第216話 星空

「そういえば、リブス様って地震の調査で来てたんだよね?」


 情報共有がひとしきり落ち着いた頃、床で剣の手入れをするギルに向かって、アンジェリーナは唐突にそう尋ねてきた。


「本人がそう言ってたよな」

「あの地震ってさ、結構大きかったよね?王都でも揺れたし」


 どうやら、興味の話題は事件のことから地震のことへ切り替わったようだ。


「それで思い出したんだけど私、その地震の詳細について何も知らないなって」

「え?――あーそういや、俺もあんまり詳しくは知らないかも。色々と小耳に挟んだくらいで」

?」


 あ。


 ギルは言ってから気づいても時すでに遅しというもの。

 案の定、アンジェリーナは目をキラキラ輝かせてギルを見つめていた。


「えーっと、そんな大した話じゃねぇぞ?ただ、“震源は東岸沖”だとか“幸い津波はなかった”とか“デュガラは揺れて大変だった”とか“は問題なかった”とか――」

「ちょ、ちょっと待って!」


 ギルの話を遮り、アンジェリーナは慌てた様子でソファから立ち上がった。


「観測所?観測所って何?」

「――さぁ?」

「はい!?」


 曖昧な返事は許さないとばかりのアンジェリーナの圧に、ギルは思わずその場に仰け反った。


「いや俺も気になってはいたよ?気になってはいたけど、聞き耳立てて盗聴したようなことをわざわざ尋ねに行くのも、ねぇ?」

「“ねぇ?”じゃない!」


 こちらの言い訳などあっさり捨てられ、しかめ面のアンジェリーナに、ギルははい、と屈した。



 そのときだった。


 ゴンゴンゴンと部屋の扉が鳴った。

 刹那、緩みきっていた神経がピリリと張り詰める。


 ギルは剣を腰に差し、すぐさま玄関へと向かった。


 定期連絡の時間はまだ30分ほど後のはず。

 誰だ?


 警戒心をむき出しにゆっくりとドアを開く――。


「夜分遅くに申し訳ありません」

「!」


 その特徴的な低い声にギルは思わず息を飲んだ。

 扉の前、立っていたのは、デュガラ支部局長ロノウェ=ダグア、その人だった。


 ――――――――――


「突然の訪問にも関わらず、王女様直々に対応してくださり、誠にありがとうございます」

「いいえ」


 なるほど、この人がダグアさんか。


 お互いに社交辞令を交わしながら、アンジェリーナは密かにダグアを観察していた。


 確かに、ギルが怖がるのもわかる。

 顔ももちろんそうなんだけど、それよりも全身から滲み出る威圧感があるというか。

 でもまぁ私としては――さっきドアが鳴った直後のギルのほうが、よっぽど怖かったけどね。


「夜も遅いので手短に。先程、ライ様より王女様へ言伝を預かって参りました」

「言伝?」


 一体なんだ?

 そういえば、ライさんとも初日以来会えていないけど――。


「『明日、ホテル内でご案内したい場所がございますので、来朝10時にお迎えにあがってもよろしいでしょうか?』とのことです」


 ダグアが伝えたのは、ライからの嬉しいお誘いの言葉だった。

“どこ”と明言されていないのが少し気がかりだけど、そんなの断る理由にはならない。


「“ぜひお願いいたします”、とお伝えしてもらえますか?」


 爽やかな笑みを浮かべてそう言うと、ダグアは一言「承知致しました」と礼をして部屋を出て行った。



「案内してくれるんだって!」


 溢れんばかりの笑顔でアンジェリーナはギルのほうを振り向いた。


「良かったじゃん――というか、さっきと今とでテンション違い過ぎんだろ」


 ギルの小言も耳に入らないほど、アンジェリーナは内心興奮していた。

 何せ、部屋から出るのは実に4日ぶり。

 先程まではホテルの中だけという制約に少し気落ちしていたが、ライが案内してくれると知った今、たとえ外に出られないのだとしても、もうわくわくが止まらなかった。


「ねぇ、どこを案内してくれるのかな?」

「さぁな?言ってもホテルの中だけだろ?そんなに回るところがあるとは――」

「ちょっと、冷めるようなこと言わないで」


 こういうときは“サプライズがあるかも!”くらいに思っていたほうが気が楽だというのに。


「はぁ」


 ギルを横目で見ながらわざとらしくはぁとため息をつき、アンジェリーナは一人窓辺へ向かった。


 実際、大きく何かが変わるわけではないことはわかっている。

 一朝一夕で事が解決するわけではないと。


「外は外で相変わらず暗いね」

「まぁ夜だし」

「そういうことじゃなくて!」


 背後のギルに鋭くツッコミを入れつつ、アンジェリーナはじっと外の世界を見つめていた。


 街を行くのは相変わらず無数の兵士たち。

 街の灯りも少なく闇がそこにあるだけ。

 いつ打破できるかもわからない状況に自然と心が暗くなる。


 部屋から出れただけで何が変わるというのか。

 事実、初日から今まで、頭上に注ぐ視線のような気持ち悪い感覚もまだ取れていないというのに。

 ただの自己満足な気休めに過ぎないのではないだろうか。


 考えるべきことは他にたくさんあるはずなのに。

 ようやく情報も入ってきたというのに。

 考えたくなくても気が付くと、ぐるぐると自問自答ばかりしている。


「確かに、今日も今日とて真っ暗だけどさぁ」


 そのとき、真後ろから降ってきたその声に、アンジェリーナはふっと現実に引き戻された。


「ほら、見てみろよ?上!」

「――上?」


 ギルに言われるがまま、アンジェリーナは窓枠に顔を張り付かせ、上空を見上げた。


 果てしない闇に輝く満天の星。

 その一つ一つが色や明るさを違えて存在している。


「綺麗――――」

「な?すごくきれいだ」


 心の底から漏れ出した吐息まじりの呟きに、ギルは柔らかな声で答えた。


「王宮に居たらこんなの、目にしたことねぇだろ?今日は風がなくて砂も舞ってないし、街の灯りが消えてる今だからこそ、見られる絶景だ」

「――何でそんなに詳しいの?」

「ん?」


 何気ない会話の中に、どこか、彼には似つかわしくない、儚げな雰囲気が漂っているようで――。


 アンジェリーナの問いかけに、ギルはふっと笑みをこぼした。


「見たことあるから。ここじゃないけど。空の開けた真っ暗なところで」


 空の開けた真っ暗なところ?


 ――あ。


 その郷愁を含むような切ない瞳に、アンジェリーナははっと気づいた。

 彼が王都に来る前、空の明るい都に来る前、一体どこにいたのか。

 どこへ駆り出されていたのか。


「炎の明かりも煙も全部命とりで、たとえ鼻が凍るほどの寒さでも、体力温存のために眠らなきゃいけない。凍えないギリギリを保って、狭い安全地帯にぎゅうぎゅうになって寝袋に潜る。仰向けに寝転んでいるとさ、森の中、ぽっかりと空いた木の隙間から見えるんだ。きれーな空が。“あの星はなんだろう。あの星は?”って、わかりもしないのにひたすらに星を数えて。ちっちゃな娯楽ってやつだな」


 空を見上げ、あくまで明るい口調で語り上げると、ギルはすっとアンジェリーナと目を合わせた。


「だからさ、こういうちっちゃな幸せがあればいいんだよ。たとえ、どんなに空が暗くても、たとえどんなに闇が深くても、光はまだあるって、信じられるだろ?」


 ギルにしてはやるなぁ、なんて思ったって言ったら怒るだろうか?

 いや、本当にそう思ったのだ。

 心から彼を見直した。


 どんなに辛い経験をしようと、どんなに苦しい過去を持っていても、彼は常に進むことを怠らない。

 時にそれは誤った方向かもしれないけれど、でも、彼は絶対に走ることを諦めない。


 戦火の燻る空の下、ひと時の休息の中、満天の星を見つめ、静かに口元を緩ませる彼の顔が容易に想像できる。


「――そうだね」


 ギルの目を見つめ返して微笑むと、アンジェリーナは再び空に目を向けた。


 たとえどんなに今が苦しくても、過去が苦しくても、未来が苦しくても、小さな幸せを忘れずに。


 アンジェリーナの暗い心に一つ、確かな星がきらりと光った。




 ――――――――――


 ホテルの仰々しい階段を下りて一階へ。

 するとラウンジの奥、立ったまま窓を見つめ佇む、一人の青年の姿が見えた。


「お伝えしてまいりました。“ぜひお願いいたします”と」


 しかし、こちらの声に驚く様子も、こちらを振り向く様子もなく、その人はただそのまま窓の外を見つめていた。



「――今夜は雷だな。きっと」


 一時いっときの無の後、まるで自分に言い聞かせるかのように、彼はぽつりとそう呟いた。

 その瞳には、真っ暗な闇を映して。


 ふと目を向けると、窓の外にはまだ、星が光っていた。




 その日、0時を回った頃、ドォーーンというけたたましい轟音とともに、“雷”が落ちた。

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