第234話 親子の晩餐

 まるですべてを見透かされているような、そんな気がしていた。

 いつもとは別人のようで。


『無謀と我儘は違うぞ』


 その言葉の真意を考えて、考えて――。


「——は、い?」

「わかっていないだろ」


 結局腑に落ちることはなく、アンジェリーナは首を傾げた。


「いや、意味の違いはもちろんわかるけど、何を意図しているのかなって」


 もごもごと口ごもるアンジェリーナに対し、イヴェリオはふんと鼻を鳴らした。


「二者択一の場面に直面して、それでもお前がどちらの選択肢も捨てられないとする。しかし初めから片方しか選べない状況にある選択など、両方は無理に決まっている。お前はひたすらにもがこうとするが、結局そのどちらの望みも叶えることができずに絶望する。これが“無謀”というものだ」


“無謀”。まさに今の状況のこと。

 どちらも追い求めようとしてどちらも失う。

 その道理はよくわかっている。わかっているのだけれど――。


「だが、お前は無謀な挑戦を試みようとするのだろうな?」

「なっ!」


 アンジェリーナが何か反論するよりも先に、イヴェリオは悪意を孕んだ声色でそう言った。

 ワイングラスを持ち上げて気だるげにくるくると回し、こちらを横目で見てくる。


「そんなことは——だからこそ悩んでいるわけで」

「いいや、お前はする。過去の言動がすべてを物語っている」


 う゛っ――!


 何も言い返すことがないほどに、自らの記憶が恨めしくよみがえる。


「お前の諦めの悪さは今更どうしようもない。だからこそ無駄なあがきはやめろ。時間が勿体無い」

「そうは言っても——じゃあどうすれば!」

「別の方法を考えろと言っている」

「――?」


 そのイヴェリオの発言に、アンジェリーナは目をぱちくりさせた。


 別の方法?


「さっき私は二者択一という言葉を用いた。だが現実、選択肢はなにも二つに一つではない。一見無謀に見えるようなことでもやりようはあるということだ——さえ決めれば、な」


 そう言ってイヴェリオはグラスをテーブルに置いた。

 刹那、空気の糸がぴんと張り詰める音がした。


「いいかアンジェリーナ、無謀な挑戦を“無謀”なままにするな。必ず“実現可能”に変えろ。そのためにできることはどんなことだってやる。そのくらいの覚悟を持て。障害になりそうなもの、不要だと思うものは容赦なく切り捨てろ」


 胸がどきりとした。

 一見するとただ冷たい言葉。なのに、どうしてこうも心の奥底に迫るものがあるのだろう。

 今まで見たこともないようなイヴェリオの眼光に、アンジェリーナは息をすることすら忘れていた。


「お前は自分で思っている以上に何でもかんでも大事にしすぎだ。もっと自己中心的に動いていい。己の欲求に忠実に、我儘でいろ。その言動に全責任を持つことくらい、もうお前にはできるだろう?」


 この言葉は期待ではなく義務、あるいは脅迫だ。

 この人は今、私に何かとてつもなく大きなものを背負わせようとしている。

 そんな予感が体中を駆け巡っていた。


「とはいっても、利己的に盲目になりすぎてもいけないのは確かだ。何でもかんでも切り捨てていては、自分が大切にしていたものすら失くしていないかわからなくなってしまうからな」

「――じゃあ、どうすれば?」


 その問いに、イヴェリオは一本、胸の前で指を立てた。


「一つ、たった一つでいい。自分の中に“軸”を持て」

「軸?」

「あぁ。絶対に侵してはならない核とも言っていい。それがある限り、自分が自分でいられるという証明になるようなものだ」


 自分が自分でいられるため――。


「たとえ何かを捨てなくてはならないとしても、たとえ心が耐えられなくなったとしても、一本、その軸がまだ体にあるとそう信じられれば、自分はまだ立っていられると、そう思えるはずだ――だからアンジェリーナ。お前がお前であることを諦めるな。我儘に、貪欲に、自分の望みに正直でいろ。決して足を止めるな。たとえ何を失っても、どんなに心が傷ついても、軸がある限りお前はそのままでいられるはずだ」


 その言葉は不思議なほど、アンジェリーナの心にすっと染みこんでいった。

 きっと、これこそがアンジェリーナが今、一番欲しているものなのだったのだろうと、直感した。

 そして確信した。おそらく生涯、この言葉が消えないことを。


 イヴェリオはぐいっとグラスに残った最後の一滴を飲み干すと、そのまま食卓を立った。


「お父様」


 扉の前の父の背に、アンジェリーナは問いかけた。


「お父様にも、絶対に侵してはならない軸があるの?」

「――さぁな」


 ぶっきらぼうにそう言い捨てると、イヴェリオは食堂を立ち去った。

 表情は見えなかった。

 でも――。


 アンジェリーナは数分にも満たない会話の内容を繰り返し思い出していた。


 お父様は終始、普段通りの仏頂面だった。

 なのにどうしてだろう。その瞳の奥にいつもとはまるで違う、熱のようなものが見えていた気がする。

 優しげで、どこか哀しげで。


 いつもは意見が合わずにすぐ喧嘩になるのに、今日の言葉一つ一つには確かな説得力があった。

 口を挟む気にすらならなかった。


 あ、そうか。

 たぶんあれは机上論でも夢物語でもなんでもなくて、ただの現実なんだ。

 お父様がその人生の中で経験してきた、偽りようのない現実。

 その積み重ねをあの人は、私に託してくれた。


『父の教え』



 アンジェリーナの胸に、灯火が宿った瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る