第2話 Jazz Piano
ジャーン
部屋にピアノの音がうるさく響く。
俺は譜面台に置かれた白紙の楽譜を投げ捨てた。
バサバサッと紙が床に散らばり、そして何者かの足元に当たった。
ピアノに突っ伏した顔を上げる。
「まだいたのか」
そこにいたのは天使のような容貌をした男だった。何せ絵に描いたような白い翼を持っているのだ。
一週間ほど前に突然姿を現したこの男は、死神とかいうものらしい。最初は馬鹿げた泥棒だと思ったが、この男、日が昇ると忽然と姿を消し、そして夜になると再び現れる。念のため家政婦に色白の男が訪ねて来なかったかと聞いてみたが、色白の男なんてあなた以外にはいませんよと返されてしまった。
どうやら天使にしか見えない男は本当の死神らしい。
「いい加減、俺を連れてったらどうだ。お前、俺の魂を獲りに来たんだろ」
俺の問いかけに死神は何も答えない。そして俺を無視して足元に散らばった楽譜を一枚一枚回収し始めた。
はぁ。本当にどういうつもりなんだろうか。
こんなやり取りを毎日続けるばかりで、一向に死神は俺をあの世へ連れて行かない。
俺は窓辺の椅子にガタンと腰かけた。
外から虫の鳴く声が聞こえてくる。
シンガーソングライターになると夢見て上京。両親の反対を押し切ってほぼ勘当状態。よくある話だ。東京に行ったからといって、すぐにどうこうなれる訳じゃない。ライブハウスに出させてもらいながら、その他の時間はバイト三昧。
そんな生活を続けて無理がたたったのだろう。
突然声が出なくなってしまった。
これから歌手になろうっていうのに喉の病気だとよ。笑える話だ。しばらくはそのままバイトで食っていたが、次第に体の方も動かせなくなってきて、どうしようもなくなって親に連絡を入れた。俺の方からかっこつけて出ていったのに恥ずかしいのなんの。
そういうわけで今ここに至る。
親は金だけはある家だったから、別荘なんてものを持っていたりして。
無駄に空気のきれいなこの場所に俺と家政婦だけ。だだっ広い家で生活している。
この家は音がない。なんてつまらないのだろう。
しかし、いざピアノに向かってみても何も浮かばない。
上京する前、高級ピアノ目当てに入り浸っていたあの頃は、楽譜に書き留めるのが追い付かないほど、メロディーが溢れてきたのに。
ゴホッゴホッ
咳の音が響く。
俺はピアノのほうを見やった。あの死神はまだそこにいた。
「なぁお前、早く俺を連れて行ってくれよ。もうこの世はうんざりだ。歌も歌えないシンガーソングライターなんていらねぇんだよ」
死神はこちらのほうをじっと見るばかりで何も言わない。
その姿にだんだんと腹が立ってきた。
「ふざけんなよ。いつまで俺をこんな宙ぶらりんにさせとくつもりだ。首根っこでも捕まえてさっさと帰れよ。それともなんだ?アニメみたいに死神の鎌でも持ってんのか?それならさっさと魂刈ってけよ――ゴホッゴホゴホ」
せっついてしゃべりすぎたせいで喉が悲鳴を上げている。そばにあった水を手に取って、ゆっくりと飲み干した。
咳が収まり、息をつくとふと、ガタンとピアノから音がした。
死神がピアノの蓋を開けている。
「おい、何してんだ」
急いで立ち上がって、ピアノの元へ向かう。
すると、ポロンと音が響いた。
それから死神はしっかりと椅子に座って、今度は両手を鍵盤に伸ばした。
俺はその手を凝視した。その指が動くさまを。
死神はゆっくりとメロディーを奏で始めた。続けて左手も和音を鳴らす。
ドシラソファソラドシラソファミ。
「『
ジャズのスタンダードナンバーだ。
俺ははっとして大きな窓から外を見た。
そこにはまあるく白いお月様の姿があった。
そういや今日は満月か。死神のやつ、こんな曲知ってたのか。
しかし俺が哀愁に浸る暇はなかった。それどころか次第にイライラが増していく。
何だこの音楽は。いや音楽でもない。これは雑音だ。
かろうじてメロディーは追えているが、それも途切れ途切れ。ハーモニーに至っては和音のベタ弾き。こんなものジャズじゃない。
「あーもう、貸せ」
たまらず俺は死神をどかしてピアノに座った。
『Fly Me To The Moon』
俺もちゃんとやったことはないが、何となくのコードが分かれば後はどうにでもなる。
俺は両手を鍵盤に軽く乗せ、しなやかに指を動かし始めた。
こんなにちゃんとピアノを弾くのはいつぶりだろうか。最近は何も思いつかなくて、弾く気さえ失せていたが。ピアノってこんなに楽しいものだったか?
気分が上がってきて、俺はピアノソロを展開し始めた。もちろんアドリブだ。左手もリズムを刻んで遊んでみる。ところどころ変な和音が聞こえたが気にしない。
ああ俺は今、満月照らすステージにただ一人座っている。俺の音だけが響いている。
今この瞬間、俺は音楽をやっている。
単純な感動。
単純な気づき。
そうだ。俺は音楽が大好きだった。
俺の奏でる音楽をよりたくさんの人に聞かせたくて。
いつから忘れていたんだろう。音楽はこんなにも自由なのに。
そして芽生えてしまった。
俺はまだ死にたくない。もっともっと音楽がやりたい。もっと生きていたい。
死神。お前どうして俺のもとに現れちまったんだ。お前が来なければ俺は、俺は――。
今頃まだ東京の薄暗い家で自分の目的も見失って暮らしていたのか。
もうどうしようもないな。死の間際、死神に本当の夢を思い出させられるなんて。
ああ終わらせたくない。この曲をずっと続けていたい。
でもどうしよう。気持ちとは裏腹に、音楽はどんどん盛り上がっていって、どんどんフィナーレに向かっていっている。
音楽が好きだ。
幸せだ。
まだ終わりたくない。
死にたくない。
それでも最高の音楽をこの最期の時に。
俺は最後の力を振り絞ってピアノを鳴らした。
そしてついに演奏はフィナーレを迎えた。
拍手の音は響かなかった。
しかし俺の顔は達成感に満ちていた。
数秒の余韻の後、俺は静かにピアノの蓋を閉めた。
冷たい風が窓から吹いて、白い楽譜を飛ばした。バサバサッと落ちたその紙を拾うものはもういなかった。
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