#6

「ふあ……っ」

 堪え切れず大口を開け、目を擦りながら学校へと向かう。

 空は季節もあってもう明るいが、人通りはいつもの時間帯よりかなり少ない。母の起床を待たず家を出てしまったので、空腹を満たすには給食だけが頼りだった。

 やっぱり何か食べておくべきだったかな、と鳴く腹の虫に後悔しながら歩いていると、あっという間に中学校の校門が見えてきた。


「随分と早いのですね」


 聞こえた予想外の声に、俺はギクリと硬直する。

 門壁の陰からその姿が現れる。直前まで見つからないよう隠れていたのだろう。神楽咲は俺の顔を見てニッコリと口角を上げた。


「こ、こんな時間にどうしたんだ?」

「比良人さんが朝早くに登校するのを聞きましたもので」


 そう言うが、今日の俺の行動を誰かに話した覚えはない。それなのに筒抜けになっている事態に少しの恐怖を覚えた。


「一体、どこで聞いたんだよ」

「占いのようなものです」

「……またそれかよ」


 耳にするのは何度目かになる定型文に、俺は呆れと諦めを感じていた。

 神楽咲が側にいるのはバツが悪い。

 とは言えここで逃げ出し時間を食えば、早起きした意味がなくなってしまう。ただし、俺の行動は念のためのもので、杞憂に終わるのなら何も問題はないのだが。

 仕方ない、と彼女の思い切りのなさを祈りつつ、俺は神楽咲と並んで教室へと歩き出した。


「せっかくわたくしから逃げようとしていましたのに、残念でしたわね」

「別に逃げようとしたわけじゃねーよ」

「あら強がりですか?」


 楽しそうな笑みを浮かべる神楽咲に若干の食い違いを覚えながらも、俺は視線の先の様子が気になって会話を後回しにする。


 俺と神楽咲の所属する教室。

 中には誰もいない。どうやらまだ、来ていないようだ。


 教室の中は当然明かりが点いておらず、その薄暗さで今更、早朝を実感する。

 戸を開け、やはり無人の室内にひとまず安心し、電灯を点けてから自席へと座った。すると続いて、神楽咲も隣席に腰を下ろす。


「まだ随分と時間がありますわね」

「そーだな」

「さてそれでは、どんなお話で親睦を深めましょうか」

 それも求婚を受け入れさせるため。

 浮かべる表情に事務的な本心を垣間見て、俺は神楽咲から顔を逸らした。


「……それよりお前、他に友達作ったらどうなんだ?」

 味方が出来れば多少なりは、立つ波風を収めることも楽になるはずだ。

 ぽっと出の親切心で助言をしてみるも、しかし神楽咲は必要ないと断言する。


「他人に何かを求めるほど、落ちぶれてはいませんわ」


 なら求婚はどうなんだと思うが、それはまた別なのだろう。

 言い切る神楽咲には強さと危うさがあって。

 そんなのじゃ敵を作るぞ、と忠告しようとしたところで、まさに当てはまるだろう人物がやってきてしまう。


「何でアンタらいんの……?」


 声は、教室の入り口の方から。

 そこには見覚えのあるクラスメイトがいて。

 こちらの存在を認識してか、盛大に顔をしかめている。


 相生。神楽咲に一方的な感情を抱いている女子だ。

 大体二人の取り巻きを連れている彼女だったが、教室に踏み入るのは一人だけ。


「あら? 相生さんも随分とお早い登校なんですね?」

「アンタ、おちょくってんの……っ?」


 やはり神楽咲は俺がなぜ早く登校したのかを知らないらしい。純粋な問いで相生の神経を逆撫でている。

 そしてそれは続き。

「? おちょくるとはど——あら?」


 現状を予想していた俺は、二人の間に立って神楽咲の言葉を遮った。


「相生、勘違いすんなって。俺はこいつから逃げようとして早く来ただけで、別に何かしに来たわけじゃないから」

「は? 何その嘘?」


 穏便に済ませようと試みるも信じてもらえない。まあ確かに半分は嘘だ。

 でもそれは、神楽咲から逃げようとしたという部分だけであって、何かしに来たしわけではないのは真実で。

 むしろ、何かをしようとしているのは相生の方のはず。

 とは言えそれを言及すれば、良くない方に転がってしまう。


「本当に嘘じゃないから。まあ気にすんなよ俺らのこと」


 だから俺は平穏を保つため、これで話は終わり、と自席に戻る。

 けれど一度起こった激情は簡単には消えず、そして、不意に暴発するものだった。


「比良人さんは相生さんと仲が良かったんですね」


 何も知らない者の発言。

 空気を読めないというのはそれだけで、些細な言葉も引き金に変えてしまう。



「なわけないでしょッ!?」



 苛立ちで限界まで歪んだ顔。叩きつけられた否定から連なる感情の矛先は、俺たちをまとめて貫こうとした。


「なんなのアンタら!? ずっとくっついててキモイんだよッ! そういうの、共依存って言うのよ!? キッモ! ホンットキッモッ‼」


 勢いばかりの罵詈雑言を発する相手に、何を言っても無駄だ。

 それでも神楽咲は、その強さ故に真っ向から立ち向かおうとする。


「共依存とは違うと思いますわ。わたくしはまだしも、彼はまだ振り向いてくれてもいませんし。慣れない言葉を使う時は——

「その喋り方もキモイって気づかないわけ!? 浮いてんだよッ‼ 自分は特別ってのが腹立つッ!」


 沈着な神楽咲に対して、相生は怒り任せに罵倒を投げつけた。

 そんな状況に、神楽期は困ったように俺を見る。


「どうしましょう。話が通じませんわ」

「そういうこと言うなよ……」


 すると危惧した通り、相生の沸点がまた達する。



「黙れよお前ッ‼」

 ——ガシャァン‼



 机が蹴り飛ばされ、他をも巻き込んで盛大な音を上げる。

 それにはさすがの神楽咲も口を閉じ、けれどその瞳は泰然と相生に向いたままだった。


 睨み合うようにしてしばらく。


 状態が硬直したまま時間が経っても、相生の怒りは収まりそうにない。すると痺れを切らした神楽咲が立ち上がり。

 しかし第三者によって、空気は別方向に乱された。


「あれ、もう来てたんだー?」


 開いたままだった教室の戸から、一人の女子生徒が顔を覗かせる。

 その生徒は相生とよくつるんでいる一人で、何も知らない顔で友人に笑顔を振りまいた。


「おはよーまーちゃん。……ん? って机がすごい倒れてるぅっ!? なんかあったの!? も、もももしかしてっ、学校の七不思議的なぁっ!?」


 まるで状況を理解せず、その女子は一人で騒ぎ出す。

「ほあー!」と言いながら、倒れている机や椅子を遠巻きに眺め、どこかに怪異が潜んでいないかと探し始める始末だった。


「「………」」


 すっかり当事者の俺たちが置いてけぼりになっていると、次第に他の生徒もやってくる。どうやらもうそんな時間らしい。


「……えぇと、どういう状況?」

「多分、妖怪の仕業だよ……っ!」


 登校してきた生徒たちの疑問に、相生の連れが目を輝かせながら伝えるものだから、教室内には困惑と好奇心が溢れていく。

 どんどん妙な空気になっていき、けれど注目されていない現状を好機と見て、俺はすかさず神楽咲の手首を掴んだ。


「離れるぞ」

「何でですの?」

「うやむやになった方が都合いいだろっ」


 僅かに抵抗するお嬢様を無理やりに引っ張り教室を出る。

 俺たち自身にとっても相生にとっても、何もなかった、が一番良いはずだ。

 しかし神楽咲は、思いの外怒りを募らせているようだった。


「なぜ、何もしていないわたくしが逃げなければいけませんのっ? 相生さんが噛みついてくるなら、懲らしめてしまった方が後々楽ですわよ?」

「懲らしめるってお前なぁ……」


 廊下に出ても足が重い神楽咲の反論に、俺は思わず呆れてしまう。

 とは言え社長令嬢にしてみれば、人間関係は戦場に近いのかもしれない。戦って蹴散らして生き残る、それだけが唯一の道と言う考えを持っているのかも。

 でもこんな日常でまで闘志を漲らせていれば、無駄に疲れるだけだ。


「またなんか吹っ掛けられたら教師に言えばいいだろ? そうしたらわざわざ反撃しなくたって、一言だけで片が付くんだ」

「……逃げてるみたいで嫌ですわ」


 不服げな視線を説得するため俺は、別の視点を与えてみる。


「逃げるんじゃなくて守る、そういう考えなら、納得出来るか?」

「………」

「だからまあ、やり過ごそうぜ」


 納得したかどうかわからず、不器用な笑みを作って更にひと押しするが、神楽咲はそっぽを向いたままだった。

 けれどその足取りは、少しばかり言うことを聞いてくれるようで。


「そう言うくせに、あなたは一人でどうにかしようとしてたじゃありませんか」


 さすがに俺の早起きの理由には気づいていたらしく、神楽咲は文句を垂れる。


「……いや、男ならカッコつけたいじゃんかぁ」

「締まりませんわね。それに、逃げるというのに、なんでこんなペースで歩いてるんですの?」


 神楽咲は苦笑した後、俺に捕まれる手首を見つめて更に悪戯っぽく追及した。

 それにまた、俺は気恥ずかしさを覚え、けれど誤魔化しも思いつかず口を開く。


「お前、体力ないんだろ。無理に走る必要はないし、歩いててもいいだろ」

「……そんなこと、言った覚えはありませんのに」

「見てりゃ分かる」


 神楽咲は俯いて、俺は前を見た。

 しばらくの沈黙に苛まれ、それでも歩き続ける。

 そうしていると、行き止まりにぶつかった。

 目の前は美術室。辺りの教室も、各教科専用のものばかりで、授業外はほとんど誰も寄り付かない場所だ。

 朝礼が始まるまでここで過ごすか、と神楽咲の左手首から手を離す。しかし離れようとした俺の右手は、なぜかまた繋がれた。


「……比良人、さん。改めてなのですが、」

「なんだよ?」


 呼び名が変わったような気がしつつも指摘はせず振り向く。

 視界に入った神楽咲は頬を薄く朱に染めていて。けれど変わらないまっすぐな瞳で俺を見つめている。

 そして、いつもとは違った笑みを浮かべ、相変わらずに言ったのだ。


「わたくしと、結婚してくださいませんか?」


 何度目とも知れない求婚に、俺は初めて答えを迷ってしまった。

 もちろん、断りはしたが。

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