中年の男だった。うまくやれば稼げる職業柄なのかスーツも仕立ての良いものだと一目で分かった。さぞ靴もお高いのだろうと見てみたが、どうやら足を怪我しているらしくサンダルを履いていた。足の指の間の皮は向けて血がにじんでおり、足の淵は何やら紫色に変色している。
「お見苦しい姿で申し訳ありません。なにせ趣味がキャンプなもので、よくケガして帰ってくるのですよ」
プロデューサーは人当たりの良さそうな笑みを作った。だがやはりこの世界を生き抜いてきた食わせ者ではあるのだろう。こちらをじっくりと観察しているのがプロデューサーの目線から分かる。
「彼女が亡くなった時も実はキャンプに行っていたのです。今はそれをとても後悔しています。話を聞いてやればまた結果は違ったものだったでしょうに……。本当にしつこい記者ですな。彼女が両利きなんて初めて知りましたよ」
「心中お察しします。ところでキャンプってどこまで行ったんですか?」
「関西にあるホタルの名所です。とても綺麗でした」
プロデューサーはその時の動画を見せてきた。真っ暗闇の中、何百何千という数のホタルが飛び交っている。そういえば蛍は昔、死者の魂の運び屋だといわれていたらしい。川という境界を越えて、蛍は死者の魂を向こうの世界に運ぶのだという。それを考えれば、なかなかにこの世界は気の利いた皮肉を言うものだ。
「1、2、3、4……ん?」
なんとなく蛍の明滅時間を数えていると、彼の脳は彼の持つ知識と今しがた脳で処理された映像を比較し、その差異を違和感として彼に伝達する。
「どうしました?」
「あ、い、いやなんでもないです。どうでしょう。彼女に明確な恨みを持つ人って誰かいませんか?」
彼は取り繕うように次の質問を口にした。
「恨み? 彼女って自殺で亡くなったのでは? 警察からもそう聞いているのですが……?」
「一応です。一応」
プロデューサーは少し考えるようにうつむいた。
「まあ、この世界は無意識に恨みを買うような世界ですから。特に彼女は我々と敵対していた他事務所からすれば目の上のたんこぶ、邪魔な存在でしかなかったでしょう。もし、他殺であるのならば恐らくそれかと。過去にも同様の事件は何件かありますからね」
彼と彼女はそろって事務所から出た。片方はしかめ面、もう片方は泣き止んだ後のぐずぐずの顔という第三者からすれば不審な光景にしか見えないが、彼女は他人からは見えないので男が一人、しかめ面で立っていることになる。
「なあ、どっかいかないか? まだ日は暮れないし」
「……それじゃあ、紫苑の庭園に行きたい」
彼は彼女の腕をとって植物円のほうに歩き始める。ひんやりと冷たい腕は彼女がもうこの世のものでないことを彼に思い出させた。
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