妹の足の爪を切る

かぎろ

天使のかけらのようだと思う。

「えー、いーよー爪切りなんてさー」

「ダメ。そうやってめんどくさがって、何足の靴下に穴を開けたと思ってんだ」

、四年生だもん。成長してるだけだよー」

「それにな、爪は切っとかないと、足の指をタンスの角にぶつけた時メギャって剥がれるぞ」

「ひえっ!? おにいちゃん、痛いこと言わないでよぉ」

「おれも昔、小指の爪が剥がれたことがあった。メリャァ……ってな」

「痛い! 想像しちゃうからやめてよう」

「メリメリ……メリャメリャ……ってな」

「ちょ、ちょっとぉ」

「メリャメギャメシャメギ」


 七海ななみは悲鳴のように「だまれだまれ!」と叫びながらベッドの上の両足をばたばたさせた。愛する妹に黙れって言われたんだけど。

 いつもならこういう、からかったタイミングでベッドの上の枕やらぬいぐるみやら目覚まし時計やらが飛んでくるのだが、今回はそれはなかった。当然のことで、いまの七海は両腕を怪我している。ギブスを嵌めているので、自由には動かせない。


 おれがいま七海の部屋にいるのも、ひとりじゃ満足にベッドメイクもできない七海を介助するためだった。


「てゆーか、別におにいちゃんに頼ることなんてないしー。ななはもう寝るんだから、出てってよ。しっしっ!」

「ひでえなこの妹は。爪だけ切ったら出てくよ」

「切んなくていいってば!」

「メギャァ」

「うっ……。……やっぱ切って!」

「かしこまりましたと」


 寝転んでいた七海が上体を起こし、ベッドの縁に座る。お魚の柄のパジャマはつんつるてんだ。近ごろの七海の成長速度には目を見張る。身長はもう少しで一四〇センチになりそうだよと自分で自慢していたし、体重の方も、このまえ抱っこしようとしたら意外とずっしり重かった。小学四年生だから、もうクラスでは男子より背が高くなっているかもしれない。


 友達の影響か、ファッションやらSNSにも興味を持ち始め、雑談の中でもたまにおれが全然知らない言葉を使ってくる。発言も大人びてきた。このまえ一緒に食事をしていたら、七海が「おにいちゃんはさー、彼女とかいるの?」と訊ねてきて、そこから発展して女心とはなんたるかを説き始められた時には、愚兄は圧倒されるほかなかった。

 基本の七海は猪突猛進なアホなので、今でも「おにいちゃん! 麦茶と牛乳を混ぜたらどんな味になるか実験していい!?」「押し入れってお尻入れなのかと思ってたよ~」「そと雪ふってるよ! おいしいかな!?」などの迷言・珍行動を連発している。その一方で、もう大人の女性の仲間入りをしようとしているのだろうとも感じる。

 年齢からイメージされる幼さと、時折見せる大人の片鱗。

 狭間にいる、というよりは、まだちょっとだけ背伸びができるようになっただけだろうが、そんな七海の成長が誇らしくて仕方がない。


「爪切りどこしまった?」

「そこー」


 キラキラしたシールがべたべた貼られた小さな棚の引き出しを開ける。ヘアクリップやら何やらの中から爪切りを選んで取って、七海の足下でしゃがんだ。


「じゃ切るから。靴下脱がすよ」

「はぁい」


 可愛らしいペンギンがあしらわれたパステルブルーの靴下。両手が使えない七海の代わりに、その履き口を引っ張り、ずり下げていく。

 色白な足先が露わになった。

 足首にはほんの少しだけ靴下の跡がついている。


 おれからすればミニチュアのような七海の足を眺めた。


 靴のサイズはまだ二十一センチだったと思う。うにゃうにゃと忙しなく動く足指もこれまた小さい。そんな指先にちょこんと乗った、桜貝のような爪。みずみずしく透き通っていて綺麗だ。


「やっぱ伸びてるよ爪。よかったな、切ってくれる人がいて」

「いーからさっさとやって!」

「はいよ」


 手のひらをそっと七海の右足の裏に添えて、切りやすい高さに軽く持ち上げる。おれの手が触れた瞬間、七海の足はぴくっと震えた。

 もう片方の手で爪切りを持ち、七海の足指に近づける。

 しかし。


「……七海」

「なに、おにいちゃん」


 七海は、人に爪を切られるのが怖いのか、足の指をくにゃんと折り曲げ、縮こまらせていた。

 …………。

 なんかちょっと可愛い感じにはなってるけれど。


「これじゃ爪切れないぞ。指もっと開いて」

「えぇー……」

「切らなかったらいずれメリだぞ?」

「うぅ~……だってぇ……」

「痛くしないから。怖くないから、な? ほら、指伸ばして」

「こわくないもん! よゆうだし!」

「そうか。はよ指伸ばせ」

「うぐ~……。おにいちゃん、しょくぱん取って!」

「え? うん」


 おれはベッドの上のしょくぱん(※シロイルカのぬいぐるみ。デカい。命名者は七海)を持ち上げて、七海に渡した。七海はギブスの腕でしょくぱんを抱いた。顔をうずめている。


「七海?」

「いまのうちに早く切って」

「あ、うん……」


 勇気を出して足指を伸ばしてくれた。おれは深爪にさせないよう、慎重に切っていく。

 使わないチラシの紙の上に、七海の爪がぱらぱら落ちる。

 親指から小指の方へ。

 ぱちん、ぱちん。


 はじめのうちは「うー……」とうめいていた七海だが、右足が終わる頃には少し慣れてきたようで、「ねえ、おにいちゃん」と話しかけてきた。


「ん?」

「あのさ、い……」

「……」

「……なんでもない」

「え。なんだよ気になるなあ」

「爪切りに集中して!」

「はいはい」


 左足の爪も、怖がらせないようにゆっくりと切る。親指でさえも小ぶりな七海の足は、時折ぴくっと小動物のように身じろぎをした。

 ふたりきりの部屋に、ぱちん、ぱちんという音だけがある。

 静かだ。

 なぜだか、ふと、寂しい気持ちになる。

 七海がそこにいて、大した反抗もせず世話をさせてくれている。こんなことは今だけなのだろう。五年生になり、六年生になり、中学校へ入学し……いずれはおれの助けなど必要なくなる。それだけの力がある子だ。


 ランドセルをごとごといわせ、「おにいちゃーん!」なんて叫びながら、おれの後ろから元気いっぱいについてくる七海。

 いずれ肩を並べて、同じ速度で歩く時がくる。

 そしてきっと……


「いつもありがとうって言おうとしたんだけど?」


 小指の爪まで切り終わった後、七海がどこかわざとらしく不機嫌を装ってそう言った。

 七海の顔を見上げる。しょくぱんに隠れて、表情は見えない。

 おれは呆気にとられる。

「そう、か……」としか返せなかった。


「爪おわった? 寝ていい?」

「あ……ああ。待ってな、切った爪捨てるから。どれゴミ箱」

「それー」


 立ち上がって、爪の溜まったチラシを持つ。白く、薄く、柔らかい爪を天使のかけらのようだと思う。チラシごとゴミ箱に入れて、七海の方へ向き直る。ベッドに仰向けになっているので、タオルケットをかけてやった。


「電気消すよ」

「んー」

「おやすみ」

「はーい。おやすみおにいちゃん」

「おれの方こそいつもありがとな」


 少し沈黙がある。おれは暗くなった部屋を出ようとする。そんな背中に七海の声が投げかけられた。


「いーんだよ。ななたち、たったふたりの、家族なんだから」






 夢をみたことがある。

 おれは七海を連れて小学校への通学路を一緒に歩いていた。とりとめのない話をした。もうすぐ小学校に到着するころになって、七海が、「じゃあわたし、こっちだから」と道を外れて歩き出した。おれは激しく狼狽した。そっちは小学校じゃない。どこへ行ってしまうのか。「七海!」自分でも驚くほどの大声が出た。七海は振り返った。垢ぬけて、すっかり大人の女性になった七海が、少女の面影を残す快活な笑顔を弾けさせた。

「大丈夫! ばいばい、おにいちゃん!」

 目が覚めた時、おれはしばらく起き上がることができなかった。






「えっ、なんで!? もう爪切り終わったんじゃないの!?」

「まだやすりがけしてないだろ」

「足なんだからいらないし!?」

「おっと~? やすりで削られるのが怖いのか~?」

「はあ!? 怖くないもん!」

「はい、かけますよー」

「あっ、まって、や、やだ、こわい」

「おれを信じろ、七海」


 何気ない日々はいずれ終わる。おれも七海も、一人立ちしていく。別々の道を歩む時がきて、そうしたら、すこしずつお互いを必要としなくなっていく。自然なことだ。けれどいつまでも信じ合えたら。おれは祈った。

 たったひとりの未来に祈った。


「し、信じろって……あう……。って痛っ! そこ皮膚!」

「あれ? おかしいな」

「もぉっ! おにいちゃんのバカ! 出てってよぉ~!」




〈おわり〉

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